左利きは右利きとは逆なだけ
7月11日。日曜日。少し気温が下がってきたような感じでさわやか。なんたって25度を超えたら「真夏日」の感覚だもんね。入っていた仕事はあまり大きくなさそうだから、ぼちぼち手をつけることにして、もうちょっとだけ「休養」をとるか。後で慌てないといいけど・・・。
小町横丁の井戸端ではまたまた左利き論争をやっている。同居している姑に2歳の娘の左利きを直すように言われて、左利きはダメなのか、左利きの女の子はそんなに変なのかという相談。日本の人口を1億2千万人とすると、少なくとも1200万人の左利き日本人がいるという勘定になるんだけど、未だに(右利きの)矯正主義者が多いらしい。日本中で「左利きブーム」だったのはそんなに前の話じゃなかったはず。何がきっかけだったのかは知らないけど一躍「ブーム」になって、(おそらくマスコミに)ちやほやと祭り上げられ、踊らされた挙句、冷めやすい国民性のおかげで、また一躍「異質な嫌われもの」に格下げされたということか・・・。
左利き是非論は何度も上がって来るトピックで、だいぶ前にも大いに盛り上がっていた。左利きの人たちは右利きの人たちを敵視したり、排除しようとしたりしないのに、右利きの人たちは左利きはマナー違反だ、みっともない、箸や筆は右手で使うようにできている、と誰かの書き込みの通り、「左利き嫌いな右利きの方々のヒステリックな批判には呆れます」。「何がそんなに気に入らないのか」って、要するに、周りと違うのは(見ている自分にとって)違和感があるからダメということなんじゃないのかな。「もともと日本にあった、日本ならではの美的感覚も大事にしてくださいね」と暗に矯正を勧める人もいるくらいだから、とどのつまりは(自分の)美的感覚を撹乱されて気分的に落ち着かなくて迷惑だ、「生理的に嫌なもの」は自分の前から消えるべきということなんだろうな。人格を否定するのもいい加減にせいと言いたくなる。ったく、もう・・・。
矯正否定派は当然のごとく左利きを貫いている人たちがほとんど。親に右手を使うことを強制されてつらい思いをした人、吃音障害になって大人になっても苦労している人、自律神経失調症になった人。そういう左利きたちを「ヒステリックなバカが多いのか」とこき下ろす右利き至上主義のバカもいるけど、小さな子供がわけもわからずにコントロールできて使いやすい手の使用を禁じられて、意のままにならない手を使うことを強要されることのストレスは、実際に子供として経験した人でないとわからないだろうな。左利きに生まれついたワタシも一時は吃音障害に
なったそうだけど、今はほとんど解消したし、英語ならまったく問題がないからいいとしても、学校でも社会でも「変わった子」だったようだから、脳神経系や精神面でマイナーな後遺症はあるかもしれないと思う。矯正が正しいと主張したいなら、たとえ3日でもいいから左手だけで日常生活をやってみて、生まれついた利き手を使えないもどかしさや苛立ちがどんなものか知ってからにしてほしいもんだと思う。
誰かがある有識者の言葉だといって引用してくれていた。『左利きの子を拒否するということは、自分と違う個性を持つ人たちを拒絶するということ。その感情は「差別意識」、「自分と違う者へのイジメ意識」と同じです』と。ワタシは食事時になると母に左手をハンカチで縛られ、右手に箸を持たされた。還暦を過ぎた今でも、あの「縛られた左手」が鮮明に記憶に残っていて、ご飯を口に運べなくて泣いた悔しさや屈辱感と共に甦ってくる。反抗期にはさっさと左利きに戻ったけど、就職できない、嫁の貰い手がないと脅かされいたっけ。何とか社会人になっても、ラーメン屋に入ればサラリーマンおやじに「まずくなるから出て行け」と衆人の前で怒鳴られたりもした。今のワタシだったら、「ええ、そうですかあ?ここのラーメン、すごくおいしいですよ~」とやり返せただろうけど、あの時は何も言えなかったな。返す返すも残念無念・・・。
それにしても、日本にはそこまで自分とはちょっと違うだけの人間を「異質」として排除しないと気がすまない人が多いらしいのはどうしてなのかなあ・・・。
協調性のパラドックス?
7月12日。月曜日。起床は午前11時。どうやらそろそろ平常の生活時間に戻りつつある。ま、「休養」の効果が出て来たというところか。金曜日の夜にバンクーバーを発車したデイヴィッドとジュディの列車は今日の朝にトロントに到着したはず。車中で3泊の旅、お疲れさま。今日のバンクーバーはちょっと涼しい。朝方にはかなりの風が吹いたらしく、倒木やら停電やら、キツラノでボートごとビーチに打ち上げられた人までいたらしい。天気の変わり目なのかなあ。
朝食を済ませて、さて今日はまず「仕事」から、と仮想ねじり鉢巻を締めたところで、何やら外で騒音。飛び出して行ったカレシが戻ってきて、「道路の舗装を始めるんだってさ」。そういえば、ウィスラーに行っている間に仮舗装した縁を防水したらしく、黒々とタールが塗ってあった。昼だというのに工事とは仕事熱心だと思ったけど、「5分で済むってさ。ついでの仕事だな」とカレシ。なるほど、モールまで行くにもあっちこっちで道路工事の通行止めに遭遇するから、そのひとつが早く片付いたらこっちへ回ってくるんだろうな。ほんとに舗装といっても、幅が5、60センチで、直角に曲がった延長は20メートルそこそこなんだから、たしかに「ついで仕事」の規模と言えそうだけど。アスファルトが届いて、伸ばして、ローラーをかけて、ほんとうに5分もかからずに終わってしまった。ごくろうさま。
きのう左利き矯正論にちょっとばかりカッカしたので、どうして異質なものを排除したがるのかを調べてみたら、おもしろい論文やブログがかなり出て来た。中には外国人の「日本ではなぜ~」という疑問を集めたコレクションがあって、ワタシもなぜなのか知りたいと思うことがたくさんあったけど、こういうのはたぶん外国人による日本批判と受け取られて、「それが日本のやり方/伝統/文化なんだから」といった答しか戻って来ないような気がするな。それでも、「日本人の英語にはなぜ"We Japanese"という言い方が多いのか」という疑問では、日本から来たクライアントが何かというと「我々日本人は~」と言うのにうんざりしたと、故郷のアルバータの小さな事務所に移籍した日系三世の弁護士のことを思い出した。まあ、根底に「我々日本人」という日本文があって、それをそのまま英語にするからなんだろうけど、たぶん「同じ日本人として~」というのと同じで、、「日本人」と言う集団への強い帰属意識の現われなんじゃないかと思う。
あれこれ読んで考えてみたけど、結局はよくわからない。片思いをするのは浜のあわびくらいのもので、人間の交流は一方通行じゃないから、ワタシを異質なものとして批難・排除した(したい)人たちはたぶん、ある人にとってワタシが「異質」なものなら、その人がワタシにとっては「同質」なものだということはまずありえないとは考えないだろうな。まあ、ワタシは自分だけではなくて他人についても「人それぞれ主義」なもので、どこの誰がどれだけ自分と違っていても苦痛は感じないけど、生理的に受け付けられないという強い嫌悪感を持つ人もいるのも現実。これだって英語でいえばvisceral、つまり本能的なレベルでの違和感や嫌悪感への反応だろうから、原始の時代にまで遡らないとわからないことなのかもしれない。
何のサイトか忘れてしまったけど、「日本人論/日本文化論」のテーマで興味深い意見を見つけたので、ここで勝手に引用しておこう。『本当に協調性があるなら異質な人を受け入れることもできるはずだし 、異質だというだけで排除しようとするのは協調性の無さの現われだと思う』。まさに和をもって尊しとする日本のパラドックスと言えそうな・・・。
なぜなぜの検証は楽しい
7月13日。火曜日。午前11時起床。天気はいいけど、ちょっと涼しい。朝食が終わって、ごそごそと活動を始めた正午で15度。先週が暑かったから涼しく感じるだけで、ま、平年並みというところか。人間の感覚と言うのはたいていは「相対性理論」式だから、暑いと騒いでいて、普通になれば寒いと騒ぐし、寒いと騒いでいて、普通になれば今度は暑いと騒ぐ。自然よりも人間の調節機能の方が不順なんじゃないかと思ってしまうけどね。ま、今日はスリーブレスは露出度が過剰だから半袖にして、だけどまだ膝下の丈に替えるほどには涼しくないから・・・と、着るものを選ぶ。
きのうの「日本人はなぜ~」の疑問の中に「なぜ6月1日と10月1日という特定の日に「衣更(ころもがえ)」と称して着衣を替えるのか」というのがあったけど、たぶん四季の変わり目が定期的な気候だからだろうな。もっとも6月1日と10月1日でOKなのは津軽海峡以南の話で、これを北海道の北の方に適用しちゃうと、学校の制服がまだ寒いうちにもう夏服になり、もう寒いのにまだ夏服という奇妙なことになる。鳥肌を立てている子供には「何で?バカじゃない」という疑問でも、学校当局としては「文部省のお達しだから」ということらしかった。あのお、亜寒帯に属する北海道も日本国領土の不可分の一部なんですけど・・・といっても「温帯低脳圧」のお役人には通じそうにないか。まっ、いいんだけど。
四季が予定通りに変わってくれないバンクーバーでは「予定通り」の衣替えなんかできない話。おかげでクローゼットやたんすには四季の衣類が混在して、年中その日の気候に合わせてとっかえひっかえ。日本人の間で「カナダ人は片づけべたでだらしない」というのが通評になっているらしいのも、あんがいこんなところから来ているのかもしれないな。まあ、猛暑になればあわてて扇風機を買いに走り、雪が降ればあわてて雪かきシャベルを買いに走るくらいだから、「我々バンクーバーっ子」の適応能力はかなり高いと思うんだけど。だって、カレンダーってのは「仕事をする日」と「遊ぶ日」を見分けるためにあるようなもんでしょうが。
NewsOnJapanの記事の見出しを見ていたら、Incubator Bankという名前を見つけて、宮崎の街を歩いていて「ヘンな銀行だねえ」といいながら看板の写真を撮ったのを思い出した。日本新興銀行と言うんだそうで、中小企業金融公庫のような政府系の金融機関かと思ったら、どうもそうではないらしい。いったい誰がIncubator Bankなんていう英語名を思いついたんだろうな。まあ、「incubator」というのは鳥の卵を孵化させる人工孵卵器や未熟児を入れる保育器のことだから、銀行名としての発想としてはなるほどとわかるんだけど、「細菌培養器」という意味もあるもので、記事を読んでついそっちの方(ばい菌)を連想してしまった。
日本の商品や会社のネーミングはいつみてもおもしろいなあと思うんだけど、最近は銀行にもけっこうおもしろい名前が登場しているらしい。昔は明治の国立銀行設立にルーツを持つ番号が名前の銀行がたくさんあったけど、近頃はひらがなで書く名前も多いらしい。銀行だけでなく、ひらがな名の企業も見かけるから、柔らかいイメージが狙いなのかもしれないな。「もちもち」という食感が好まれているらしいのとあんがい関連があったりしてね。つい「うわ!」と思ったのは「あおぞら銀行」。直訳すれば「Blue Sky Bank」で、blue skyというのは俗に「いんちき証券」のこと。19世紀に、放っておけば悪徳業者が青空まで投資対象にしかねないと、アメリカの各州が設けた証券規制法がBlue-sky lawといわれる法律だけど、「あおぞら」銀行という看板を見て真っ先にこのblue skyの方を連想してしまったわけ。英語名がAozora Bankなのは、ネーミングした人がそういう背景を知っていたからだろうな。
かってトマト銀行(今でもがんばっているらしい)が有名になったけど、ちょっとググって見たら、ワタシのお金を預かっている「みずほ銀行」の他に「りそな銀行」。地方へ行くと「みなと銀行」に「みちのく銀行」。ここまではいいけど、「もみじ銀行」、「きらやか銀行」、そして「ゆうちょ銀行」。「もみじ銀行」って、秋の夕日のもみじ・・・お金、預ける気になるかなあ。ネット銀行には「じぶん銀行」というのもあるけど、これはWindows式の「Myなんとか」的発想か。お堅いはずの銀行がこれなんだから、いろんな企業の名前に調べてみたら発想の根拠を知りたくなるようなおもしろいのがたくさんありそう。
さて、カレシは今週は英語教室が休みだけど、ワタシは即興演劇教室。今日は何人来るのかな。小町横丁で観察した人間模様を使えたらおもしろいだろうな。小町のおかげで、人間は人種がどうの、民族がどうの、宗教がどうの、言語がどうの、文化がどうのとやかましいけど、つまるところは根本的に似たり寄ったりの性格をやりくりしている「動物」なんだと思えて来たけど、そう言うとまた「みんな同じであるべきだけど、自分だけは違う(特別)」と主張したい人をいたずらに刺激してしまうかもしれないなあ・・・と思ってみる、ときどきイジワルなワタシ。
一生のうち文句に費やす時間
7月14日。水曜日。今日もいい天気で、ちょっと暑くなりそう。仕事が途切れたので、今日はフリータイム。天気予報も「お日様」マークがずらりで、予想最高気温は平年並みだから、このまましばらくこんな風にヒマだといいな。ちょっとは片付けないと家中がごちゃごちゃ。親元で暮らしていた頃の自分の部屋はちゃんと片付いていたんだけど、これは絶対にカレシの影響だと思うな。なにしろ、片付けるも何も、その前にモノをどこかに置いたことさえ忘れちゃう人なのだ。ご当人が「5つのときからそうなんだからしょうがないだろ!」と言うもので、たとえば1日平均30分を「アレ、どこに置いたっけ?」に費やしたとすると、1年を365日として182.5時間(7.6日!)。5歳の時から毎日30分モノ探しをすること62年で11,315時間。約472日。
こうやってみると、長い人生には一見して「むだ」な時間がずいぶんあるもんだなあと感心する。毎日「文句たらたら」の人なら、たとえ1日あたりわずか30分でも、ちりも積もれば何とやらで、人生85年のうち80年間としたら、なんと600日以上もたらたら、たらたらと文句をたれっぱなしということか。いや、ほんとの文句たれだったら、1日30分ではすまないだろうな。たとえば、毎日あたり1時間くらいグチグチ言っているとしたら、寿命が来る頃には1200日以上、ひょっとしたら4年分くらい愚痴って暮らしたことになるかもしれない。う~ん、これはちょっとばかり考えものだなあ・・・。
まあ、世の中にはたらたらと文句を言うことで生きるエネルギーを感じる人もいるだろうし、愚痴ることが唯一の楽しみのようになっている人もいるだろうし、そういう人たちは毎日何時間でも文句をたれっぱなしかもしれなくて、傍から「文句言うな」と言われたら生きている意味がなくなったみたいに感じてしまうかもしれないな。それでも、文句をたれ続けるほどに一度しかない生涯の貴重な時間がどんどん流れて行くわけだけど、そうして消費される時間をむだと見るか、有益と見るか。まあ、むだな時間もあんがい有益だったりするから、自分の時間を費やしているうちは人それぞれで「みんないい」ということになるか。自分の時間で間に合わなくて、他人の時間まで横取りするようになると、ちょっと以上に考えものだけど・・・。
そういうけっこうむだなことを漠然と考えながら、今日はクローゼットにごちゃごちゃと押し込んである衣類の整理。ハンガーのいらない衣類は寝室にそれぞれ専用にしつらえてある4段の棚に積んだり、バスケットに入れたりして置いてあるんだけど、Tシャツを12枚、スカートを3枚も新調したのに突っ込むすき間がない。しょうがないから、古くなって捨てるもの、着なくなって寄付するもの、まだ着られるものに仕分けすることにして、とりあえず全部出してみたら、棚の奥のほうからサイズ10号のドレスが出てきた。ここ10年は4号で落ち着いているから、もろに前世紀の遺物。おもしろ半分に着替えて鏡を見たら、あはは、やっぱり大きすぎ。ワタシもこんなに大きかったときがあったのかとちょっぴり感慨もあったけど、迷わず寄付。
午後いっぱいかけて、捨てるものはゴミ袋ひとつ、寄付するものはホテルから失敬してきた洗濯物を出す袋に3つ。大汗をかいたおかげでクローゼットの棚はきちんと分類整理してすっきり。ふむ、まだあと何枚か詰め込める余裕がありそうだなあ・・・。
これも読心術のうち?
7月15日。木曜日。午前11時半起床で、ほぼ平常の時間。今日も暑くなりそうな空模様。仕事はあるけど、納期が来週の月曜日(つまり、日本時間で火曜日で、原稿の量からみると余裕ですいすい行けそうだから、今日はサボり。なんでこんなに余裕たっぷりの納期?と思ったら、そっか、日本では連休なんだ。何の記念日か知らないけど、ハッピーマンデイというヤツだろうな。
西日本や九州で「猛雨」で被害が出たと新聞サイトにあったけど、この言葉は初めて見た。従来の「豪雨」とはどれくらい違うのかな。広辞苑には「激しく降る雨。豪雨」と書いてあったけど、つまり「大雨」という言葉では足りないくらいの雨が降ったということかな。Japan Probeには日本のテレビニュースのビデオクリップがよく上がるので、のぞいてみたら「Dailymotion」のクリップがあって、洪水やがけ崩れの様子が映っていた。膝までありそうな濁流の中を片手で傘を差して自転車をこいで行く人がいたのにはびっくり。いつもは映像だけ見るのが珍しく音声を聞いてみたら、どこのテレビ局なのか知らないけど、背景にアニメか何かのナレーションのような独特の語り口の声が流れていたのにはもっとびっくり。ドキュメンタリー風にまとめたニュースなのかな。まあ、「猛雨」がどんなものかわかったし、これからはまた音声だな。あのおどろおどろしいナレーション口調はどんな場面で聞いても気持が悪い・・・。
カレシの発案で、トラックの運動がてら気分転換に菜園用にミックスした土をトラック一杯売ってくれるというところを見に行くことにした。気温は20度というのにもっと暑く感じる。でも、これがバンクーバーの夏。背中の日焼けが盛大にむけて来たけど、例によってショーツにタンクトップ。目当ての「店」は土や砂の山があちこちにあって、ジムショとおぼしき建物は今にもばらばらに壊れそうなぼろ屋。トラックを乗り入れて、土の山をチェックしていたら、中からメタボおじさんがのそ~っと出て来た。積んだ量がわかるように大きな袋を持って来い。払いはキャッシュか小切手で・・・と、あんまり商売に興味がなさそうな口調でぼそぼそ。じゃあ、袋をもって明日にでも来るからと、トラックに戻ったカレシ曰く、「あの土じゃ何も育たないよ」。
せっかくだからよく行く園芸センターへ行くことにしたけど、どこへ行っても道路工事だらけだなあ、今年は。おかげでヘンなところで曲がってしまって、ぐるっと回り道。こういうときになるとカレシはああだこうだと愚痴っぽいことをよくしゃべる。ひとしきり文句をたれては「ま、どうでもいいけど」とか「オレはかまわないけどさ」。そういえばカレシの愚痴にはいつも「酸っぱいぶどう」的なコメントが入るなあと思っているうちに、100ワットの電球がポッ。ははあ、よく「I’m thinking out loud(口に出して考えている)」と言うのはまさにその通りで、実はワタシとの会話じゃなくて、カレシの独り言、あるいは自分との対話だったんだ。ワタシはカレシの頭の中の思考を聞いていたわけなんだ。なるほど、なるほど。これは新発見・・・。
文句の多い人って、あんがい深慮遠謀なタイプじゃなくて、ものごとを頭の「外」で考える傾向があるのかもしれないな。注意を引きたいだけなのか、聞いてもらいたいのか、そのあたりはよくわからないけど、目の前の問題を分析して、解決を探っている、その思考経路がネガティブなもので、外の人間には文句たらたらのように聞こえるのかもしれない。自分との対話に夢中だから、外から何を言ってもかみあわないんだろうな。今度から、文句たらたらにちょっとイライラを感じて来たときには、「カレシテレビ局」のニュースの画面に流れるテロップを読んでいるつもりになってみようかなあ・・・。
一過性自律神経失調症?
7月17日。土曜日。ぶっ通しで11時間も眠って、目が覚めたのは11時。疲れがたまっていたのか、知らないうちに何かストレスがたまっていたのか、あるいは本当に体調を崩したのか、よくわからない。起きてみたら血圧はいつもより低くて、おまけに「不整脈」のマークまで出たけど、まあ、普通の自分の感じはするから、やれやれ・・・。
きのうは午後いっぱい何となく頭が軽くて(という言い方が日本語にあったかどうか忘れたけど)、要するに目の焦点が合わないような、ふわふわしたような気分。それが夕食後になって、突発的にそれも顔だけに猛烈な汗が出たかと思うと、さっと引いてぞくぞくと寒くなり、急に下痢はするし、胃はむかむかしてくるし、カレシまでが「真っ青な顔しているよ」と言い出すしで、ちょっと横になった。1時間くらいして起き出してちんたらとブログを書き始めたけど、やっぱりおかしいから、今度は念のために二重にしたビニール袋持参で、ベッドに入ってまた2時間くらいうとうと。吐き気は治まったもののやっぱり調子が良くないから、起き出して全部シャットダウンして、本格的に寝てしまったのが真夜中。カレシはひとりでポテトチップとババガヌーシュのランチを食べていた。
カレシがそ~っとベッドに入って来たのはおぼろげに覚えているけど、とにかくぶっ通しで眠ること11時間。いったい何だったのかなあ。ああいうのを自律神経失調症というのかもしれないな。とりあえず、「自律神経失調症」でググって見たら、Wikipediaが真っ先に出てきて、心療内科の領域みたいなことが書いてある。だけど、英語名は「dysautonomia」と書いてあるから、そっちの方をググって見たら、やっぱりWikipediaが真っ先に出てきたけど、書いてあることが日本語版とは全然違うからびっくり。症状は英語版の方が一致するものが多いんだけど、考えられる原因として上げられているのは神経系統の身体的疾患ばかりで、ストレスのスの字も見あたらないからこれまたびっくり。ついでに「autonomic ataxia」、「autonomic imbalance」でググって見たけど、どうも日本人がいう「自律神経失調症」に当たっていそうなものがほとんど出てこない。こっちには「心療内科」なるものがないし、ひょっとしたら日本人と非日本人では病気のなり方が違うのかな。どうなってんだ・・・?
まあ、徹底的に寝ただけで治まったところを見ると、日本型自律神経失調症だったということか。たぶんに、ストレスが原因なんだろうけど、じゃあ何がストレスだったのか。つらつらと考えるに、おとといの夜、今まで機能していた広告ブロックがなぜか機能停止して、「見たくない」広告が視界に入って来た。最近IEがアップデートされて、広告をブロックするアドオンが働かなくなったのかと思って、その夜は新しいバージョンをダウンロードしてインストール。そしてきのうの午後。新バージョンも機能していない。「見たくない」広告どころか、どこを見てもうるさい広告がべたべた。頭にきてアドオンをアンインストール。午後いっぱいかけて、IEの設定をいろいろいじり回したら、うるさい広告はある程度ブロックされるようになったけど、「見たくない」広告はまだ視界に入ってくる。そして夕食後、また・・・。
たぶん前日の聞きたくなかったアニメ口調のおどろおどろしいナレーションや「見たくない」広告の再発現がストレスにつながったんだろうな。日本のテレビニュースのクリップを映像を見るだけで音声を聞かないのは、やたらとピッチの高い女子リポーターの声(「キイキイ」と入力しようとしたら「奇異奇異」と出てきてしまった)とわざとピッチを下げたようなナレーションの声にぞっとするからなんだけど、どうしてなのか考えると、聞きたくないのに聞こえてしまって、見たくないのにチラチラと見てしまったアニメに行き着いてしまう。ごく普通にテレビで放映されているものらしかったけど、ワタシにはあの凍りついた炎のような陰湿な残忍さはとっても正視できるものではなかった。でも、画面は見ないようにはしても、音声だけはいやでも耳から入って来る。それが、ワタシの深層心理のずっと深いところに癒しきれずに残っているトラウマをかき乱したのかもしれない。
胃のむかつきや息苦しさを抑えながら、眠りに落ちるまでそんなことをぐるぐると「分析」していたように思う。それにしても、ワタシの個人的な印象でしかないかもしれないけど、日本のアニメやマンガに描かれるキャラクターには、憎悪に燃えているような顔、怒と哀の感情した知らないような顔をしたのが多いように見えるのはどうしてなんだろうな。まあ、人間は誰でも何かしら心の奥にトラウマを抱えているだろうけど、一番つらいのはそれを一番理解してもらえそうな人たちから攻撃されることだろうな。もちろん、理解してもらえると思うからつい気を許すんだろうけどな。なぜかワタシのトラウマを一番良く理解してくれたのは(文化や言葉の壁に阻まれて)一番理解してもらえそうにないはずの人たちだったから、この世はみんなパラドックス。
寝すぎたせいで背中が痛いけど、自律神経の方は自律を取り戻したようだし、まあ、どっちも頻繁に見るサイトじゃないのにいちいち自律神経をかき乱されるのもあほくさいから、これに懲りて、ニュースクリップは音声を聞かなければいいし、「見たくない」広告はおバカちゃんたちが相変わらずおつむの空洞の大きさを宣伝していると思えばいい。ここは極楽とんぼ流の「ま、いいか」の精神で行ってみるか・・・。
海外にはうまいものがない??
7月18日。日曜日。起床はごく普通の午前11時半。相も変わらず「夏日」。さあて今日は仕事をしなくちゃ、という日だけど、だらけたい気持の方がちょっとね。ま、65歳になって年金をもらうようになったら、それを税金で取り返されない範囲で仕事を続けるとすれば今のようなのんびりペースになるだろうと思うから、それまでは、だな。
元気回復したきのうの土曜日。前日は結局2食だったし、大汗をかいたりなんだりでかなり脱水したとみえて、ひと晩で体重が1キロ減っていた。おお、人生は塞翁が馬、は大げさだけど、ゆうべはイアンとバーバラと連れ立ってディナーに出かける日で、ダメかもしれないと半ばがっかりしていたから、体調が回復しておまけに体重が減ったのはなんともラッキー。4人連れでのディナー、本当は水曜日にPastisの「巴里祭」のスペシャルに行くはずが、カレシがイアンのメールを見落としたおかげで予約の電話を入れたときはすでに満員御礼。それなら、とイェールタウンにあるCioppino’sに行こうということになって、木曜日に予約の電話を入れたら土曜日は予約満杯。二戦二敗でイアンにバトンタッチして、バーバラの希望でワタシも前から一度行きたかった郊外のラドナーにある老舗のLa Belle Aubergeに決まったのだった。
行って見たら、百年以上も前に建てられたいかにもお屋敷というたたずまいのヴィクトリア朝様式の白い家。まだ「村」の雰囲気が残るラドナーの中心をちょっと外れた住宅地にあるから、前庭を玄関に向かって歩いていると、まるで誰かの「おうち」にお伺いするような気分になる。中は昔の間取りのままらしく、各部屋をテーブルが3つ、4つというダイニングルームにしつらえてあって、なかなか落ち着いた雰囲気。栄枯盛衰の激しいレストラン業界で、客が車で30分も1時間もかけて来るような場所で30年も「高級レストラン」として続いているのはすごい。世界料理オリンピックで優勝したことがあるオーナーシェフのブルーノ・マーティはスイスの出身だそうな。最初に出されたアミューズブーシュは芸術品。ワタシは雉のコンフィの入ったコンソメとラム、カレシはグリーンサラダとフライパン焼きのイワナ。蒸したか付け合せの野菜類も歯ごたえのある新鮮さで、うん、満足、満足。
ここのところ小町横町の井戸端をにぎわしていたトピックのひとつが『海外にうまいものは存在するか?』という問いかけ。自称「うまいもん好き」のトピックの主は過去に世界30カ国ぐらいを旅行したけど「真にうまいと思った料理がない」と嘆いている。外国人の夫の国の料理はまったく口に合わないそうな。グルメ本に必ずといっていいほど載っているところでも首をかしげるような味なのはいったい何なんだろう?日本人(もしくは自分)の舌が肥えすぎているのか?あるいは味オンチなのか?日本以外に絶品は存在しないのか?それとも存在するがたまたま自分の口に入らないのか?いるなあ、こういう、実は味オンチらしい人。食べ慣れないものを「まずい」としか表現できない人、舌の肥えた美食家を気取ってはいるけど、ラベルが「地鶏」と言えばブロイラーでも美味だと思ってしまう人。(ほんとに舌の肥えた人たちだったら、食品の偽装事件は起こらないだろうと思うんだけど・・・。)
トピックの主は後出しで「日本で食べるフレンチやイタリアンはうまいのに」と言い出したもので、「味覚の幅が狭くて決まった味しか受け付けない舌」、「日本人の味覚のまま食するからおいしくないだけ」、「日本風の味付け以外への舌の順応度が低い」などとかなりの言われようだけど、まさにそういう人なんだろうと思うな。外国の料理でも日本で食べればおいしいんだったら、舌と脳がグルタミン酸ナトリウム依存になっていて、それが入っていないとおいしいと感じないのかもしれない。単に日本(自分)の「ものさし」に合わないものには何でもダメ出しする人というだけだということかもしれないけど、それじゃあせっかくあちこち外国を旅してもダメダメばかりであまり楽しくなさそう。
まあ、200本近い書き込みを読んでいると、味覚というものはまさに本能に近い主観であって、だからほんっとに人それぞれなんだと思う。日本人が日本食が一番おいしいというのは日本人だからなんであって、他の国の人たちが同じように感じるわけじゃないのに、たまたま日本食好きの外国人がいただけで「やっぱり日本食は世界で一番うまいんだ」と言い立てる短絡思考の人も多い。まあ、うまいものが食べたいと外国へ出かけて行って、日本で食べるとおいしいのにこの国ではどうしてまずいんだ・・・このあたりではつい笑ってしまったけど、とどのつまりは見るもの聞くものを日本と比べて「日本が一番」を確認するための旅になっているようにも思うなあ。トピックの主にいたっては、イタリア人やフランス人に「日本で食べるフレンチの方が旨いんじゃない?(白状しなさい!)」みたいなことを言うからすごい。イタリア人やフランス人がこれを聞いたら何と返事をするだろうな。
そもそも「おいしい(旨い)」の反対語は必ずしも「まずい」ではないと思うし、ワタシは元からどこで何を食べても「おいしい」と思える能天気な人間だし、たしかに「ちょっと口に合わないな」とか「自発的に食べようとは思わない」というものには出会っても、ほんとうに「まずい」と感じたものにはまだ遭遇したことがない。日本食は特に際立って「おいしい」とは思わない。むしろ「退屈な味」だと思う。ご飯が大前提にあって、おかずの味つけの基本は醤油か味噌(そして化学調味料)だから、個性がないと言ったら叱られそうだけど、どこへ行っても似たり寄ったりの味がするように感じる。日本食の代表選手みたいな寿司だって、日本ではどこで食べても酢飯と生の魚とわさびと醤油という基本は同じ。まあ、「伝統」だから創意工夫の余地がないのかもしれないけど、食人生の半分以上を「出汁、醤油、味噌、化学調味料」のセットから遠ざかっていたから、ワタシの味覚の基準が「日本の味」でなくなっているのかもしれない。このあたりは、欧米に行って「海外にはうまいものがない」と言う日本人旅行者とどっこいどっこいというところかな。
我が家(といっても2人だけど)の食生活はいたってコスモポリタンだと思う。カナダに来たばかりの頃は経済的にも日本食には手が届かなくて、とにかく手に入るもので作れるものを作って来たんだけど、それをどうひいき目に見ても貧弱な食生活で育ったカレシがおいしいと食べてくれたから、そのまま我が家の「食文化」に発展したんだろうな。ワタシの母は料理上手だったのに、その料理を食べて育った娘が「おふくろの味」が口に入らなくてもなぜか苦痛に感じなかったのは、あんがいたいていのものをおいしく食べてしまえるごく単純な幸せな「舌」を持っているということかもしれないな。もっとも、それも母にそのようにしつけられたところが大きいんじゃないかと思うんだけど・・・。
ある夏の日の食卓
7月19日。月曜日。午前11時半、ゴミ収集車の轟音で目が覚めた。誰かがカナダはゴミ収集車も消防車も音がうるさすぎると文句を言っていたことがあったなあ。まあ、東京のゴミ収集車や消防車とサイズを比べてみたらどうしてうるさいのか納得できそうなもんだけど。今日も暑くなりそう。今の時節、このくらい暑くないと夏はどうしちゃったんだ~で終わってしまう。暑いといっても25度まで行かないごく普通の夏日だし、あとひと月もすれば恒例のPNEが始まって、ジンクス通りに雨がしとしとと降り始めるし、バンクーバーの夏を楽しむなら今のうち・・・。
久しぶりに朝食はベーコンと卵にしようということになって、それっと起きる。カレシがいつものように食洗機を空にして、テーブルをセットして、コーヒーメーカーをセットして、パンをスライスしている間に、まず大きなジャガイモ1個を細かなさいころに切って水にさらし、ベーコンを2枚、これも細切れにして炒め始める。ベーコンは細いときは3枚だけど、今日のはちょっと厚めで幅があるから2枚だけ。いもはユーコンゴールドという中が黄色のジャガイモ。いっしょに炒めてしまうから、ひとり分のベーコンの量は半分。だいたい火が通ったところで、カレシが卵を焼き始める。カレシ2個、ワタシ1個の目玉焼き。黄身が少し流れるくらいのがいいということで、もう何年も目玉焼きはカレシの担当。ワタシが盛り付けをしている間に、カレシがトマトをスライスして、パセリをちょこっと飾って、思いのほかおしゃれな朝食・・・。
見直しが終わっていた仕事をさっさと納品してしまって、さて、今日は何をしようかな。ランドリーシュートのドアを何気なく開けたら、あら、どさどさっと洗濯物のなだれ。は~い、今日は洗濯日ということね。カレシがおでかけに着て行ける半袖のシャツがないと言っていたけど、洗濯物の中に全部入っているんだからそのはず。今日は3ラウンドか、4ラウンドか?これが日本だったらとっくに「ダメ嫁」認定かなあ。洗濯機が回っている間、ちょっと(だけ)パックマンで遊んで、ときどき庭に出て、カレシがガレージの中でトマト用のトレリスを作っているのを見学。丸鋸の深さの調節方法がわからないというので、このねじをゆるめて、このシューを動かして位置決めして、ねじを締める・・・あ~あ、前にも教えたのにめったに使わないから忘れている。温室の外には青いトマトがそこかしこ。パセリもネギもミントも、ひょっとして大きなやぶになりそうな勢い。暑いから、ミントジュレップを作ってもらおうかなあ。
なんとなくのどかに夏の午後が過ぎて、夕食の時間。今日は厚みのあるオヒョウ。白さがきれいな魚は少々塩とこしょうでさっと焼くだけにして、ソースで食べるのが一番おいしい。今日は冷蔵庫に残っていたカップ入りのパイナップルとパパイヤ。ジュースごとなべに空けて、少しだけ残っていた白ワインも空けて、ついでにまだ残っていたサングリアも半分入れて、ハンドミキサーでピューレ。あとはゆっくりとリダクションして、最後にひとつまみの塩で仕上げるけだけの「南国風思いつきソース」。甘みのある白身の魚にはトロピカルフルーツがよく合う。
付け合せは何がいいかな。野菜はインゲン。あとはキノアにしようか、イスラエル式クスクスにしようか。いや、今日はリゾットにしよう。ポルチーニやシャンテレルのミックスきのこを水で戻して、味の出た水にチキンストックを足してリゾットのベース。刻んだきのこのほかに、蒸すときに長さをそろえるために切り落として取っておくアスパラガスの根元の部分を輪切りにしてリゾットに加えて、少しずつストックを足しながらゆっくり炊き上げて、仕上げに白トリュフのオリーブ油を数滴。白トリュフはイタリアのアルバ地方産のが特に有名で、1キロあたり1万ユーロ以上するそうだけど、ワタシはその香りをつけたイタリアのオリーブ油をパスタやリゾットにたらっと落とすだけでもう十分にしあわせ・・・。
[写真] オヒョウのフライパン焼き、南国フルーツソース
きのことアスパラガスのリゾット、白トリュフオイル風味
蒸したインゲン
(サラダ、カレシ特製ドレッシング)
カレシのお気に入りのソヴィニョンブランをお供にして食べながら、今日のソースは全部残りもので作ったと言ったら、カレシ曰く、「レストランのリダクションだって同じだよ、きっと。客が残したワインとか売れ残ったポートとかさ、まとめて煮詰めるんじゃないのかな」。ふむ・・・。そこのところは知る由もないけど、レストランの料理がおいしいのは、「たまに」食べるからということもあるかもしれないな。どんなに料理のおいしいレストランでも、あまりしょっちゅう食べに行くと何となく「ありがた味」が目減りするような気がする。それで、本格的に再開することにした週末の外食も、今度は前のように毎週じゃなくて月一度くらいにすることで意見が一致したのもそういう理由だった。まあ、(おそらくは観光案内や他人の「おすすめ」の)旨いグルメを求めて世界を歩くのも楽しいけど、身近で手に入る食材を家でおいしく食べる方が、なんだかおなかのシアワセ度メーターがぐんと上がるような気もするけどなあ・・・。
停電もまた楽しからずや
7月20日。月曜日、午後11時過ぎ。突然、停電。ま、停電というのは突発的に起こることなんだけど、デスクのライトが消えて、ん?と思っていたら、カレシのバックアップ電源がビーコビーコと鳴り出した。あ、停電だ。ワタシのバックアップは十分に電池があると見えて、煌々とモニターが点いている。急いでシステムをシャットダウンして、暗闇の中を手探りで懐中電灯を探しに一階へ。自分で設計した家なもので、未だに目をつぶっていても歩けるからおもしろい。カレシは見つけて渡した懐中電灯を持って外へ。ワタシはLEDのランタンを持って二階の「物見やぐら」へ。
ほぼ見渡す限り真っ暗なところを見ると、これはかなり広域だな。変電所の故障かな。携帯に入れてある電力会社に停電を通報するトールフリーの番号にかけて、言われるままに電話番号や住所のデータを入力したら、「停電発生中です。予想復旧時間は火曜日午前2時30分頃です」というメッセージが流れた。あと3時間もかかるのかあ。リビングへ戻ったら、外に消防車と救急車の赤いランプ。そうだ、ご近所に重度の障害で人工呼吸器をつけている人がいる。停電で呼吸器が止まってしまったら、命に関わる問題だな。
外から戻って来たカレシが手回しで発電して使えるラジオを持ち出して来たので、リビングのテーブルにランタンを置いて、しばしラジオのニュースに聞き入る。ニュースによると、ランガラ地区は数千戸が暗闇の中。復旧はまだ「午前2時半頃」と言っている。ラジオの電池が切れるたびにカレシはハンドルを回して発電するけど、停電したときってほんっとに何にもすることがないんだよねえ。そのうち、カレシが懐中電灯が見つからないと言い出した。あのぉ、停電で真っ暗だから懐中電灯なんでしょ?それをそこらにホイと置いたら見つかるわけがないでしょ?それってnot very bright(あたまワルイ)じゃない?でも、しょうがないからランタンを持って家中を懐中電灯を探して歩く。懐中電灯はラジオを置いてあったところにあった。やれやれ。ラジオのニュースでは市内の2ヵ所で停電中。どうなってるんだろう、まったく。
ランタンの明かりでとりとめのないおしゃべりをしていたら、夜中のランチの時間が近づいて2人とも「おなか空いた」。カレシが「何か電子レンジでさっと温められるものないの?」はあ?あの、ただ今そこら中が停電しているんだけど。笑ったらよけいにおなかが空いてくるから困ったもので、ドライブがてら開いているファストフード店を探そうということなった。この際、コレステロールがどうのこうのと言ってはいられない。トラックで街灯も信号も消えた道路からキャンビーへ出たら、片側は停電、反対側は明かりが煌々。明暗を分けるとはこのことだろうな。市役所のそばのWhite Spotはとっくに店じまい。少し先のWendy’sはドライブスルーだけ営業中。そのときに点ったのが頭の上の電灯(駄洒落が多いなあ、こういうとき)。デニーズがあるよ、「いつも開いている」デニーズが!あそこならきっと停電していない。
一路、トラックを逆方向へ。あれ、来るときは真っ暗だった東側の街灯が点いている。念のため、回り道をして家の前を通ってみたら、ちゃんと門灯が点いている。午前12半。早々と復旧したようで何より。だけど、家に戻ってランチを作るのもめんどうだからと、そのままデニーズへ。週日で真夜中を過ぎているのにけっこう客が入っているからびっくり。メニューはと見ると、これがもろにジャンクフード。コーヒーも昔ながらの「コーヒー風味のお湯」。それでも、カレシの注文に山のようについて来たオニオンリングから玉ねぎだけ引っ張り出して食べては、2人でくすくす。何だかティーンエイジャーのデートのような気分。カレシも「夜中過ぎに食いものを探しドライブして回ったのは十代の頃以来だなあ」と、何だか楽しそう。うん、これなら大停電も楽しからずや。
帰宅、午前1時。停電したときに点いていた明かりは何事もなかったように煌々。ほんとに久々のジャンクフードでおなかがかったるい。さて、狂ってしまった時計やタイマーの類をリセットして回らなくちゃ。いったい、いくつあるのか・・・。