今朝、四時から起きてあれこれパソコンをいじって、原稿ができそうでしたが、時間がなくなって、そのまま下書きにしてありますが、夕方母に電話をして、父のことを新しく聞いたので、メモみたいにして書くことにしました。
父は神童といわれた時があったようです。何に関する神童なのか、音楽なのか、数学の才能なのか、他にはわからないから、たいした神童ではなかったと思うんですけど、カゴシマ生まれなのに、中学時代は東京の新宿、阿佐ヶ谷、高円寺といった中央線沿線で暮らしたことがあったそうです。
父には昔、あれこれとインタビューしたつもりでしたが、あまり確たることはわからなかった。とりあえずそこで勉強したことはあった。でも、そこからどんなところに進学して、どんな方面に進んだのか、途中で戦争が入るので、どこかで断絶があって、戦争末期はカゴシマにもどってきて、砂浜で竹やり訓練を受けていたそうです。
そして、ゼロ戦が落ちていくのを見て、日本の沈没を体験した。だから、父は戦後派になると思われますが、戦争というものを信じていませんでした。反戦派になりました。強いメッセージはなかったけれど、まるで戦争とか、軍事戦略というものを信じていなかった。
おかげで私も、戦争に関しては虚無派になりました。どこかの代議士さんみたいに、すべての国際間交渉を戦争で解決しようという甘っちょろい考えは持っていません。空想戦略って、何だろう。今さらどこかと戦争しよう。そうしたら、領土は広がるし、オバカな国に侵攻できるなんて考えているんだろうか。
まあ、話になりません。今は、戦争で解決できない時代です。北朝鮮だって、イランだって、インドだって、イスラエルだって、戦争はしたくないから、できれば攻めてもらいたくないから、原子爆弾を持つことにしたんですから、ということは、日本は原爆はないから、戦争可能なんてね、そんなこと考えるだけでも腹立たしい。
戦争が終わって、教育のはざまにいた父は、とにかく仕事をしなくてはならなくて、炭鉱とか、畜産とか、大阪で会社勤めとか、あちらこちらを転々とした時代があった。あんまり詳しいことは聞けていません。
母もそんなに知らないかもしれない。
そして、カゴシマと大阪を行ったり来たりする間に、大阪で仕事を見つけたので、十ほど離れた母を大阪に連れてきて、そこで所帯を持った。というところで、父の母、つまり私の祖母が体調を崩したそうで、跡取り息子になっていた父は、大阪を引き払ってふたたびカゴシマに戻ってきた。
ちょうどそのころ、私も生まれます。そのころ、父方の祖母は亡くなったそうで、それを見送った父は、カゴシマに私と母を残して、
「ふたたび大阪に仕事に行ったのよ。それが9月のお彼岸のころだった。」
というのを母から聞きました。行ったり来たり、仕事をやめたり、復帰したりしていたようです。しかも、月給は何千円というレベルで、そんな貧しい時代があったようです。
それからも、父と母の大阪での貧乏所帯はつづいたと思われます。
でも、変てこりんな私は、二人の間に存在し、あまり支えにはならなかっただろうけど、それから数十年ともにあり続けました。
父がいなくなって何年も経ちますけど、まだ父と母の暮らしがどんなだったか、はっきりとはわかりません。時々少し視界が広がるだけで、せいぜい母から聞き取りをしていこうと思います。
父母から昔話を聞くというのは、子としての使命の一つでもあります。それがよその人にどれくらい役に立つか、たぶん、全く役に立たないと思うけど、私のメモとして書きつけておきます。失礼しました。