フランス革命のスローガンにも含まれる自由と平等という価値については、極少数の権力欲に駆られた人々を除いて、大多数の人々はその尊重を是とすることでしょう。あるいは、少なくとも、他者から自由を束縛されたり、不当に差別されたりはしたくないはずです。今日の国際社会では国際人道法も整備され、人類共通の普遍的な価値として当然視されているのですが、平等には、二つの側面が含まれているように思えます。
古今東西に見られたように、不条理な身分制などが公的に存在している場合には、ピラミッド型のヒエラルヒーでは上位身分は少数者となりますので、大多数の国民は平等化を歓迎します。平等という価値が最も輝きを放つのは、身分、性別、宗教といった属性の違いによって人としての扱いが違ってしまう(多民族国家では人種や民族性・・・)、理不尽で無情な上下関係をなくしたことにありましょう。平等という価値は、個々人の間での対等性を確保し、それを法の前の平等の原則の下で保障してこそ、極めて重要な価値なのです。平等の第一の側面は、個々人間の対等化です。
その一方で、第二の平等の側面とは、画一化です。画一化としての平等にあっては、人々は、他者と違った属性を有したり、発言や行動をとることが許されなくなります。平等という価値は、上記の人と人との関係性を対等にするのではなく、個々人の個性はローラーで引くように押しつぶされる方向に働くのです。完全なる人類の画一化を達成するためには。DNAレベルでの均一性まで要求されますので、もはや全人類を同一の遺伝子で造られたクローン人間化するしかなくなります。つまり、はっきり言って不可能なのです。
それでは、今日における平等とは、どちらの側面が強いのでしょうか。上述したように、完全なる画一化は夢物語なのですが、グローバル化を背景に、‘多様性の尊重’という美名の下で(対等化としての平等)、急速な画一化が全世界レベルで進行しているように思えます。各地の街角の風景から個性が失われ、人々が着ている服装も、都会であれ田舎であれ、変わり映えがしません。Tシャツとジンズ姿の若者達だけを見れば、ニューヨークも上海も、そして、東京もさして変わりはないのです。この傾向は、全国民が一律に人民服を着せられていたかつての中国のような全体主義が、全世界レベルで静かに浸透していることの現れなのかもしれません。
そして、何よりも警戒すべきは、人々の発言や行動についても、画一化としての平等の価値が押しつけられることです。例えば、国籍、民族、年齢、DNA、性別、出身地、家系、学歴、能力、性格、・・・などのあらゆる属性に関する差異についての発言は、平等に反するとして一切禁じられ、法的な処罰の対象となりかねません(現実には、人々の間には違いは完全に消去できないので、言論を封じることに・・・)。その先には、血脈や家族を表す氏姓さえ廃止させられ(国籍や戸籍も廃止?)、各自がナンバーや記号で呼ばれる未来が待っているかもしれないのです。
また、画一化としての平等化は、同調性の要求として個々人の行動にも及ぶことでしょう。例えば、今般、コロナワクチンの接種については、強い同調圧力がかかりましたが、マスメディアや新興宗教団体といった各種動員団体などが社会全体に対する圧力装置となり、人々を同一の行動へと駆り立てていくかもしれません。もはや、‘人と違った行動’は許されないのです。
かくして、全体主義的抑圧体制は、平等という‘善意’の顔をして構築されてゆくこととなります。つまり、平等、否、画一化が人々から自由を奪うのです。となりますと、ここで、自由と平等という二つの価値が真正面から衝突するのですが、自由というものが、独立した主体としての個人の生命、意識、身体を前提として存在する限り、過激な平等主義(画一化)のために自由が犠牲になることを望む人は殆どいないことでしょう。しかも、この過激な平等化政策とは、得てして、自己の自由のみを極限までに拡大しようとしている権力者による支配の手段に過ぎないのですから。数に勝るマジョリティーを対象とした画一化とは、強制装置を備えた強大な権力がなければなし得ないことでもあるのです(何人であっても、他者に対して自分と‘同一’となるように要求はできないはず・・・)。
政策決定権を握る人物が‘平等’の価値を掲げる時ほど、国民にとりまして危険な状況はないのかもしれません。国家が定めた‘規格’から外れた国民は、存在してはならない者、即ち、排除の対象となるからです。フランス革命が国民の大量虐殺を帰結し、平等化を誘因として成立した共産主義体制が国民弾圧・抑圧体制となったのも、過激な平等主義が自らの支配体制成立に役だったからに他なりません。
このように考えますと、過激な平等主義による全体主義化の魔の手から逃れるためには、まずもって、平等という価値にあって渾然一体となってきた対等化と画一化の二つの側面を明確に区別する必要がありましょう。そして、平等の価値とは、本来、個々人の間の対等性にこそあるのですから、この側面にこそ立ち返るべきかもしれません。平等の名の下で画一化を要求されたときには、疑ってかかるべきなのです。生き方を含め、たとえ人それぞれに様々な違いがあったとしても、国民が相互に対等な存在として認め合える国家の方が、より善き国であり、自由で豊かな社会なのではないかと思うのです。