戦争ビジネス論は、今日の政治の世界に激震をもたらすかもしれません。保守もリベラルも、マネー・パワーに操られた‘傀儡’に過ぎず、国民が信頼を寄せるに足る存在ではなくなるからです。リベラルが謳う民主主義や自由は偽善に聞こえ、保守勢力が声高に唱える祖国防衛も愛国主義も、懐疑的な視点に晒されます。左右軸の何れにあっても政治家の姿が国民の目には‘詐欺師’に映る今日という時代は、人類史にあって危機の時代とも言えましょう。
戦争ビジネス論の信憑性の高まりは、国民が、政党や政治家の主張を鵜呑みにしてはならないことを示唆しています。例えば、仮想敵国から国民を護り抜くとする力強い訴えや国民に対する愛国主義の鼓舞も、その真意は、戦争ビジネスのために国民を戦争に駆り立てるところにあるのかもしれません。ヒトラーの巧みな演説術はドイツ国民の多くを陶酔状態に陥らせましたが、第二次世界大戦頃までは、戦争利益を目的とした誘導であれ、純粋な国家間戦争であれ、戦意高揚のプロパガンダの効果は覿面でした。しかしながら、戦争ビジネス論が現実性を帯びている今日にあっては、国民は、従来の条件反射的な反応は避けるべきと言えましょう。
それでは、この危機に対して、人類はどのように対処すべきなのでしょうか。全世界の諸国に対して政界からメディア、さらには、宗教界にまで及ぶ全包囲的なコントロール網を構築するぐらいですから、マネー・パワーの力は強大です。このことは、戦争の時代から人類が離脱するためには、先ずもって人類の多くが戦争ビジネスと世界支配の関係並びにその集金・集権メカニズムとしての‘からくり’を熟知し、世界権力がグローバルに構築した‘指揮命令系統’を無力化する必要がありましょう。ところが、アメリカをはじめ民主的な選挙制度を維持してきた自由主義国家でさえ、国民の政治的自由並びに権利の行使は封じられているに等しい状態にあります。左右の何れを選択しても、二頭作戦にあっては無意味となるからです。
ここで、人類は、民主主義の機能不全という厳しい現実に直面することとなります。国民の参政権の事実上の‘剥奪’に加え、強大なマネー・パワーを駆使し得る世界権力に抗い、真に自由で民主的な国家を国民が手にしようとすれば、同勢力から妨害を受けたり、不利益を被るリスクがあるからです。マネーには、人々の良心を曲げたり、堕落させるほどの魅力がありますし、そもそもマネーがなくては生きてゆくことができないのが現実です。このことは、現代という時代、即ち、三次元戦争の時代における真の愛国者とは、どのような人々であるのか、を問うているとも言えましょう。
従来の愛国者とは、自国並びに自国民のために目前の‘敵’に対して武器を取り、怖れを知らずに勇敢に戦う者、あるいは、その勇ましい姿勢を支持する人々として理解されてきました。しかしながら、戦争ビジネス論の文脈からすれば、同反応は、国民の自然な心理に基づいてはいても、結局は、世界権力による集金・集権システムの罠にかかってしまいます。この側面に注目すれば、現代において隷属化の危機から人々を救おうとする愛国者とは、力には力ではなく、マネー・パワーによる迫害リスクを背負いつつ、自らの良心に照らし、知性を働かせて世界権力が張り巡らしている支配のネットワークを無力化する人々、ということになります。世界権力の代理人に堕した政府やマスメディア等の意図を見抜き、プロパガンダや同調圧力を利用した誘導にも流されない人々こそ、真の愛国者であるのかも知れません。そして、自らのなし得る範囲で自由、民主主義、法の支配、平等・公平といった普遍的な価値に沿った、国民のための地道な制度改革を試みる人々でもあります。こうした愛国者があらゆる分野にあって増えれば増えるほどに迫害リスクも低下し、世界権力のマネー・パワーの威力が削がれてゆくことでしょう。
しかも、現代の真の愛国者は、何れの国にあっても戦争回避を目指すのですから、暴力を否定し、平和と幸せを願う人類愛とも両立します。本記事が、2023年最後となりますが、来る年にあって真の愛国者が一人でも多く増えることを願ってやまないのです。
*本年は、本ブログにお越しくださいまして、ありがとうございました。拙い記事ではありますが、わずかなりとも皆様方のお役にたちましたならば、大変、うれしく存じます。また、本年は喪中につき、新年のご挨拶はご遠慮させていただきますことを、どうぞ、お許しくださいませ。
私事ながら、今年の7月に母を亡くし、わずか1年半の間に両親を失うこととなりました。生まれてからこの方、人生の大半を家族4人で仲良く暮らしてまいりましたので、残された双子の姉妹二人での生活は寂しい限りです。とは申しましても、両親がこの世を離れる際に起きた出来事の数々は、私どもの死生観や心境に大きな変化をもたらすことともなりました。
亡き父につきましては、危篤の知らせを受けて病院にかけつけた時は、父は既に心肺停止の状態で病室のベッドに横たわっておりました。ところが、私どもが大きな声で呼びかけますと、直線状態にあった心電図の波形が動き出したのです。かくして父との最後の会話は心電図ということになったのですが、私どもが‘お父様、私が天国に逝くときにはお迎えに来てね’とお願いしますと、心電図がピコピコと反応したのです。この最後の父との会話は、私どもへの最大にして最高のプレゼントとなりました。何故ならば、死というものが全く怖くなくなってしまったからです。
また母の臨終も、まことにドラマチックでありました。最後は鎮静の措置をとりましたので、眠るように亡くなるものと思っていたのですが、母は、病室の窓から見える青空を目を見開いてじっと見つめ、最後に一言、驚いた表情を見せて‘お’とだけ申して息を引き取ったのです。その‘お’が‘お父様(父または祖父)であったのか、あるいは、’お母様(祖母)‘であったのか、今でも全く分からないのですが、旅立つ母のために、誰かがお迎えにきていたのが、ベッドの傍らで母の手を握る私どもにもわかったのです。
この他にも不思議な現象が幾つも起きており、今では魂実在論者になりつつあります。この意味におきまして、時折、両親を思い出しては涙しつつも、両親を失った寂しさや悲しさが幾分和らげられており、今では、ご先祖様も合わせまして御霊と一緒に暮らしているような気がしております。そして、魂に対する関心は、現代科学にも向けられるようになりました。スウェーデンボルク氏の著書を読んでみたりもしたのですが、特に量子論は、物質とエネルギーとの間の互換性を示しておりますので、大変、興味深いところです。先日も、心肺停止後にあっても脳内において「死の波」とも称される著しい脳波の変化が見られるとする記事がありました。こうした実験は、臨死体験が脳内に放出された物質等による幻覚に過ぎないことを証明するために行なわれたのでしょうが、あるいは、意識のエネルギー化のプロセスを観察したとも解されましょう。何れにしましても、生命は、まだまだ謎に満ちております。
最後に、今年の大晦日に寄せて
世を去りし みたまのつどふ 年越しは こゑなくにぎはふ 静かなる夜
来年は、1月4日よりブログの更新を再開いたしますので、その節は、どうぞよろしくお願い申し上げます。