昔、松阪の私鉄のことを書きました(2015.12)。何もかもレールなどは消滅したけれど、当時の駅のあとは今でも残っています。ということは、1964年に無くなったということだから、56年も使われていて、今でも現役なんですね。すごいなあ。今度写真撮りに行こうと思います。
現在の松阪駅は、近鉄が名古屋と大阪からやってきて、そのまま伊勢・鳥羽・賢島につながる路線。JRは松阪を起点とする名松線。南へ行く紀勢線・参宮線。亀山方面の関西線などがあります。たくさんあるようだけど、本数はそんなにないから、ボソボソと電車・ディーゼルが出入りします。JRさんなんて、たくさんあるように見えて駅を出たらすべて単線になってしまいます。近鉄だけが複線をキープしている。
そうした東西を結ぶ路線がありましたが、松阪市そのものは、モノレールもないし、路面電車もないし、バスしかありません。人口が二十万足らずの町で、路面電車なんてぜいたくだけれど、今ちゃんとルートがキープされていたら、それはもう先進的な街になれたでしょう。でも、それらは五十数年前に廃止してしまって、クルマがなければどこにもいけない町になっています。あと二十万人くらいいたら、今の倍の人口がいたら、モノレールとか、路面電車とか、道はあったと思うけれど、ないものねだりしても仕方がないのです。
とにかく、松阪という町は、四百年以上前、豊臣秀吉さんに期待されて、近江の国から抜擢された蒲生氏郷さんが作り上げた町でした。
街道は、もっと海側にあって、その道をたどって人々はお伊勢さんへ向かっていた。けれども、氏郷さんは、もう少し内陸に道を引っ張り込み、小高いところにお城を築き、ここに城下町経営を始めたのでした。すべてそのプランにのっとって町は発展したようでした。
それからしばらくしたら、氏郷さんは、家康さんと伊達政宗さんを抑えるために、会津に転勤させられて、そちらで亡くなってしまうのですが、そうした秀吉さんの切り札がどんどんいなくなったから、そりゃ、秀吉さんの家族は没落しますよね。
松電の話をしたかったんでした。この地図で行くと、櫛田川まで出て、そこから川沿いにさかのぼって、大石ということろまでつないでいたようです。軽便鉄道で、電車です。よくもまあ、こんな小さな電車が走ってたもんです。それを考えると、ワクワクしてきます。
さて、それで、松阪を出て、四つ目の駅、ここが「篠田山」という駅になっています。調べてみたら、ここは「駅部田」という名前であったのを、お墓や火葬場のあるお山にちなんで、「しのだやま」に変更したそうです。
それはしかたがないけれど、この「駅部田」です。松阪に初めて来たとき、これは読めませんでした。あまりに飛びすぎていて、どうしても読めなかった。今は当たり前に「まえのへた」と読んでいます。ああ、とんでもない難読地名だと思ってましたが、「駅」は「えき」ではなくて、昔のそういう場所になくてはならないもの、「うまや」だったのだと、今日知りました。松阪の町のはずれで、いよいよここからは熊野古道にもつながるし、南へ行く道の出発点として、「うまや」があった。その近くに当然田んぼもあったので、「うまやのちかくの田んぼ」で「うまやのへた」となったのかもしれません。そうか、この地名も、何か三重県らしいじゃないですか。どんどんオーソドックスなものを、組み入れてしまうんです。どんどんなまらせてしまう。
「射和」は、古くからの商売人の町で、お寺もたくさんあるし、大きな商家が今も残っています。それで、「いる・さわ」が三重県化(訛)して、「いざわ」になります。ここに古い駅舎があります。
「御麻生園」は、駅名は「みょうその」みたいですが、それがどんどんなまって、「みおその」「みょうぞの」などと発音されてたりします。そして、終点の「大石」これも、素直に「おおいし」とは読まなくて、何度も呼びならわしている間に「おいし」になっています。
なんで、「おいし」なんだよ! なんで「みあそうその」ではないんだよ! 何で、何で………と疑問は続きますけど、そういう風に縮めて、なまらせて、アクセントを前に持ってきて、外からの旅人が「?」と思わせるのが、こちらの作戦となっていて、みんな、何と不思議な世界に入り込んだ! なんとなまぬるい、かったるい、ゆるい雰囲気なんだよ!(それが「なるい」みたいです)と、いよいよ伊勢神宮のありがたさを感じるようにできているみたいです。
「大石」を「おいし」と平気で読んでしまう松阪人の力、これを感じて、今日は、不思議なもんだと思って、朝からずっと感心してたんです。つまらない発見でしょ!