いのちのことを書こうとする私自身は、「いのちとは何?」と訊かれたら、どう答えるのだろう。
いのちは、そこにあるもので、かけがえのないものです。当たり前だけど、まあ、確かにそうです。かけがえがなくて、それぞれが一つしか持てないものです。
その命はそれぞれに生きていて、終わりの日まではあれこれと動いていくものです。
当たり前のことを書いてますね。それがどうしたの?
そこにあるいのちは、日々動いている。ゴハンを食べたり、おしゃべりをしたり、人とくっついたり、離れたり、ケンカをしたり、わざとらしく怖い顔をしたりする。
いのちは日々変化するのであり、その変化によって、そのいのちを抱えている生命体もあれこれと変化していくのです。
ずっと不動のいのちというものはあり得ない。減ったり増えたり、小さくなったり大きくなったり、色を変えたりしながらいのちは動いている。
漱石のくしゃみ先生んちに集まる書生さんたちのわけのわからん問答みたいになっています。何が言いたいんだろう。
そのいのちを奪いたい、傷つけたい。何でもいいからそのいのちを奪う優位者に立ちたい。
そういう言葉をよく聞きますね。テレビやネットだけではなく、日常生活の中でもごくありふれた言葉として聞くことがあります。
いのちを奪う人が偉いなんて、だれが植え付けた考えなのか、知らず知らずに私たちはそういう考えに染まっているのか。いのちを奪う人・奪える(可能性のある)人が社会的に地位を持ち、ご大層に存在しているのは事実です。
そんなことが「偉い」ことだなんて、ちっとも思わないけど、一部の人たちの間ではそれがステータスになっているようです。莫大なお金と時間をかけて、シンガポールでイベントがありましたけど、あれはどんな意味があったのかなあ。
政治家の人たちは、時には命をとても大事にするみたいな発言をする。そうしなければいけない時だけはする。でも、あの人たちの本心は、ツイッターに書かれたように、今いのちの心配をしている人が何万人いようと、仲間の結束とみんなでバカ騒ぎする方が大事だったのです。
わかりやすいです。でも、そんな政府や自民党でも、私たち国民は許している。
どうせ、あの人たちは私たちのことなんか何も考えていないと、諦めつつ、自分だけを守ろうと貝殻のようになっているんです。
ほら、着地点が見つからなくなってきましたよ。
命は大事、でも、実際はそんなに大事にされてはいない。でも、人間もいいところはあるから、タイの少年たち十何人、必死になって救いましたよ。ああいうこともできるんです。
諦めたり、人を信じたくなったり、いろいろだけど、自分のことは自分で何とかするしかないんでしょう。
私は、できたらいろんな方のために何かしたい。……気持ちは持ってますけどね!