昔、国道42号線で通勤していたとき、今は落ち目になっている(?)、80年代は変な付加価値製品ばかり作ってたあの会社のせいで、道がやたら混んでいました。
それなら、もっと早起きして通勤すればいいじゃんと気づいたのはオッサンになってからで、若いときは、そんなことに気づいても実践できませんでした。若い頃は寝ることが大事だったようです。
今は、ジジイになったので、睡眠はそんなになくてもいいのだけれど、寒いのに弱くて、目が覚めていても起きられません。困ったことです。父が見たら、何をしているんだと嘆くことでしょう。父はストイックでしたし、自己管理ができていました。
それなのに母は、「お父さんは、私に隠れてお酒を飲んでいた。ゲート(ボール)に行くと、お酒を飲ませる女の人がおったんやわ!」と、今ごろになって、父の飲酒を責めてたりします。
そりゃ、父だってお酒を飲みたい時もあったでしょうに。晩年は、母にお酒を取り上げられて、何だか少しションボリの人生でした。たまに家族が集まってお食事というときに、こっそりと「ちょっと入れて」と控えめに飲んでましたっけ。それが晩年の父のお酒でした。
すぐ話がそれちゃいますね。失礼しました。それで、抜け道として、三重交通の松阪線跡を突っ走る人たちがいるのは自然と気づきました。けれど、単線で舗装も上部だけの道で、対向車が来たら立ち往生しそうな道なので、とてもそこへ入っていく気にはなれませんでした。
それでも、時々間が差して、どれ前のクルマに続いて行ってみようという気持ちが起きたときがあります。1回目は見事対向車とのすれちがいに苦労することなく、細いけれど、うまく行けばなかなか近道かもしれないと思ったのでした。
2回目は、たいていとんでもない目にあって、二度とこんな苦労する抜け道など行くものかと、それ以来行かなくなって、何年が経過したのでしょう。
松阪から南に走ると、少し変わった地名の蛸路(たこじ)という集落があって、昔は駅もあったわけですが、そこを抜けると、松阪とは違う領域になっていて、櫛田川の左岸の町々があります。松阪から一山越えないとそちらには行けないので、松阪の旧市街地とは別の世界になっているのです。校区も全然違います。
古い街道は、櫛田川の右岸についていて、そのまま伊勢神宮へつながります。だから、櫛田川の右岸には古い集落があります。一方、櫛田川の左岸は平野もあまりなくて、農業はそれほどではないけれど、川を使った交通によって独自の発展をとげ、古い商家が残っています。ここから東京へ発展していった家もあるようで、おしろいなどを扱ったお店などがあったようです。大きなお屋敷があったり、古い神社があったり、山車の練り歩く祇園祭があったり、お寺がたくさんあったりして、左岸側も独自の世界を持っています。
クルマのディーラーから小1時間歩いてきた私は、いよいよ木立を抜けて、そちらの世界へ行こうとしていました。たぶん十数年前、対向車を交わすのに難渋した木立がこれです。
木のトンネルを抜けると、視界は広がります。
まっすぐな道をトボトボ歩いて、集落の所にたどり着き、射和(いざわ)地区の守り神の伊沢神社にお参りして、その鎮守の森の上まで歩いてみると、とてもキレイな紅葉でした。
手前から左手奥へ向かっているのが42号線です。少し向こうに飯南郡と多気郡をつなぐ両郡橋というのがあるんですが、写真ではみえませんね。
新しい両郡橋も何年も前にできて、今はこちらのバイパスが主流になっていますが、古い集落を見たいなと思ったら、こちらの道をたどらなきゃいけません。
そうでした。このお山、秋葉山というそうなんですが、ここから、松阪線の駅舎が見えました。古くさくしようと思い、モノクロで撮ってみました。手前のロータリーのようになっているところが駅です。
たぶん、ここで上り線と下り線がすれ違ったことでしょう。
私の、松阪線探し、今回はここで終わりました。でも、いろんなタネを見つけたので、少し資料を集めて、何か形にできたらいいですね。
帰りはスタスタ歩きましたが、疲れていたのか、足が痛かったんです。だから、3日後に軽い肉離れが起きました。湿布のおかげで今は少しましになりました。少しでも体を動かしていきたいです。
それなら、もっと早起きして通勤すればいいじゃんと気づいたのはオッサンになってからで、若いときは、そんなことに気づいても実践できませんでした。若い頃は寝ることが大事だったようです。
今は、ジジイになったので、睡眠はそんなになくてもいいのだけれど、寒いのに弱くて、目が覚めていても起きられません。困ったことです。父が見たら、何をしているんだと嘆くことでしょう。父はストイックでしたし、自己管理ができていました。
それなのに母は、「お父さんは、私に隠れてお酒を飲んでいた。ゲート(ボール)に行くと、お酒を飲ませる女の人がおったんやわ!」と、今ごろになって、父の飲酒を責めてたりします。
そりゃ、父だってお酒を飲みたい時もあったでしょうに。晩年は、母にお酒を取り上げられて、何だか少しションボリの人生でした。たまに家族が集まってお食事というときに、こっそりと「ちょっと入れて」と控えめに飲んでましたっけ。それが晩年の父のお酒でした。
すぐ話がそれちゃいますね。失礼しました。それで、抜け道として、三重交通の松阪線跡を突っ走る人たちがいるのは自然と気づきました。けれど、単線で舗装も上部だけの道で、対向車が来たら立ち往生しそうな道なので、とてもそこへ入っていく気にはなれませんでした。
それでも、時々間が差して、どれ前のクルマに続いて行ってみようという気持ちが起きたときがあります。1回目は見事対向車とのすれちがいに苦労することなく、細いけれど、うまく行けばなかなか近道かもしれないと思ったのでした。
2回目は、たいていとんでもない目にあって、二度とこんな苦労する抜け道など行くものかと、それ以来行かなくなって、何年が経過したのでしょう。
松阪から南に走ると、少し変わった地名の蛸路(たこじ)という集落があって、昔は駅もあったわけですが、そこを抜けると、松阪とは違う領域になっていて、櫛田川の左岸の町々があります。松阪から一山越えないとそちらには行けないので、松阪の旧市街地とは別の世界になっているのです。校区も全然違います。
古い街道は、櫛田川の右岸についていて、そのまま伊勢神宮へつながります。だから、櫛田川の右岸には古い集落があります。一方、櫛田川の左岸は平野もあまりなくて、農業はそれほどではないけれど、川を使った交通によって独自の発展をとげ、古い商家が残っています。ここから東京へ発展していった家もあるようで、おしろいなどを扱ったお店などがあったようです。大きなお屋敷があったり、古い神社があったり、山車の練り歩く祇園祭があったり、お寺がたくさんあったりして、左岸側も独自の世界を持っています。
クルマのディーラーから小1時間歩いてきた私は、いよいよ木立を抜けて、そちらの世界へ行こうとしていました。たぶん十数年前、対向車を交わすのに難渋した木立がこれです。
木のトンネルを抜けると、視界は広がります。
まっすぐな道をトボトボ歩いて、集落の所にたどり着き、射和(いざわ)地区の守り神の伊沢神社にお参りして、その鎮守の森の上まで歩いてみると、とてもキレイな紅葉でした。
手前から左手奥へ向かっているのが42号線です。少し向こうに飯南郡と多気郡をつなぐ両郡橋というのがあるんですが、写真ではみえませんね。
新しい両郡橋も何年も前にできて、今はこちらのバイパスが主流になっていますが、古い集落を見たいなと思ったら、こちらの道をたどらなきゃいけません。
そうでした。このお山、秋葉山というそうなんですが、ここから、松阪線の駅舎が見えました。古くさくしようと思い、モノクロで撮ってみました。手前のロータリーのようになっているところが駅です。
たぶん、ここで上り線と下り線がすれ違ったことでしょう。
私の、松阪線探し、今回はここで終わりました。でも、いろんなタネを見つけたので、少し資料を集めて、何か形にできたらいいですね。
帰りはスタスタ歩きましたが、疲れていたのか、足が痛かったんです。だから、3日後に軽い肉離れが起きました。湿布のおかげで今は少しましになりました。少しでも体を動かしていきたいです。