あまりに毎日暑すぎて、街道歩きに行ったのは、日曜だったかな。街道もそりゃ暑かったんです。でも、ずっと杉林の中を歩くので、ほとんど光は浴びませんでした。いつもの突発的「珍布(めずらし)峠歩き」だったんです。
歩き始めた時は、ものすごい光で、それだけでヘロヘロになりそうだったのに、集落を抜けて山へと入っていく道のとっかかりにたどり着いた時には、光はありませんでした。逆に夕立ちやスコールに襲われたらどうしようという、そっちの心配をしなくてはならない感じ。
ほとんど空も見えないくらいに杉が生い茂っているから、晴れてもわからないでしょう。何となく薄暗いし、そういう夕暮れの気配を感じて気配を感じたのかヒグラシが鳴いていました。夕方でもないのに、ちゃんとヒグラシは薄暗さ、太陽の光がかげっていると鳴きたくなるようでした。それがヒグラシに与えられた使命ですから、セミ一倍光には敏感にできています。
少しずつ、いくつか曲道を経て、不気味な名前のスポットをくぐり抜けて、峠までもうすぐというところまで来ました。
前にも案内看板は気づいていたのですが、今回は、家でもものすごく乾燥剤がたまっていて(味付け海苔の食べ過ぎです)、この乾燥剤をどういう風に処分したらいいんだろう。燃えるゴミにでも出さなきゃいけないのか、というのがあったから、かなり切実だったんですけど、峠の手前のところに「石灰ジジイ」と呼ばれる人がいたという立て看板を見た時、何となくこれだ、という気がしました。
幕末なのか、明治なのか、大正・昭和の初めなのか、とにかく、日本のあちらこちらの街道のエアーポケットには旅の人が居ついて、そこで生業を見つけたら、しばらく暮らす、そういう風俗があったのだと改めて思いました。
石灰ジジイは、どこからか石を持ってきて、それを燃やす、その焼いた石を砕いたら、石灰ができて、麓の集落に持っていくと、肥料としてというか、土壌改良剤として地域の人たちはそれを買い求め、ジジイはその金で自分の生活をつなぐことができた。それでそのまま定着するのかというと、やがてはどこか別のところへ行ったようであった。
案内の看板をしみじみ見ました。石灰はアルカリ性で、酸性化しやすい土地を中和させるのに使ったそうです。そういう化学的なこと、昔の人は生きる知恵として知っていたんですね。それを生業にして諸国を旅する人だって存在した。
何だか不思議なんですが、昔はそういう旅から旅の人たちがごく当たり前にいた社会だったんですね。だから、当然あちらこちらに行き倒れの人もいて、村人はそういう人を葬ってあげることもしていた。それが街道には不気味な名前の地名だって作られてしまうし、そういうのをちゃんと伝える知恵がありました。
また、その事例を踏まえて、旅に生きる人間になるか、それとも地道に地域で生きていくことを選ぶか、旅人は人生を考える刺激を与えてくれる人たちでした。いろんな情報も持って来るし、少しあぶない人たちだっていたのかもしれません。
道沿いには、シダがたくさん自生しています。というか、杉とシダくらいしか伸びられない、少し薄暗い森です。
そのシダの仲間のはずなんですが、葉の長い、低木がありました。この写真ではわかりにくいのですが、茎のまん中からまみどりの太いヘビの体みたいなのがニョキッと出ていました。
花になる先端部だと思われますが、ネットではその花の写真を見つけることはできませんでした。
でも、根元からはい上がっている茎のところを見ると、シダ類の肌をしています。まるでウルトラマンなどの宇宙人のような、何とも言えない模様がついています。たぶん、シダ系で、そういうのを沖縄のやんばるの森で見たことがありました。
このヘビみたいなつぼみは何だろう。名前はなんていうんだろう。というので調べてみたら、マムシグサ、またはナンテンショウ、という植物のようです。花はどんな形なのかわかりません。でも、とにかくザラザラしているのに、生々しいヘビの体のようなつぼみがあります。だから、マムシグサなのか。
名前を知って、今さらながら怖くなりました。別にマムシがいるわけではないけれど、自然をなめてたら、とんでもない目に遭うぞ、みたいな警告に見えてきました。都会からのバイクおじさんたちが何台か、峠を駆けあがり、また降りていたけれど、おじさんたちには見つけられない、怖ろしい植物でした。おじさんたちは、夕方になったら都会に帰らなきゃいけないし、それはもうすぐのはずでした。帰りは、どういうわけかヒグラシは鳴いておらず、日差しもふたたび輝いていました。真夏の昼の夢みたいなものでしたか。
峠のこと、まるで書いていませんでした。よく歩きに行きますから、また今度何か見つけたら、峠のことも書こうと思います。