帰りのクルマの中で、大和物語の「姨捨」の話を聞いてしまいました。ああ、変なスイッチが入ってしまった。
どんな内容だったのか、原文を貼り付けて振り返ります。
信濃の国に更級(さらしな)といふ所に、男住みけり。若き時に親死にければ、をばなむ親のごとくに、若くより添ひてあるに、この妻の心、憂きこと多くて、この姑の、老いかがまりてゐたるを常に憎みつつ、男にもこのをばの御心(みこころ)のさがなく悪しきことを言ひ聞かせれけば、昔のごとくにもあらず、おろかなること多く、このをばのためになりゆきけり。
信濃の国、長野市と松本市の間に乗り越えねばならない山があって、そこを越えると千曲川の流れる長野の町が見えたりします。とても大きな広がりと、山々に囲まれた盆地が見えます。
その盆地を見下ろすあたりでしょうか、中央線の中でもなかなか壮大な景色が見えるという、評判の車窓風景です。そこに、昔、ある男が住んでいて、両親は亡くなり、叔母さんがその人を小さい時からずっと育ててくれたそうです。
その男がやがて結婚して、妻を迎えたら、その妻は、旦那の育ての親である叔母さんが、腰が曲がり、ゆったりゆったりしているのを許せなくて、旦那にあることないこと、悪口やでっち上げ話を吹き込み、とんでもない育ての親だとこき下ろしたそうです。
さあ、そうなると、さすがに旦那もかばいきれないし、妻の叔母さん攻撃に抵抗できなくなっていきました。
ああ、なんて、男って節操がないというのか、自分の大事なものを捨てるというのか、ダメダメなところです。
このをば、いといたう老いて、二重(ふたえ)にてゐたり。これをなほ、この嫁、ところせがりて、今まで死なぬことと思ひて、よからぬことを言ひつつ、
そうしたゆがめられた夫婦生活が続くうちに、叔母さんはどんどん年老いてしまい、くの字に折れ曲がってしまいました。一人で生活することも大変だったことでしょう。ああ、それなのに、旦那の妻は、叔母さんをうっとうしいものとして扱い、どうしてこんなにまでして生きているのか、というような嫁にあるまじきことまで言うようになります。そして、とうとう次のように言います。
「もていまして、深き山に捨て給びてよ。」
とのみ責めければ、責められわびて、さしてむと思ひなりぬ。
「いいですか、あなたの叔母さんを、山の奥に持っていき、そこに捨ててきなさい。」
と責め立てるのでした。そして、旦那は追い詰められて、叔母さんを捨ててくることを決意するのでした。
月のいと明かき夜、
「嫗(おうな)ども、いざ給(たま)へ。寺に尊(とうと)きわざすなる、見せ奉らむ。」
と言ひければ、限りなく喜びて負はれにけり。
月のきれいな晩に、
「お母さん、さあ行きますよ。お寺で有り難い行事があるそうです。そちらにお連れして、有り難い様子をお見せしますからね。」と息子は言います。おばあさんは、大変喜んで息子の背中におんぶされて行くのでした。
高き山のふもとに住みければ、その山にはるばると入りて、高き山の峰の、下り来(く)べくもあらぬに、置きて逃げて来ぬ。
この人たちは、高いお山のふもとに住んでおりましたが、その山の奥にどんどんと入っていき、山の深いところで、とてもお年寄りのおばあさんには降りてこられないようなところまでやってきて、おばあさんをそこに置いて、一目散に逃げかえってきてしまいました。
「やや。」
と言へど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、言ひ腹立てけるをりは、腹立ちてかくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつ相添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。
おばあさんが、「これこれ、どうしたの?」と呼んでいるのに、男は後ろも振り返らずに逃げてきました。そして、あれこれ考えました。妻から小言を聞いていた時には、怒りが積み重なり、ついつい山に捨ててしまうことをしてしまったけれど、長年親として育ててもらったことを思うと、取り返しがつかないことをしてしまったと、深い悲しみに落ち込んでしまうのでした。
続きはありますけど、それは明日にして、どうして姥捨てなのか、なのです。
私はラジオを聞いてて、今も同じように、お年寄りたちは捨てられているというのか、若い世代から役に立たないものとして切り捨てられているのは一緒だと思ったのです。
確かに昔のように動くことはできないし、体に不調をたくさん抱えているでしょう。そういう姿を見ていると、もう早くいなくなってしまえばいいのになんて、恐ろしいことを考える人もいると思われます。
でも、そうではないのです。それは大きな迷いであって、お年寄りたちと一緒に過ごした日々があったし、それがたまたま終わりに近づいていて、動きが悪くなっているだけなのです。
それで、ポンと結論を急いで出そうとする。本人じゃなく、他人が本人に結論を迫るなんて、とても信じられないけど、そういうこと、あるような気がする。
他人の老後をあれこれ指図して、70歳でも、生きている限り、体が動く限り働きなさいとか、一億総活躍時代だとか、適当なことばを掲げて、お年寄りをコントロールしようとしている。年金を出したくないという魂胆は見え見えで、平気で本人のためだとかのおためごかしをしている。
だから、信用ならないのです。
男のするべきこと、それはもう決まっています。男はそのことに気づくんだろうか。男はその妻とどのような関係を築いていくんだろう。
親子、夫婦、難しい問題です。でも、みんな仲良くいつまでも過ごしていけたらいいのになと、ダメダメな私は思います。