賢治さん、とうとう伊勢神宮に来たんですね。何だかうれしいなあ。でも、修学旅行で関西の方とかに来られているので、二回目だろうか。そこはよくはわかりません。
お父さんに連れられて、わざわざ伊勢神宮に来ました。さて、お父さんはどういうつもりで賢治さんを連れてきたんだろう。賢治さんは、お父さんの思いを知ってか知らないでか(短歌を見ると素直に参拝している感じです)、いつもの感じです。
ただの観光ではないですね。何か息子に訴えたいことがあったのでしょう。でも、賢治さんはもう、自分の道を歩いていたので、お父さんの思うようにはならなかったかもしれません。
764 かがやきの雨をいただき大神(おおかみ)のみ前に父とふたりぬかづかん
お父さん、せっかく伊勢神宮に来ましたけど、雨が降っていますね。でも、この雨は神様のおかげで輝いているようだし、雨の中にもアマテラスオオミカミさまのありがたさを感じ取ることができます。さあ、お父さん、一緒に神様にお祈りしましょう。
765 降りしきる雨のしぶきのなかに立ちて、門のみ名など衛士(えいし)は教へし
父と一緒にひたすらお祈りをしていたら、参拝客もたまたま少なくて、降りしきる雨にも負けずに岩手から来た私たちに、神様のお社を守る衛士さんは、私たちに門のお名前なども教えてくれたことでした。
神様もありがたいけれど、人の気持ちにもふれさせていただき、少しあたたかくなりました。さすが、神様がいらっしゃるところで仕事をされている方というのは、やさしいお心持ちなのだ思えたのです。
766 透明のいみじきたまに身に充(あ?)てゝ五十鈴(いすず)の川をわたりまつりぬ
透明のきれいなものを体内にあふれさせて、父と私は五十鈴川を渡ります。そうすると、神様の杜の中へ入っていくことができます。
そこはさらに私たちを研ぎ澄ませてくれるありがたい杜です。私は感謝の気持ちでいっぱいです。
767 五十鈴川 水かさ増してあらぶれの人のこころもきよめたまはん
きっといつもは穏やかな川の流れだと思うのですが、今日はたまたま雨が降って、五十鈴川にはたくさんの水が流れています。どうぞ、たくさんの川の水で、私たち人間たちの欲望や我執・こだわり・愛別離苦、いろんなどろどろした気持ちを洗い清めてください。
それは簡単なことではないかもしれないけれど、私は願わずにはいられません。ああ、こんなに水かさが増したとしても、やはり清らかな川の流れであることか。ありがたい気持ちです。
768 みたらしの水かさまして埴輪(はに)ながしいよよきよきとみそぎまつりぬ
雨のおかげで御手洗(みたらし)の水かさが増しています。石ころも土器も、流してしまうくらいで、ありがさたさに包まれた私たちは、さらに神秘な気持ちになって、自らの情念・邪念を洗い清めたのでした。
さあ、少しずつ神様の前に行く準備ができてきました。一歩ずつ神様のところへ歩いていきましょう。玉砂利の響きも何とも言えない神聖な気持ちが湧いてきます。
雨なんて関係ありません。今、私たちはここにいて、たまたま神様をお参りすることができている。この幸せな瞬間こそすべてです。さあ、歩き進んでいかなくては!
769 いすず川 水かさ増してふちに群るるいをのすがたをけふは見ずかも
本当は、五十鈴川というのは、穏やかな流れで、そこをゆったりと上ったり下ったり、とどまったするいを(魚)がいるはずなんだけれど、今日はたまたま雨になってしまって、水かさが増しているので、魚の姿は見えません。
魚たちのゆったりした姿は、川の魚だとは思えないくらいに、人間たちを恐れず、まるで魚までもが神のお使いのように見えるものだけれど、今日は見えない。それは少し残念な気持ちがします。でも、それは仕方のないことだし、これも何かの風情ではあるんでしょう。
770 硅岩(けいがん)のましろき砂利(じゃり)にふり注ぐいみじき玉の雨にしあるかな
神様のお社へとつづくこの道の、延々と続く白い砂利、そこにずっと降り続いている雨のしずく、そんなことにも楽しい。
私は今、伊勢神宮の参道を歩いているのだ。雨なんて関係ない。とにかく、今私がここにいるという事実をかみしめたいと思う。
早く神様の前に行って、お祈りをしよう!
七つの短歌を載せてみました。無邪気に伊勢神宮に来られた自分に感動している様子です。この無邪気さがとても尊いと思えます。
いや、この無邪気を表に出せる正直さが貴重です。変なテクニックなど全くありません。ストレート勝負です。すごいなあ。