3月9日の朝日新聞の夕刊に、兼松左知子さんという方のことばが載っていて、メモしなくちゃと取っておきました。
兼松さんは、元婦人相談員という肩書がついています。昨年の12月7日に96歳で亡くなったそうです。
女性を支援するお仕事って、いったいどうしてそういう仕事を始めたんでしょう?
原点は、敗戦直後の旧満州(中国東北部)での体験だ。旧ソ連の戦車隊が侵入し、日本人女性への性暴力が横行した。当時20歳。丸坊主にして顔に炭を塗り、天井裏に隠れた。
あれ、どこかで聞いた話だと思ったら、1945年も2022年も、私たちは同じような状況に追い込まれたりするんですね。
今の戦争も長引いたら、どんどんそういうことが起こるだろうし、誰もそういうこを言えなくなりますよ。世界が見てみぬフリをしたら、もう世界は終わりだな。
日本の人たちは、どのような対応を取ったんでしょう?
あまりの惨状に男たちは女性を差し出すことを協議し、旅芸人の女性を説得して慰安所を開設した。
半年後に女性は解放されたが、周囲は白い目を向け、自分も口をつぐんだ。この女性の存在を胸に、仕事をつづけた。
そこで、兼松さんは言い続けてきたようですよ。
1 「幸せになるのも、不幸になるのも自分で決めるのよ」
2 「自分は変われることに気がついてほしい。自分の力で歩きはじめるしかないのだから」
3 「無駄かと思われる時間を共有する。ひたすら向き合う。あるがままに受け入れる。ともにその場にいる」自分の立ち位置をそう語っていた。
という姿勢で、1957年の売春防止法が施行された東京都で婦人指導員となり、ずっとお仕事を続けてこられたということでした。
たくさんの途方に暮れていた女性たちのそばに寄り添うお仕事をされたということでした。
寄り添うこと。自分で生きる力をつけさせること。自分で判断することの尊さ。人間は、どんなところからでも変われるという人間の可能性を信じたこと。いろいろ教えられます。
でも、受け売りで私がしゃべっても何にもならない。私も、その存在から湧き出てくることばを投げかけたいです。頑張りたいです。