ボルヘスの「砂の本」、もう何日くらいまわりにあるんでしょう。ちっとも進んでなくて、「それは寝るために置いてあるんでしょ」と皮肉られるくらい、開いたらパタリと寝てしまう本です。
「会議」という短編の冒頭で、アレハンドロ・フェリという主人公が、自分のことを述べているくだりがあって、「ああ、こんなふうに年とった自分を振り返ることができるものか」と何だか感心して、きっと面白いはずだと確信して読んでいたつもりですが、パタリと寝ていました。
今晩から二度目にチャレンジしようと思います。その前に抜き書きします。
わたしは、ちょうど、七十歳といくつかになろうとしており、いまなお、ひと握りの学生に英語を教えている。
優柔不断のせいか、無精のせいか、それとも他の理由からか、結婚歴はなく、ずっと、ひとりである。孤独に悩むことはない。自分と、自分のくせとに折り合ってゆくので精一杯だ。
こんなにサラリとひとり者であるというのを言えるようになるには、それなりに苦労もあったろうと思われます。結婚したいときもあったでしょう。それとも、全く無関係に七十歳まで来たんだろうか。
それくらい自分のクセというのが難物だったと振り返る人もいる、のかもしれません。私は、たまたま結婚したけれど、うちの子も、私の知っているたくさんの人たちも、みんな七十歳になって、こんなふうに述べたりするんだろうか。
自分が刻一刻と年とってゆくのは分かっている。そのまぎれもない徴候は、新奇なものに対して、もはや興味をもつことも目をみはることもない、という事実である。
多分、そうしたものには、本質的な新しさなどなにひとつなく、小心なバリエーションにすぎないことに気がついているからだろう。
こちらはおもしろい指摘です。新奇なものというのは、たいてい珍しいものではなくて、少しだけアレンジしたものであり、昔からあるモノの焼き直しに過ぎないというのを看破してしまった。それは、素晴らしいことでもあるし、残念なことでもあります。
若い人たちがワイワイ、キャーキャーいうモノが、ちっともおもしろく見えないのだから、いつもブスっとしているしかないのですから。人生がつまらなくなるじゃないですか! つまらないモノでも、オヤッと、新しい気分になっていたら、それなりに自分の心は活性化されるんだから、せいぜい新しがらなくてはならないのに!
それができないとしたら、それは人生のかなりの部分がつまらなくなる気がします。
若い頃は、黄昏(たそがれ)や場末や悲運に魅(ひ)かれた。今は、都心の朝や静穏(せいおん)の方がいい。
もうハムレットを気取ることもない。わたしは保守党に入党し、チェスのクラブの会員になった。後者はただの見物人として、それも、時には上の空の見物人として、しばしば訪れる。
これは少しわかりにくいんですけど、たぶん、生きるか死ぬかとか、そういうところを通り過ぎて、いつこの世から消えても仕方がないという覚悟みたいなのができつつある、みたいなことをいうんでしょうか。
どっちにしろ、ボルヘスさんの示してくれた七十歳って、何だか淋しいところもありますね。