政治家やマスメディアは、何らかの問題が発生する度に改革や変革を訴えてきました。‘聖域なき改革’や‘身を切る覚悟’といったフレーズを良く耳にするのですが、他者に対しては犠牲を強いる改革を迫っても、自分自身は‘例外’と決め込んでいるようです。そして、もう一つ、‘例外’が設けられているとしますと、それは、皇室ではないかと思うのです。それでは、何故、皇室に関する議論が控えられる傾向にあるのでしょうか。それには幾つかの原因や理由があるのですが、本記事では、‘人’と‘制度’の未分化の問題から説明してみたいと思います。
‘人’と‘制度’との未分化の問題は、世襲制に特有の問題でもあります。何故ならば、世襲制では、法や慣習等のルールによって、ポストの就任と血統に基づく相続が不可分に一致してしまうからです。血族以外の他のメンバーから選ばれる選挙制や、時には権力闘争を伴うサバイバル型の制度など、他の就任手続きとは違い、ポストもまた特定の家族の世代間で継承し得る‘相続財産’となるのであり、世襲とは、いわば、血統を基準とした資格が決定する‘自動就任システム’なのです。
民間における伝統工芸や伝統芸能等の分野でも、技や知識を確実に次世代に継承させる観点から世襲制が採られている分野もあるものの、特に問題となるのは、それが、君主や天皇と言った国家の公的ポストである場合です。民間であれば私的領域でのお話であり、他の一般の人々との間に法的な関係は生じないのですが、国家のポストともなりますと、全国民がいわば‘関係者’となります。憲法において天皇には国事行為が定められておりますので、それが政治的権能ではない形式的なものであれ、国政上の手続きの一部や儀礼的な役割を担っています。国民は、皇室の経費を負担する立場にありますし、公的な儀式に際しては、恭しく隣席を仰がなければなりません。
国家の制度上に設けられた公的ポストであり、かつ、全国民が関わる以上、皇室についても自由な議論に付されるべきは当然なのですが、上述したように、皇室については、自由な議論が抑えられています。ここで、これを拒む要因として挙げられるのが、‘人’と‘制度’の癒着です。世襲では、血統が正統性の唯一の根源ですので、‘自動就任システム’が統合機能としても円滑に働くためには、全国民が本心から崇敬させ得るほどの血統を保持しなければならないのです。それは、君主制であれば、建国の父や王朝の開祖の血統となるのでしょうが、日本国の場合には、神代に遡る皇祖の血統、即ち、皇統となります。戦前にあって天皇は‘現人神’と国民に認識され、神に近い超越した存在であったからこそ、このシステムは安定していたとも言えましょう。
そして、世襲制の維持の要となるのが‘人’の超越性である以上、この制度を維持するためには、公的ポストに就任した‘人’に対する神格化やカリスマ化は有効な方策となります。独裁体制でもしばしば散見されますが、‘自動就任システム’である世襲制では、とりわけ後継者の能力や人格は不問に付されますので、親衛隊を組織したり、‘さくら’を配置するといった、同調圧力を利用した演出効果が重視されるのです。このため、国家の制度改革としての議論まで、‘人’、即ち、超越的、あるいは、神聖とされる血統に対する不敬や侮辱として問答無用に封じられてしまうのです。
加えて、減数分裂によって婚姻により皇統が希薄化するほどに、血統の神聖性による神格化よりも、パーソナルなカリスマ化、あるいは、アイドル化?へと重心がシフトします(パーソナル・カルト化?)。皇族の車列が通る道路わきなどから女性の一団があたかもアイドルのファンのように熱狂的に‘お声掛け’する光景は、昭和以前には見られなかったものです。そして、一般国民との間に血統上の差が殆どなくなると、今度は、一般国民のレベルに自らを置いて‘人権侵害’を盾にした言論封じが始まるのです。
以上に述べたように、世襲制では、本来、公的な議論の議題であるはずの制度改革が、これと不可分に結びついている‘人’という要素によって阻止されてしまうという忌々しき問題点があります。果たしてこうした状態は、健全なる言論空間と言えるのでしょうか。そして、日本国の国制上の発展にとりまして望ましいのでしょうか。世襲による‘人’と‘制度’との一体化によってもたらされる問題を解決するためには、まずは、両者を区別して考え、地位の正統性に関する皇統の問題を含め、‘制度’に関連する事柄については、たとえ‘人’が関わる事柄であったとしても、自由な議論に付す必要があるのではないでしょうか。
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‘人’と‘制度’との未分化の問題は、世襲制に特有の問題でもあります。何故ならば、世襲制では、法や慣習等のルールによって、ポストの就任と血統に基づく相続が不可分に一致してしまうからです。血族以外の他のメンバーから選ばれる選挙制や、時には権力闘争を伴うサバイバル型の制度など、他の就任手続きとは違い、ポストもまた特定の家族の世代間で継承し得る‘相続財産’となるのであり、世襲とは、いわば、血統を基準とした資格が決定する‘自動就任システム’なのです。
民間における伝統工芸や伝統芸能等の分野でも、技や知識を確実に次世代に継承させる観点から世襲制が採られている分野もあるものの、特に問題となるのは、それが、君主や天皇と言った国家の公的ポストである場合です。民間であれば私的領域でのお話であり、他の一般の人々との間に法的な関係は生じないのですが、国家のポストともなりますと、全国民がいわば‘関係者’となります。憲法において天皇には国事行為が定められておりますので、それが政治的権能ではない形式的なものであれ、国政上の手続きの一部や儀礼的な役割を担っています。国民は、皇室の経費を負担する立場にありますし、公的な儀式に際しては、恭しく隣席を仰がなければなりません。
国家の制度上に設けられた公的ポストであり、かつ、全国民が関わる以上、皇室についても自由な議論に付されるべきは当然なのですが、上述したように、皇室については、自由な議論が抑えられています。ここで、これを拒む要因として挙げられるのが、‘人’と‘制度’の癒着です。世襲では、血統が正統性の唯一の根源ですので、‘自動就任システム’が統合機能としても円滑に働くためには、全国民が本心から崇敬させ得るほどの血統を保持しなければならないのです。それは、君主制であれば、建国の父や王朝の開祖の血統となるのでしょうが、日本国の場合には、神代に遡る皇祖の血統、即ち、皇統となります。戦前にあって天皇は‘現人神’と国民に認識され、神に近い超越した存在であったからこそ、このシステムは安定していたとも言えましょう。
そして、世襲制の維持の要となるのが‘人’の超越性である以上、この制度を維持するためには、公的ポストに就任した‘人’に対する神格化やカリスマ化は有効な方策となります。独裁体制でもしばしば散見されますが、‘自動就任システム’である世襲制では、とりわけ後継者の能力や人格は不問に付されますので、親衛隊を組織したり、‘さくら’を配置するといった、同調圧力を利用した演出効果が重視されるのです。このため、国家の制度改革としての議論まで、‘人’、即ち、超越的、あるいは、神聖とされる血統に対する不敬や侮辱として問答無用に封じられてしまうのです。
加えて、減数分裂によって婚姻により皇統が希薄化するほどに、血統の神聖性による神格化よりも、パーソナルなカリスマ化、あるいは、アイドル化?へと重心がシフトします(パーソナル・カルト化?)。皇族の車列が通る道路わきなどから女性の一団があたかもアイドルのファンのように熱狂的に‘お声掛け’する光景は、昭和以前には見られなかったものです。そして、一般国民との間に血統上の差が殆どなくなると、今度は、一般国民のレベルに自らを置いて‘人権侵害’を盾にした言論封じが始まるのです。
以上に述べたように、世襲制では、本来、公的な議論の議題であるはずの制度改革が、これと不可分に結びついている‘人’という要素によって阻止されてしまうという忌々しき問題点があります。果たしてこうした状態は、健全なる言論空間と言えるのでしょうか。そして、日本国の国制上の発展にとりまして望ましいのでしょうか。世襲による‘人’と‘制度’との一体化によってもたらされる問題を解決するためには、まずは、両者を区別して考え、地位の正統性に関する皇統の問題を含め、‘制度’に関連する事柄については、たとえ‘人’が関わる事柄であったとしても、自由な議論に付す必要があるのではないでしょうか。
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最初のほうの分段で、あなたは
『何故、皇室に関して議論が控えられる傾向に有るのでしょうか』と、おっしゃってますが、
問題提起のしかたが、事実と反しています。
実際は、『皇室に関して議論が控えられる』どころか、逆にいいたい放題の暴言
を皇室のかたがたにしている人が多いのが現状ではないですか?
しかも、なんの根拠もない妄想を織り交ぜて皇族を侮辱しているわけです。
私が、そのことに義憤を感じて、こういう意見を言わせていただいてるのも
そのためです。
何も、天皇家のかただからと言うのではなく、普通の人に対して言ったとしても
名誉毀損か人権蹂躙になることを、こともあらうに
皇族のかたやその曾祖父のかたに言い放っているわけです。
そういうことが、非常識だと思いませんか???
私が、節度をわきまえて下さい、、と何度も言いますのはそのことに他なりません。
なにも、上からの目線でいってるのではありません。
それに、若輩者から、『あなたは、非常識です』と言われることこそ、恥ずかしいとは
思わないんですか?
私は、別に皇道原理主義ではありません。カルトじゃないです。
普通の家庭人です。
ところで、私の感想は、私だけの独りよがりの意見ではありません。
参考のため、あるブログ主催者の御意見を引用します。
このかたは、派遣労働者をなさってるPGさんという若い女性のかたです。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
【皇室のかたへのパッシングや嘘八百の記事も多いですね。
愛子様に影武者がいるとかね(笑)
そのかたは、今すぐ精神病院に行ったほうがいい。】
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
このブロガーの御意見が、ごく、普通のひとの意見でしょう。
皇族のかたが、アイドル化しているという御指摘については、たしかにそういう
傾向はあるでしょう。
しかし、それは国民の大多数の皇室にたいする敬愛の感情の素直な表現でしょう。
そういう傾向に『さくら』がいると言うのはあたりません。
『国制上のポストを、特定の家族の世襲にするのは不合理だ』という意見は昔からあります。
しかし、その議論は今まで出尽くしており、そういう議論をも考慮し、【止揚】した上で、
今の国民の圧倒的多数は、立憲君主制を支持しているわけです。
世論調査によりますと、二十歳代の青年層が、飛び抜けて天皇陛下を支持する傾向
が強いことも判明しています。
世襲天皇制度が不合理だというなら、
じぁあ、日本が共和制になって、今よりもよくなると、思いますか?
そんなことになれば権力闘争が激化し、国家は不安定になるに決まっています。
常識的な日本人で、日本人民共和国や日本合衆国の実現を願う人などいません。
天皇陛下のかわりに、国家主席や総統(大統領)に統治されたいと、思う人など
いないはずです。
日本が世界最古のロイヤルファミリーを抱く国であることは、諸外国の畏敬の的であり、
国家の品格をどれだけ高めているか計り知れません。
日本の皇室は日本だけでなく、世界の文化遺産なのです。
こういうことは、国制問題で中立的な見解の人でさえ、認めていることです。
そういうのを、カルトうんぬんは、検討違いです。
ご自分のはうが、世間の常識から乖離なさっていることを御自覚なさるべきでしょう。
★☆★☆★
ところで、私は、ある人から、、、
『倉西先生のブログを読んでごらん。良いこと書いてあるから』
と、言われて、このブログを拝読しています。
もちろん、政治・経済・外交・文化などに関する御意見には適切なことを述べて
おられ、その部分で賛同できる部分については、同調コメントを述べさせて
いただいております。
しかしながら、皇室問題については、何故、倉西様が執拗な批判的見解をのべるのか
理解できません。、、、ひどく、不整合で、奇矯な印象をうけます。
数日前、確かonecat様というコメント者のかたが、
【いつもの先生らしくない乱暴な意見に、いささか驚いております】と、
述べておられました。
まあ、このかたは、私と違って円熟した高齢紳士だと思いますので、比較的、
抑制された言い方をなさってましたが、おそらく、内心では激怒しておられたと
思いますよ。
普通の人が読めば、誰だってそう思います。
もちろん、私は、倉西様には、、これからも良いブログを続けていただけたら
幸いです。
でも、普通の人の御意見は、どう思われるか、もう少し御配慮なさったはうが
いいんじゃないですか??
◎蜜月の 薔薇の薫りし 生活の
まにまに國の ことも思へり
本記事は、制度論的な側面からの皇室に関する議論が、個人的な人権侵害等を理由に抑制されてしまう現状を嘆いた一文です。まさに、櫻井さまがなさっておられますように…。何度も申し上げましたように、私の学者としての関心は、明治維新の真実の探求にあります。それは、今日の問題でもあるからです。大室説等の明治天皇すり替え説については、それが、歴史的な事実であるならば、たとえ個人としての皇族にとりまして不都合であったとしても、解明されなければならないのです。現皇族を維持することは、将来にわたって、日本国は、海外勢力の影響下に置かれることを意味するからです。
私は、天皇位そのものを廃止せよ、と申しているのではなく、政治から完全に切り離して国家祭祀に役割を特化した上で、現皇室からの皇位継承は断ち、皇統を継承する人の中から広く適任者に就任していただくという案です。また、日本国では祭政分離が伝統ですので、将来にわたって既に形骸化している立憲君主制を続けていく必要性もないはずです(西欧の真似事から始まった国事行為はいらないのでは…)。
なお、私は、自らの書いた記事に対して自らを恥じることはありません。櫻井さまをはじめ、読者の皆さま方が私を、非常識で恥ずかしい人と思うのであるならば、それは、甘んじて受けとめるつもりです。人の心は変えられないからです。
ただ申し上げなければならないことは、政治や歴史を学んでおりますと、普通の人々からは見えない部分が見えてしまうことがあります。危険を感知した場合、たとえ’普通の人の意見’、あるいは、生活者の立場からの意見とは異なっていても、自らリスクを背負う覚悟で書かなくてはならない場合もあるのです。否、普通の人の意見であれば、敢えて書く必要もないのかもしれません。
ももとせに きたるあらしに めをとじて ばらさくそのを たれかまもらむ
「不敬」の一言で脳内停止、視野狭窄に陥る人は、丁寧な検証作業から導き出された真実でさえもそれが、本人にとって不都合な真実であれば、感情的に否定するのは何故でしょう。
単なるお花畑の住民なのか、お花畑を装っているだけの、某勢力の工作員なのか解りませんけど。
人さまのブログに粘着して根拠のない世論調査を書き込んだり、特定のブロガーの文章を「普通の人」の意見だと主張する。
「普通の人」って戦後GHQによる日本占領政策のことや、美智子様や雅子様の入内経緯もな~んにも知らない人達のことですよね。
そういう人の意見なんか参考にならんでしょ。
ましてや、明治期、戦国時代にかけての外国からの干渉に関しても知識が無いようでは。
感情論では理知的な論には勝てません。
王室や皇室は、極めて政治的に利用されやすい存在です。ベトナム等の植民地化の過程を観察しておりますと、王室こそがその主要な舞台となっております。海外勢力は、日本国に対しても、同様の手法を用いようとしたことでしょう。事実を直視いたしませんと、永遠に危機から脱することができないこともあります。ご理解いただけましたこと、心より御礼申し上げます。