「三重の文学」番外編ということで、牛銀由来記を載せてみます。パンフからのばくりです。
★ 牛銀由来記
今から百年ほど前のこと。一人の若者が東京での奉公を終えて松阪に戻ってきた。二十四・五貫の堂々たる体に、引き締まった浅黒い顔。名を小林銀蔵という。
明治十三年(1880)、松阪郊外の伊勢寺に、農家の三男として産声を上げた銀蔵は「日々世の中が変わっていく時代に、田舎で百姓なんぞするよりも、町へ出て商いをした方がいいわい」と、単身上京。文明開化以来、流行の兆しをみせていた牛肉に目をつけ、肉料理店「米久」の門をたたいたのである。
厳しい修業によって精肉から調理、そろ盤にいたるまでを身につけた銀蔵は、さっそく二十二歳の若さで松阪の本町へ精肉店「牛銀」の看板を掲げた。明治二十五(1892)年のことである。
部位ごとにさばいた肉の筋を引き、きれいに並べて切る。牛銀の精肉法は、当時の牛肉屋が、ぶら下げた肉塊から適当に削ぎ取ってブツ切りにしていたのとは、かなり手際が違っていた。
東京仕込みの鮮やかな“平切り”は評判を呼び、“子供に牛肉を買いに行かせると、見とれてなかなか帰ってこない”といわれ、大いに繁盛したという。
牛肉を扱う銀蔵さんが創業者だから「牛銀」という屋号なんですね。初めて知りました。牛鍋の方のお店には入ったことはないのですが、洋食屋さんの方は3回目になるでしょうか? いつも食べるのはハヤシライスでした。今度行くことがあれば、カツカレー1100円を食べてみようと思いました。
“平切り”で評判を取った「牛銀」は、やがて店先に“牛鍋と牛めし一銭五厘”の垂れ幕を下げて牛肉料理店をはじめる。文明開化とともに東京ではじまり、地方ではまだ一部の人にしか口にすることのなかった牛肉を、一気に庶民レベルにまで広めたのである。
銀蔵が東京で学んだのは、精肉や調理法だけではない。肉牛の目利きとしての勘を養うとともに、優良牛の肥育法もしっかりと身につけていた。「肉食文化の先進地・東京でも通用する牛を」と近郊の農家に呼びかけ、独自の肥育法を伝授するかたわら、いい牛ができるとアッと驚くような高値で買い上げ、農業の意欲をあおったのである。
松阪にはあと1つの名店の「和田金」というものすごく敷居の高い、庶民が行くには何ヶ月も貯金して行かなきゃいけないお店があって、ここと牛銀さんとで「松阪牛」のブランド力を高めていったようです。いつの間にか大ブランドになっていますが、それもこれもすべて地域の努力によって高められたものらしいのです。まあ、私なんかほとんど「松阪牛」と年がら年中関係なく暮らしていますが、世の中にはよいブランドを作り、地域の産業をしっかり守っていこうとしておられる方々がいるのでした。
明治の終わり頃になると、牛肉は滋養あるハイカラな味として全国に行き渡るようになり、やがて、よりうまい牛への要求が高まっていく。
そんな折、松阪で初めて肉牛品評会が開かれた。これが毎年晩秋に開催され、肉牛日本一を決める「松阪肉牛共進会」のルーツである。
大正十二(1923)年、「牛銀」は県の推薦を受け、「近畿二府五県連合畜産共進会」に参加した。このとき、松阪牛は神戸牛や近江牛と激しく上位を競り合い、以降その名声は広く知られることとなったのである。
その頃、東京で開かれた内国勧業博覧会で、こんな出来事が伝えられている。はるばる松阪から出展した肥育農家の牛を、東京の業者が足元を見て買いたたこうとした。それを見た銀蔵は烈火のごとく怒り、「そんならワシが全部言い値で買うたろ」と言い放って、すべてを松阪へ送り返そうとした。これにはさすがの東京商人も慌て、ただちに非をわびて無事取引が成立したという。
松阪牛の面目を保った銀蔵の行いに、農家が一目を置くようになったことは想像に難くない。(文・月兎舎)
こうして今も、松阪牛ブランド作りは続いています。何しろ、生まれは兵庫県でも、育ちはこちらじゃないと「松阪牛」にならないそうで、神戸の業者が新たに大規模な牛舎を建てるという計画が出ていたりします。こちらで育てれば「松阪牛」になるとは思いますが、何だか便乗商法みたいで、神戸の業者さんであれば、神戸でがんばればいいのに、無理矢理松阪市内で育てようなんて、何かずるいというか、そんなことわざわざしなくてもいいというのか……。何だか複雑な感じです。
とにかく、今となってはこのブランドをせいぜい守ってもらって、せいぜい食べてもらったらいいかなと思います。