黒船がやって来てしばらくして、丹波の石工の村上佐吉という方が、三重県の亀山市の観音山というところで三十数体の石仏を作ったということでした。
そして、そのお顔は孝明天皇さまにも褒めていただくくらいの素敵な感じで、佐吉さんと観音山との関係がわかりませんけど、今でもお山のあちらこちらにそれぞれの場所で人々を迎え入れてくださっています。
私は、こういう観音さんたちがおられて、製作者はひとりの石工さんで、それぞれに素敵なのだというのを熱烈なファンの方に教えられて、それなら行ってみようとしたわけでした。
京都からは、大津、草津、石部、水口、土山、坂之下、関と七番目の宿場町でした。江戸の日本橋からは四十七番目とかなり遠くなっています。滋賀県から鈴鹿峠を越えて二つ目の宿場町です。
昔は、国道一号線が鈴鹿越えでたくさんの交通量を誇っていましたけど、今はみんな新名神に乗ってるみたいで、激減したんです。
関宿から、鈴鹿峠を見あげると、向こうの方にそびえているのが峠です。ここの宿場で少し東北方面に方角を変えて、亀山、庄野、石薬師、四日市、桑名と東海道はつづいて、桑名からは船で熱田神宮の近くの宮宿で愛知県になるようです。
佐吉さんが、伊勢神宮へお参りなのか、名古屋に仕事があったのか、その途中の関宿で三年の歳月をかけて、お金になったとは思えないけど、誰かの願いを入れて、とりあえず仕事として石を削り、観音さんたちを彫りだすことに成功したそうです。
残念ながら、鉄格子の中にすべての観音さんは入っておられて、それはもう世知辛い世の中ですから、ただでかわいい観音さんをもらっていこうという人はいるはずですから、仕方のないことでした。
それにしても、観音山とは後付けの名前だと思われますが、壬申の乱のとき、吉野から、三重県の名張を通り、こちらに抜けて、そのまま四日市まで進み、ここで奥様(後の持統天皇)を待機してもらい(ということは、それなりにサポートしてくれる人がいたのだと思われます)、美濃の国まわりで近江の国に攻め入ったということですけど、それ以来の、大海人皇子さまに感じ応える山であった、みたいな由来があったということですが、真偽のほどはわかりません。その流れに乗って、千何百年後かに観音様を彫りだす人が現われるんですから、何か有力なお寺とか、あったんでしょうね。今はわからなくなってはいますけど。
関宿のまん中の地蔵院というお寺の境内には、道に迷われた大海人皇子さまを鈴をつけた鹿が道案内したという伝説を踏まえて、鉄で作ったシカさんもいました。
なんとまあ、古代と近しい街道のあれこれです。ヤマトタケルさんもこちらで亡くなっておられるんですから、いろんな因縁のある土地なんでしょう。
それで、私は、石仏さんに少し感動したんですが、歴史が浅くて、その芸術性は感じたんですけど、人々がどれだけ信仰しているのか、それがわからなくて、しかも鉄格子越しではあったので、何だか気勢をそがれて、感動は三割減というところで、イマイチ気分は乗りませんでした。
でも、ものすごく暑かったし、そんな時に観音巡りの山歩きをしてはいけない、それに尽きるような、そんな旅でした。石仏様もきっとバカな私を憐れんでくださったでしょうけれど……。