父の夢を見ました。それで、起きることにしました。3時と5時台に目ざめているので、浅い眠りの中での夢でした。
昨日、お昼ごろは山梨県で桃畑・ブドウ棚の中を走っていて、そういえば、去年山梨の桃を実家に送ろうとして右往左往したなぁ、とは思い出しましたが、まさか今朝の父の夢につながったのかどうか、そこのところはよくはわかりません。
父と母と私と弟の4人で家族旅行に出かけていました。そこは島で、2つくらい島巡りをしています。島の高台に立ち、別の島の遊園地が電光ディスプレイをしているのを眺めています。次から次と電光掲示は模様が変わって、まあ、とにかくこれをバックに記念撮影をすることになりました。
私はカメラ担当です。父と母を最初に撮ってあげることにしました。弟は知らんぷりをして、道沿いの露店をひやかしていました。
「さあ、(展望所の端っこに2人)並んで!」
とカメラを構えていると、
視界から父がいなくなりました。母が叫んでいます。
あわてて駆け寄ると、父は少し下の所にうつぶせに倒れたまま動きません。
ここで、父はホネが弱くなる何かになっていて、骨折しやすいことになっています。実際はそんなことはないのですが、夢の世界は何か演出したいことがあって、そうなっていました。
父をおぶって、帰ることになりました。船着き場まで車いすがあればいいのですが、その手配に弟は行ったようでした。母は父をおぶっている私を見ています。
私は、「どうして島なんかに来てしまったんだろう。よりによって乗り換えが面倒だし、車いすもないじゃないの」と思っていました。
おんぶしているうちに、父は垂れ下がってきます。自分でつかまってみようという力がないようです。小さい子なら、こっちが背中をゆすってもとにもどすのですが、父にそれをしてもいいのか、夢の中の私は心配したようです。
母に「お父さんに、ゆすってもいいか聞いて!」と依頼しました。
どうして直接父に聞こうとしなかったのか……。それは現在の私なら、そうするでしょうが、おそらく父との関係性がそうだったから、夢の中でもそうなってしまったんでしょう。いつも母を介してやりとりするような家族だったんですね。
よく母が、父のことばを伝えるときに使ったフレーズ、「お父さんが言うとったよ……」を聞くと、ドキッとしたものでした。直接会話する父と子であればよかったのに、めったにそういうことはなくて、父と2人で話をするときって、恥ずかしそうに何かの話題を出しているなあと自覚しながらしゃべってましたっけ……。自然に会話するってなかったんですね。何か面はゆいものがありました。
それで、夢の中の母は仕方なく、「お父さん、ゆすって上に上げてもいい?」と言ったようです。私はそれからおんぶしながら、地面に頭がつきそうなくらい下を向いて歩いていて、
「お父さん、お父さん」と呼びかけていました。
なかなか返事は帰ってきません。
「うん」とか、「ああ」とか、返事をしているようなのです。
それでも、こっちは何もしないで、何も聞かないで、自分の世界に沈潜していき、
「お父さん」という呼びかけをずっと続けて、
「ずっと呼びかけているなあ」と、もう1人の私が気づいて、
目がさめました。
それで、すぐ忘れてしまうから、ブログにメモしておこうと思ったんでした。
また、落ち着いたら、どこかにコピーして消すことにします。父に呼びかけてみたい気分があったんですね。もっとちゃんと話をする関係だったら、よかったのになあ。
★ あれほど愛し愛された夫婦の1人である母は、1回しか父の夢を見たことがないそうです。私はこれで2回目でしょうか。今度実家に帰ったら、母に自慢してやりましょう。
★ 一度だけ、家族で友ケ島に行ったことがあります。加太まで南海電車で行き、そこから船で行きました。海水浴でもないし、釣りでもないし、純粋に観光に出かけたのだと思われます。
どこで何をしたのかは忘れましたが、砲台跡だけは印象に残っています。以前シンガポールを訪れた時に、同じような砲台跡を見つけて、既視感がありましたが、あれは友ケ島での体験がもとになっていたんですね。
私の島体験のルーツは数十年前の体験がベースになっているようです。それで観光船が好きなんですね。なのに鳥羽に行くと、観光船には乗りませんけど、どうしてかな。たぶん、鳥羽の島々は観光で行く感じじゃなくて、生活の島なのかもしれない。(2015.10.6)