
先週の金曜日、百済寺(ひゃくさいじ)のあとに、お金はないけれど、金剛輪寺に行きました。
百済寺は、同じ緯度のところに、韓国の南西部の百済の町があるそうです。そこから移民としてやってきた先進民族が住み着いたところで、地名も秦荘町(はたじょうまち)というみたいです。今は正式には、どこかに所属しているんでしょうね。彦根市? 東近江市?
……キジのデザインがいいですね。
そこに名神高速をくぐるとすぐに金剛輪寺がありました。
入ったらすぐに紅葉の世界でした。もう異様なくらいにもみじがあふれていました。

しばらくすると左に庭園とあります。だから、そちらに入ってみました。

護摩堂にももみじはあふれていました。もうあまり感動しなくなっています。ぜいたくなことです。

池ともみじと光と穏やかな秋の日より、もうありがたすぎるくらいです。

庭とは少し趣の違う土蔵があっても、もうもみじの庭の中に取り込まれていて、すべてが一体化しています。

そうかと思うと、赤い実は小さく庭のアクセントになっている。もうどこを切り取ってもキレイなので、どこでも写真を撮らなくてももういい感じです。
それなのに、野次馬の私は、功名心を捨て切れていません。
かなり満足したのに、国宝の本堂と三重の塔のところへ行けば、もっといいことがあるかもしれないと、黙々と山道を登ることになりました。
とはいっても、両脇にずっと小さなお地蔵さんが並べられて、それぞれ寄進した人たちの名前が書いてあります。何か事情があって、全国からここのお地蔵さんを寄進したいという思いが集まって、参道というか祈りの道というか、それが続いています。
しばらく歩いてヘトヘトになったところで本堂にたどり着きます。

中で本尊やら四天王さんやら、お堂の中を見せていただいて、本当ならもっとお祈りに時間をかけねばならないのに、何だか私はソワソワしています。お堂の中よりも、光のあるうちに光ともみじを撮りたいという、その野望だけでギラギラしています。

中にいても、外のことが気になってしょうがない。
落ち着かないので、そばにある三重の塔へ向かいました。

下から見上げると、もみじの中に隠れています。

まだみどりの部分もあって、渾然一体となっています。

上に上がると、こんなふうに見えます。なかなか全貌が見えないようになっている。
そりゃ、平地の大きな敷地の中にあるお寺ではなくて、山の中であれこれとお祈りをする場ですから、立派でなくてもいいわけです。どれだけ人の心を集め、穏やかな気持ちにしてくれて、静かに祈ることができればよい。だったら、三重の塔を見上げ、お祈りするとかよりも、お堂で祈ればいいわけで、塔はその祈りを天に届ける発信塔ですから、私たちはすべてを見なくてもいいわけです。

かくして私の祈りは少しだけで、世俗にまみれた私は、下におりてきて、やさしいオバサンワンコさんに癒されて、お寺を後にしました。まだ早くて、お金はないけど、どこかに行こうと企んでいますが、湖東三山すべてを行くことになるのか? さあ、どうなることか……。
百済寺は、同じ緯度のところに、韓国の南西部の百済の町があるそうです。そこから移民としてやってきた先進民族が住み着いたところで、地名も秦荘町(はたじょうまち)というみたいです。今は正式には、どこかに所属しているんでしょうね。彦根市? 東近江市?

そこに名神高速をくぐるとすぐに金剛輪寺がありました。
入ったらすぐに紅葉の世界でした。もう異様なくらいにもみじがあふれていました。

しばらくすると左に庭園とあります。だから、そちらに入ってみました。

護摩堂にももみじはあふれていました。もうあまり感動しなくなっています。ぜいたくなことです。

池ともみじと光と穏やかな秋の日より、もうありがたすぎるくらいです。

庭とは少し趣の違う土蔵があっても、もうもみじの庭の中に取り込まれていて、すべてが一体化しています。

そうかと思うと、赤い実は小さく庭のアクセントになっている。もうどこを切り取ってもキレイなので、どこでも写真を撮らなくてももういい感じです。
それなのに、野次馬の私は、功名心を捨て切れていません。
かなり満足したのに、国宝の本堂と三重の塔のところへ行けば、もっといいことがあるかもしれないと、黙々と山道を登ることになりました。
とはいっても、両脇にずっと小さなお地蔵さんが並べられて、それぞれ寄進した人たちの名前が書いてあります。何か事情があって、全国からここのお地蔵さんを寄進したいという思いが集まって、参道というか祈りの道というか、それが続いています。
しばらく歩いてヘトヘトになったところで本堂にたどり着きます。

中で本尊やら四天王さんやら、お堂の中を見せていただいて、本当ならもっとお祈りに時間をかけねばならないのに、何だか私はソワソワしています。お堂の中よりも、光のあるうちに光ともみじを撮りたいという、その野望だけでギラギラしています。

中にいても、外のことが気になってしょうがない。
落ち着かないので、そばにある三重の塔へ向かいました。

下から見上げると、もみじの中に隠れています。

まだみどりの部分もあって、渾然一体となっています。

上に上がると、こんなふうに見えます。なかなか全貌が見えないようになっている。
そりゃ、平地の大きな敷地の中にあるお寺ではなくて、山の中であれこれとお祈りをする場ですから、立派でなくてもいいわけです。どれだけ人の心を集め、穏やかな気持ちにしてくれて、静かに祈ることができればよい。だったら、三重の塔を見上げ、お祈りするとかよりも、お堂で祈ればいいわけで、塔はその祈りを天に届ける発信塔ですから、私たちはすべてを見なくてもいいわけです。

かくして私の祈りは少しだけで、世俗にまみれた私は、下におりてきて、やさしいオバサンワンコさんに癒されて、お寺を後にしました。まだ早くて、お金はないけど、どこかに行こうと企んでいますが、湖東三山すべてを行くことになるのか? さあ、どうなることか……。
