リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2011年5月~その2

2011年05月31日 | 昔語り(2006~2013)
旅に出なくても時差ぼけは起きる

5月16日。月曜日。よく眠ったなあ。ほぼ10時間。目が覚めたらとっくに正午を過ぎていて、電話が鳴っていた。今日は決まったスケジュールを追いかけなくてもいいんだから、電話なんかかけて来ないで欲しいのに、鳴り止んだと思ったらまたすぐに鳴り出した。こういうときは時間帯の違うところからの間違い電話か、付き合いのないところからの仕事の話だったりすることが多いけど、いったい誰なんだ。(ニューヨークからドでかい仕事の話・・・うは。)結局、2人ともずいぶんよく眠ったねえと言いながらベッドの中でうとうとして、やっと起き出したら午後1時過ぎ。オレンジジュースがないのでカレシが自分の冷蔵庫に残っていたオレンジとグレープフルーツを絞って、パンがないからトーストは省略。

ほんとによく遊んで、よく飲んで、よく食べて、よくしゃべった。前日のボーイング工場の見学では、バスをチャーターして、747の再装備、767、777、787の組み立てをする巨大な工場へ行ったけど、あんまりにも大きな建物なもので、作業の様子をビルの6階くらいに当たる高さから見下ろしていると、ジャンボ機でさえ小さく見えてしまう。一種の流れ作業だから、尻尾だけの機体があったり、胴体だけの機体があったりで、そうやって何百万個もの部品を取り付けて飛行機が出来上がる過程を目の辺りにするとかなりインパクトがある。新型機787は翼の先端が優雅にカーブして、なかなかすてきだった。ツアーの終わりにはちゃっかりとギフトショップで解散にしてくれるから、チャーターバスが出るまでのしばしの間ショッピング。ボーイングのロゴ入りの野球帽やTシャツ、メモリスティックを買って来た。

会議前夜はすっかり定番になった「親睦会」。その後はホテルのバーで「サゼラック」というルイジアナのカクテルを飲みながらカレシと2人だけの二次会。なにしろ、ここのサゼラックのベースはバーボン代用じゃなくて、本来のアメリカの「ライ」。発祥地ニューオーリンズのフレンチクォーターで初めて飲んで以来「うまい」と言えるできだったので、つい3杯も飲んで、えらく酔っ払ってしまった。(翌日、サゼラック用のライをホテル近くの酒屋で見つけて、アルコール度45%(90度)と知ったときには後の祭り。それでも懲りずに1本買って来たけど。)

おかげで翌朝の8時に目覚ましが鳴ったときは頭が朦朧。カレシが起き出して、会議場まで下りていって、ワタシの分まで登録して、資料と名札と記念バッグをもらって来てくれた。でも、また会議場に戻るのかと思ったら、またベッドにもぐり込んできて、結局は2人とも11時過ぎまで爆睡。開会と基調講演、最初のセッションを見事にすっぽかして、おまけに、起きてみたら、あっちこっちに打ち身のあざ。どうやら、酔って部屋に戻ってから、千鳥足であちこちにぶつかりまくっていたらしい。いい年こいて、んっとにかっこ悪っ!

それでも、午後のセッションをこなし、いよいよ宴会。メニューはローカルの生牡蠣やカニ、エビ、サーモンなどに、ロースとビーフとラム。たくさん出てきたし、おいしかったし、100点満点だな。今回はアメリカ、日本、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールから集まったけど、年齢は40年以上の開きがあるし、学歴もワタシのような無学歴から博士号を持った人たちまで多様だし、人種も職歴も翻訳歴も人生歴もてんでんばらばらと言う感じで、それが「同業」ということで集まって来る。メールでことが足りてしまう今どきは名前だけの知り合いも多いから、名札を見せ合っては「あっ、あなたがあの・・・」という光景はあたりまえ。この商売にはいっぷう変わった人間が多い、というかそういうのが多いせいで、駆け出しの若い人も老練なベテランも、みんなここぞとばかりにおしゃべりに熱中するから、人間大好き、おしゃべり大好きのワタシは七夕の織姫の気分・・・。

にぎやかな宴会がお開きになったところで、近くのワインバーで二次会。バーでは20人くらいがまたひと騒ぎ。真夜中の閉店になったら、雨の中を1本の傘に数人が押し合いへし合いで入って、ホテルまでわいわい、きゃあきゃあ。(みんないい年なんだけど・・・。)頭は濡れなくても、お尻はびしょぬれで、シアトルの人たちが見てさぞ呆れただろうと思うけど、ま、みんな会議の常連で、けっこう気心の知れた仲間だから、そうやって羽目を外すのも後々まで楽しいご愛嬌と言うところかな。

日曜日は午前と午後のセッションを全部こなして、午後6時過ぎに会議は閉会。雨が降って、寒かったけど、いい週末だった。ひとつだけ想定外だったのは「時差ぼけ症状」。午後3時くらいになると、まぶたが重くて、重くて、目を開けていられない。気がつくとこっくり。でも、徹夜したりしての寝不足気味のときの眠気とはずいぶん違う。バンクーバーもシアトルも同じ時間帯なんだから、時差ぼけも何もないだろうと思うけど、ワタシたちの標準生活時間はほぼ日本標準時間なもので、日付変更線を越えて日本へ行ってもほとんど時差ぼけがない。つまり、俗に言う時差ぼけは、生活のリズムが変わったのに体がすぐには対応できないために起きるということで、時間帯を越えて大陸や大洋を渡らなくても、体が慣れている生活リズムを急にリセットしたら体内時計が狂って、自分の家にいてもヘンな時間に睡魔が襲ってくると言ういうことなんだろうな。と言うことは、飛行機とは全然関係ないってことか・・・。

「つい」という名の危険な浮気虫

5月17日。火曜日。起床は午前11時ちょっと過ぎ。就寝は午前3時だったから、まあ、8時間寝たってこと。体が慣れているリズムに戻るのはけっこう簡単で早いもんだな。今日は晩春の気候と言ったところで、まあまあ。もう5月も半分を過ぎて、この週末はビクトリアデイの三連休。このあたりでは伝統的に「園芸の季節」の始まりと言うことになっていて、天気が良ければ、園芸センターは花壇に植える苗を求める人たちで大入り満員の賑わいになる。

それにしても、世の中の男ってどうしてこうも同じようなおバカをやるんだろうと思うような事件が続くなあ。出世も富も頭脳も何も関係なく、性癖であろうが一瞬のたがの緩みであろうがまったく関係なく、後でひたすら後悔するしかないようなことをやるんだから、わからないなあ。IMFのボスがレイプで逮捕されたかと思うと、元ガバネーターことシュワルツネガーが実は10年以上も前に隠し子を作っていたと告白するし、ベルルスコーニにいたってはもういつからスキャンダルにまみれていることやら。で、日本の新聞サイトを見ると、毎日のように偉くも何ともない男たちが女子高生のスカートの中を盗撮したとか、女子高生とホテルへ行ったとかで逮捕されたという記事。女のスカートの中をのぞいて何がそんなにおもしろいんだろう、アホじゃないかと思うけど、捕まったら、会社はクビになるだろうし、そうしたら女房子供にも見捨てられるだろうし、結局は偉くても偉くなくても、たいていそこで人生特急が脱線転覆みたいなことになる。

でも、上は政治家から下はサラリーマン課長まで、みんな一応は頭が良かったか、がっちりお勉強したから、一流の大学に入れて、高学歴を武器に一流企業に就職したり、一流大学の先生になったり、公務員になったりして、高給をもらって、結婚して、子供も作って、傍から羨ましがられるような人生を送っていたんじゃなかったのかなあ。そういう人たちなんだから、それを棒に振ってしまえばその先の人生は真っ暗だということくらいわかるだろうと思うんだけど、「つい」という衝動はそれほど理性を曇らせるものなのかなあ。あんがい、浮気や不倫を含めて、セックスに関することになると、理性なんか屁でもなくなるのかもしれないな。男は(女だって)所詮は動物なんだし、浮気男はたいていが本能だとか何とか似たような理屈を並べるみたいだしね。男の甲斐性は浮気じゃなくて、「つい」を抑制できる理性じゃないのかと思うんだけど。

まあ、世界のどこでもおバカで稼いでいるあまり芸のない芸能人が増えているみたいだし、かのローマ帝国だって末期は似たようなものだったんだろうと思うから、今の文明の質そのものが世界的に低下しているのかもしれないな。斜めに見れば、人間は動物だから、その人間が築いた文明も所詮は動物の産物ということになり、根底では動物本能が動かしていると言うことになるのかな。でも、人間さまよりもず~っと賢そうな動物もいるみたいだけどなあ。

まっ、そういう杞憂はどこかへ置いといて、待ち伏せされた仕事に精を出さないことには、次がつっかえてしまいそう。(ふむ、浮気するやつはきっとヒマなんだろうな。だったら、ちょっとばかりうらやましいかも・・・はないけど。)

ストレス度の高い職業

5月18日。水曜日。咳が出て何度も目が覚めた。会議の最終日の最後のセッションで、ワタシの隣に座っていた人が、ひっきりなしに鼻をグズグズ、咳をゴホゴホやっていたので、さては風邪をもらって来たかと思ったけど、ま、どっちかというと「時差ぼけ」の巻き戻しと、遊びすぎの疲労で体調がイマイチ100%でないんだろう。ほぼ1時間おきに咳き込んで、やっと寝付いたと思ったら、早くに目が覚めて起きていたカレシに起こされた。時計を見たら、午前11時。お、いい天気だ。やっと初夏が来るのかな。

カレシはやっと来た本格的な庭仕事日和に、朝食もそこそこに待ちかねたように外へ出て行き、仕事の待ち伏せを食ったワタシはオフィスへ。「何々法の何条の何項には~」というのがずらりと並んでいて、その法律のひとつをググって見たら、英語名称はあるけど「英訳はありません」と来たからがっかり。法令の英訳プロジェクトはこの分野までは進展していないってことで、定訳がなければ引用されている条文はぜ~んぶ自分で訳さないとならない。日本の法令の文章というのは、明治以来の伝統なのかどうか知らないけど、なんかもちもちっとしたねちっこさがあって、おまけにご他聞に漏れずだらだらと回りくどいから訳しにくい。まっ、そのおかげでこの商売が成り立って、ご飯が食べられるわけなんで、ああだこうだ言ってられる筋合いじゃないんだけど。

商売と言えば、今日のVancouver Sunに世界で最もストレスの多い職業トップ15という写真記事があって、爆発物処理係(15位)、航空管制官(14位)、上級原発運転技術者(13位)、外科医(12位)、特殊コマンド部隊(11位)、森林伐採作業員(10位)、医療廃棄物処理技術者(9位)、プロ野球の選手(8位)、炭鉱夫(7位)、凍結道路を走るトラック運転手(6位)、危険物回収ダイバー(5位)、フリーランサー(4位)、家畜の種付け師(3位)、救急隊員(2位)と並び、1位は凶暴なアフリカ種の蜂の駆除専門家。なるほどねえ。でも、プロ野球の選手が何でそういう危険な職業よりストレスが多いのかは説明を読んでも不可解だし、フリーランスの仕事が第4位というのもびっくり。その理由というのが「仕事がなければ食べて行けない」ことなんだそうな。まあたしかにそうだし、生活が不規則だったり、時には徹夜もしたりするけど、だからと言って爆弾処理とかコマンドとか航空管制官よりストレスが多いというのはどうかなあ。まっ、こういうランキングは話半分みたいなもんだけど。

今夜はホッケーの西部カンファレンス決勝ラウンドの第2試合。地元での試合だから、ニュースの交通情報を見ていたら、おお、平日の夕方というのに、いつもとは逆にダウンタウンに向かって交通が渋滞している。カナックスがプレーオフに進出しておかげで、ダウンタウンの飲食業界に数億円の経済効果があったそうな。今夜はスポーツバーやパブは超満員だろうな。この決勝を勝ち抜いたら、いよいよ東部カンファレンスの覇者とスタンリー杯決勝ラウンド。17年前に決勝まで行ったときは、最後の最後まで粘った挙句に惜しくもカップを逃したら、酔っ払ったファンの一部が騒ぎ出して、とうとうロブソンストリートで暴動が起きてしまった。でも、今のチームは前回のようにまぐれで最終決勝まで行ってしまうというよりは、そこまで行ってあたりまえの実力があると思うから、スタンリー杯優勝はもう夢なんかじゃない。というわけで、バンクーバーっ子は今日も車にカナックスの小旗をはためかせ、雄叫びの奇声を張り上げてホッケー狂い。こっちの方が仕事よりもストレスが大きかったりして・・・。

まあ、第1ピリオドであっという間に2対2の同点になって、シュート合戦になりそうに見えた試合、第2ピリオドでカナックスがリードを取り、第3ピリオドに入ると対戦相手のサンノゼ・シャークスは総崩れになって、最後は7対3でバンクーバーがシリーズ2連勝。次はサンノゼに移って2試合。バンクーバーのホッケー狂にとってはまだしばしストレスいっぱいの状態が続きそうだな。あんがい、ストレス度第4位のフリーランサーよりきついかも。ワタシは仕事に没頭しているときは鼻歌ルンルンみたいなもんだから。

文章力と読解力と、どっちが重要?

5月19日。木曜日。今日もいい天気。午前11時を過ぎて起きたら、カレシはもう庭に出て「農作業」。やっとのことで5月らしい陽気になった感じ。ワタシはちょっと喉が痛くて、片方の鼻がむずむずするけど、まっ、ちょっとばかり風邪気味というところ。やっぱり日曜日にワタシの隣に座っていたあの人のウィルスを2、3個ばかりもらってきたのかなあ。

それよりも左の足首がすごいことになっている。酔っ払って歩いていて、内側のくるぶし10センチくらい上の脛をどこかにぶつけたらしい(覚えていないけど)。そこは土曜日の朝から青あざになっていたんだけど、けさ見たらくるぶしの下までずっと真っ青で、ちょっと膨れているように見える。よほどガツンとぶつけたんだろうな。深いところでかなり出血して、それが重力で足首の下まで下がってきたということらしい。まあ、痛くもなんともないからいいんだけど。あ~あ、ほんとにかっこ悪いったらない・・・。

せっかくのいい天気だけど、今日は午後から大まじめに仕事。何たってややこしい。法律の条文だけでも回りくどくてややこしいのに、それを裁判所に持ち込んで、重箱の隅を突っつくようにああでもない、こうでもない。原文を読んでいるうちに頭がくらくらするけど、それを英語で書き出すのはけっこう楽に感じるからおもしろい。話がややこしいことには変わりがないけど、英語人だってネチネチと回りくどく議論するから、原文の言っていることがわかったら、原文に忠実にしつこくネチネチと訳す。難しそうに見えるラテン語の法廷用語を混ぜたりしながら、何がどうしてああなってこうでなければならないところを件の結果になったのはそっちの責任だ、と持って回った弁護士口調でネチネチ・・・。

会議で、日英翻訳で最も重要なのは原文をよく理解すること、と言うテーマで、目が点になるような「悪文」を解剖するセッションがあった。法律文書はややこしいけど、それでも一応は誤解がないように筋道の通った文章になっているのは、法律家がそういう文章を書く訓練を受けているからだろうと思うけど、普通のサラリーマンが書く文書には、文系、理系を問わず、すごいのがあるという見本みたいなもので、日本語が母語の人でも解釈を間違うことがあるらしい。それくらいわかりにくい文章なのか、それとも文章はまあまあでも読解力に問題があるのか、そのあたりはワタシにはよくわからない。(ワタシの日本語文だって相当な悪文だし・・・。)

掲示板などでよく「英日翻訳者をやりたい」と言う人に「日本語の文章力が最重要」とアドバイスしているのを見るけど、訳文の文章力と原文の読解力と、どっちがより重要なんだろうな。原文がわかるのは当然のことだから、訳文の質の向上に力を入れなさいということなのかな。実際のところ、車の両輪のようにどっちも同じくらい重要だと思うんだけど。この業界には昔から「訳文言語は母語に限るべし」という主張があって、協会でも時たま論争が起きる。日本語が母語でない人が英日翻訳をするケースは稀だけど、英語が母語でない人が日英翻訳をするケースは逆に多いもので、賛否両論が白熱して来ると訳文(英語)の良し悪しに議論が集中しがちで、しまいにどこまでが正論で、どこからがやっかみなのかわからなくなる。ま、どんなに文章力が優れていても、原文をしっかり読解できなければ、拙訳、誤訳、迷訳、珍訳が満載ってことになるんじゃないかと思う。だけど、近頃は英語の文書にもすごいのがあるし、(たぶん筆者自身がよく理解していない)元からの悪文をしっかり読解せよと言われてもなあ・・・。

何だか「団子より花」の気分

5月20日。金曜日。今日もいい天気。午後にはポーチの温度計がもう20度近くまで行っていた。待ってましたという感じ。だって、この週末はビクトリアデイの三連休だもんね。みんな一斉に庭仕事に精を出し、キャンプに出かけ、好天なら若い人たちはビーチに繰り出し、家族連れは国境を越えてアメリカへ。総じて夏のレクリエーションシーズンのふたが開くのがこの週末・・・。

だけどワタシは仕事。う~ん、何だか不公平って感じもするけど、フリーランス稼業は仕事をしないとご飯が食べられない。それに、日本は別に連休じゃないしね。まじめにやろうとするんだけど、顔の左側だけはまだなあんとなく風邪気味なもので、やる気とは別に体がダラダラ・・・と、適当な言い訳で午後はちょっとサボる。でも、産経のサイトに震災と原発の影響で国際会議が中止になったり、開催地を変えたりして、日本の通訳業界が仕事がなくて悲鳴を上げているという記事があって、どこにいてもメールで仕事ができる翻訳業界はまだ恵まれているなあと、ちょっとシュンとなった。4月などは仕事が90%も減ったんだそうな。駆け出しの頃に起きた湾岸戦争で通訳仕事が干上がったことがあったけど、今度は日本で進行中のことが理由だから先行きは難しいかな。通訳専業だったら青くなっていたかもしれない、なんて思っていたら、先に「ド」が付くようなでかい商法関係の案件を持ちかけて来ていたニューヨークの会社から「失注」のお知らせメール。はっ、よかった!

なにしろひとりで毎日年中無休でやるとしたらゆうに1000日。、つまり3年はかかりそうな膨大な量で、何人くらい確保できたのか知らないけど、OKしてからやめとけば良かったかなと思っていた。いくら手分けをしてやるといっても、プロジェクトチームの人数しだい、それぞれのスケジュールしだいでは何ヵ月もかかりきりになってしまう。そうなったら、今度は常連さんが悲鳴を上げてしまう。ビジネス基盤を構築中で仕事が欲しいときなら渡りに船だけど、一応はベテランのワタシはそのときの気分しだいで「団子より花」・・・。ぜいたくと言えばぜいたくだけど、「定年」まであと1年と11ヵ月だから、徐々に仕事量を減らすのもいいかと思うわけ。ん、仕事が激減している通訳さんから見たら、ぜいたくかなあ、やっぱり。

でもまあ、ビジネスは常に山あり谷ありで、フリーランスもビジネスには変わりがない。こういう膨大な仕事の話が出ると、翻訳会社は大変なのだ。大型の訴訟のような、気が遠くなるような量の文書が飛び交う案件だと、与えられた期間内で完了するためには「Aリスト」の翻訳者だけでは足りなくて、受注する前に必要な数の翻訳者を確保しておこうと、法律関係の日英案件なら、アメリカや日本の協会の名簿から「法律」を専門あるいは得意分野に上げている会員を拾い出してメールを送るわけで、入札がかかっていれば、あちこちから明らかに同じ案件だとわかる募集メールが来ることになる。今回も別のニューヨークの会社からも「大型案件」のメールが来ていたっけな。まったく聞いたことがないところだったから無視したけど・・・。

まっ、アメリカの原理主義キリスト教の説教師が明日から「rapture」が始まると言っているから、もうビジネスの何も関係ないか。まさか。この「rapture」というのは神様の手で人間が昇天することで、つまりは「この世の終わり」。何でも、ノアが箱舟で生き延びた洪水のあった「日」から7千年目だからと言う話。冗談交じりに、へえ、ノアの洪水は何年何月何日に起きたと言う記録があったんだ~と言ったら、口の悪いカレシ曰く、「ノアが日記をつけてたんだよ。それも英語でさ」。でも、発表通りにこの世が終わらなかったらどうするんだろうな。かっこ悪くないのかな。それに、終わるのはキリスト教の世界だけじゃないのかな。仏教もユダヤ教もイスラム教も世界が続いているのにキリスト教徒の世界だけ終わりって、まさか神様が競争相手に世界を明け渡すような損なことをするとは思えないけどなあ。

ま、ワタシはまだ仕事が終わってないし、何よりも善行の貯金が足りなすぎると思うから、神様に「おまえはまだ早い。この次まで待て」と言われてしまうかもしれないな。てことは、まじめに仕事をしたほうが良さそう。「この次」がいついなるのかはわからないけど・・・。

ワンコは降って来るし、ニャンコはけんかする

5月21日。土曜日。いつの間にか土曜日。早くに目を覚ましたカレシが「もっと寝ていていいよ」と言うので、またうとうとと眠りに戻ったと思ったら、防犯アラームがピィピィ。30秒以内に解除しないとサイレンが鳴り出すので、がばっと跳ね起きたところで、カレシが下でピピッと解除。あ~あ。早起きもいいけど、アラームを解除しないで外へ出てしまうなんて寝ぼけもいいところ。おかげで、期せずして早起き。きのうと打って変わった雨模様で、またまた寒い春に逆戻り。先週のシアトルも雨模様で寒かったなあ。

せっかく早く起きたから、朝食後は大まじめに仕事の続き。日本で月曜日の朝が始まる明日の夕方が期限からがんばらなきゃ。それにしても、これだけ細々とつつきまくっていたら、重箱の隅にも穴が開くんじゃないかと思うな。ビジネス絡みの裁判のやり取りというのはだいたいがそういうもんで、そこが弁護士の腕の見せどころなんだろうけど。そういえば、カレッジの通訳講座で法律関係の授業を担当していたの弁護士のガスリー先生はかっこ良かったな。大柄で、長めの髪にちょっとウェーブがかかっていて、裁判所のロビーで先生が法衣の裾をなびかせて颯爽と歩いていたのを見たときはつい見惚れてしまった。ま、つんぼ桟敷のワタシをだしにしてカレシと前妻の違法すれすれの馴れ合い離婚訴訟を扱った、当時はまだ駆け出しの弁護士(前妻の友だちだったそうな)が今や州最高裁判所の判事なんだから、ほんとに弁護士もいろいろ。

はてさて、今日は世界の終わりの始まりということなんだけど、北アメリカ中のあちこちで無神論者がパーティを企画していると言う話。実際に本気にしている人がどれだけいるのか知らないけど、誰も信じていないというわけでもないらしい。世界の終わりが来ることを世間に広く知らせるために貯金を全部はたいて広告看板を出しまくった人もいたとか。ほんとに終わりが来るなら全財産を使い果たしてもいいけど、終わらなかったらそれこそこれから10月21日。の終焉まで続くと言う「地獄」を見ることになるのかな。でも、話題性がたっぷりだから、トークショーもソーシャルメディアも乗りまくり。マーロン・ブランドが出ていた昔の映画のタイトル『Apocalypse Now』をもじって「Apocalypse No」。中国製らしいアニメは「Apocalypse Wow」。あるブログには神様が記者会見して、「世界を終わりにするのは自分。そのときが来たらと思ったら実行する。人間ごときが神の意図を推測するなんぞもってのほかじゃ」と言ったという話まであった。

そういえば、最近バンクーバー郊外で、空から犬が降ってきたという珍事があった。文字通り、空から老人ホームの庭に降ってきたそうで、背中に猛禽の爪あとがあって、墜落の衝撃で肋骨を骨折。どうやらワシか何かの猛禽が浮浪していたところを捕まえたのが、運びきれなくて落としてしまったらしい。写真を見たらかわいい白いプードル。(ちょっとレクシーに似ているかな。)爪は伸び放題で歯はがたがただったのを、さっそくどっと集まった寄付金で歯の治療が始まったとか。猛禽はランチを食べ損ね、メイと名づけられたワンちゃんは九死に一生を得て新しい人生が待っている。なにしろかわいいから、引き取りたいと言う申し出が殺到しているだろうな。

土砂降りの雨のことをraining cats and dogs(犬猫降り)というけども、先週はとなりのパットが猫のけんかに巻き込まれて災難。家の裏のレーンで猫がうるさいもので、自分の猫に何かあったかと思って出てみたら、猫が2、3匹、引っかき合い、噛みつき合いの大乱闘の最中。猫好きのパットは何と仲裁に入ったんだそうな。人間が猫のけんかの仲裁ってのも珍事だと思うけど、その中の一匹が「よけいなことをすんじゃねぇ」と言ったかどうか知らないけど、腕を盛大に引っかかれるは、噛みつかれるは。なんだかずたずたになって「おたくに絆創膏ある?」と我が家へやってきた。とにかく盛大な引っかき傷だらけで、きれいに洗って、消毒して、絆創膏じゃ間に合わないから包帯をしてあげたけど、カレシは「猫のけんかの仲裁ねえ・・・」としきりに感心。

うん、この世界、まだまだ終わりそうにないな。だって、なんたって突っ込みどころが満載で楽しいし、何よりも人間サマも動物たちもいろいろとやってくれるから、神様も「終わらせるのはもったいないなあ」なんて思っていたりして。

ちょっとハチャメチャな日曜日

5月22日。日曜日。シアトルで拾ってきた「風邪っ気」のおかげで、左側だけ鼻がつまって、目の周りと耳の後ろが何となく痛くい。おかげで目が覚めてばかりで、しまいに首が凝って来て、全然寝た気分がしない。おまけに寒い。起きて間もなく突如として天の底が抜けたかと思うようなすごい土砂降りが始まって、ひとしきり降ったと思うといつの間にか普通のしょぼしょぼ雨。ポーチの気温は正午で12度。5月も下旬だってのに、参っっちゃうなあ。

今日はホッケーの西部カンファレンス決勝の第4試合の中継が正午から始まる。西部の同じ時間帯のチーム同士なのに、なんで正午なの?という感じだけど、テレビノ放送権を持っているのが東部のネットワークだから、夜にはバスケットボールの試合でもあって、かち合わないためのスケジュールなんだろうな。でも、日曜日の真っ昼間じゃあ、仲間が集まってビールを飲みながらワイワイ観戦というわけにも行かないような。ま、試合は4対2でカナックスが勝って、カンファレンス優勝に王手。バンクーバーに戻っての第5試合で勝てば、いよいよ念願のスタンリー杯決勝進出だな。ここまで来たんだから、絶対に勝てよ、キミたち。

仕事は午後5時が期限。翻訳作業は一応寝る前に完了させたけど、見直し、書き直し、手直しの作業がある。これが、めんどくさい文書だと、ググって見つけた参考資料を検索して用語を確認したり、(保存した資料はワタシの参考文献のデータベースに残るから)その用語をさらにググって用例を確認したりで、けっこう手間がかかる。結局は午後5時ぎりぎりに完了して、納品。ふあ~くたびれた。冷たい水を飲んで、猫みたいな大きな伸びをして、肩の凝りをほぐしていたら、カレシが「腹へった~。ディナーはな~に?」と来た。ディナーはな~にって、仕事に没頭していたおかげで、全然考えていなかったから、何の準備もない。さあ大変・・・とあわてるところだけど、こういうときには手っ取り早くできる「非常食」。

フリーザーからビンナガとハマチの小さい塊とアサリ1袋と明太子1本。大きなボウルに袋ごと入れて流水で解凍。その間に1合くらいの米を鍋にかけて、岡山の日本酒を冷蔵庫に入れて、薄いしょうゆ味のダシを作って、ねぎを刻んで、大根を超薄切りにスライスして・・・。ご飯が炊き上がるを待つ間にマティニを一杯。ご飯ができたら、ねぎとアサリをダシに入れてスープを作り、ご飯に明太子を混ぜ込んで、マグロとハマチをスライスして、カレシが冷酒を注いでいる間に盛り付けて、マグロとハマチの刺身、アサリとねぎのスープ、明太子ご飯の非常食メニューができあがり。所要時間40分・・・。それにしても、夕食時間になってあわてて作るはちゃめちゃメニューの方がわりとごちそうっぽくできるのはどうしてなのかなあ。

さて、明日の月曜日は三連休の最終日。ま、フリーランスの自営業にはカレンダーの日付の色なんか関係ないんだけど、それても、今しばらくは仕事が入って来ないように祈りつつ、息抜きにパズルなどやろうか・・・。

ハッピー・マンデーなのを忘れてた

5月23日。月曜日。何だか眠っている間中いろんな夢を見ていたような気がする。二本立てどころか、三本立て、四本立て。目が覚めて意味をなさない細切れのシーンだけを何となくしか覚えていないのは、悪い夢じゃなかったということで、趣旨は単純だけど、過程がめっちゃややこしい仕事をしていたもので、ちょっとばかり脳みそのデフラグが必要だったんだろう。かといって、まだ鼻の片側が詰まっているから、別に頭がすっきりしたという気分はないなあ。

でも、今日は仕事なしだから「週末」ということで、サボっていた家庭の事務処理をやることにする。会計事務所に所得税申告の手数料を払うのに、古いファックスマシンを臨時につないで、クレジットカードの情報を送る。それから、来月の網膜検査の予約を午前から午後に変えてもらうように交渉しようと、眼科に電話したら、あら、留守電。あ、そっか、今日はビクトリアデイ。日本で言うハッピー・マンデイの月曜日なのをすっかり忘れていた。(夜になって酒屋に行ったら、ここも休日時間で、午後6時には閉店してしまっていた。いろんなお酒を切らして、かなり長いリストを持って行ったのに・・・。)きのうまでは三連休、三連休と言っていたのに、週日も週末も祭日も区別がつかないのんきな暮らしをしていると、時にはこういう「不便」もあるってこと。

ラジオでは「郵便組合はまだストの通告をしていないので、水曜日は平常通り郵便が配達される予定」。へえ、ストをやると張り切っていたんじゃないかったの?法律では72時間前に雇用者側に通告すれば合法的にストができる。それをしなかったのは、連休で労使とも休みだったからだったりして。まあ、インターネットや携帯が主流になった今は、郵便配達が途絶えても昔ほど困ることはないから、かってごり押しでならした郵便労働組合もストの効果に疑問を感じているのかもしれないな。ワタシがカナダに来たばかりの頃には1ヵ月半も郵便ストが続いたっけな。あまりいつまでも続くもので日本の郵便局はカナダ向け郵便の受付停止にしたそうな。国際電話はバカ高かったから、郵便がない間は日本とはほぼ音信不通だった。

振り返って考えると、あの頃(1970年代半ば)はストが多発していたような記憶があるな。政権が中道の左に振れたときにストがぐんと増えたような気がする。労働者に優しい政権ができたから、組合がチャンスとばかりに強気になっていろんな要求を出し、交渉がもつれてストになっていたのかもしれない。BC州などは、政権が変わるたびに労働基準法が改正されて、保守政権なら企業側に有利、左派政権なら労働組合側に有利というぐあいにくるくる変わったものだった。産業構造や労働環境が様変わりした今になってみると、嘘みたいな本当の話。特に
1975年は州内で市民生活を脅かすようなストが多発して、組合寄りのはずの左派政権が「職場復帰命令」を連発せざるを得なかったのは皮肉だったな。それで抜き打ちの総選挙をやったもので、あっけなく政権交代。ま、州で初めての左派政権だったから、革新を急ぎ過ぎて州民にそっぽを向かれたのかもしれないけど。

ラジオでニュース専門局を流しっぱなしにしていると、「国勢調査はお済みですか」というコマーシャルがかなり頻繁に入る。調査の基準日はもう2週間も前だったのに、よっぽど回答票の集まりが悪いんだろうな。「国勢調査の回答は法律で決められた義務。出さなければ罰金ですよ」と厳かな声で注意して、回答を呼びかけているけど、今回初めて基本的にオンラインで実施したせいで、どうしていいのかわからなくて無視を決め込んだ人たちが多かったんだろうな。だいたい公用語の英語とフランス語だけでは何が書いてあるのかわからない人たちも多いだろうし、文化的に政府に個人情報を知られるのを嫌がる人たちも多い。未回収率が高いと国勢調査のデータの信頼性が揺らいでしまうけど、どうやって追跡するんだろう。(我が家には該当しないから開封もしなかった「ベースメント」の分の用紙がまだあるんだけど・・・。)

おや、新聞におもしろい見出しがあるぞ。「可能性はゼロではない」は「事実上ゼロ」と同じって、そんなのありえるの?ワタシだったら、「ゼロではない」と言われたら、1%でも2%でも可能性は「ある」と思うし、「事実上ゼロ」と言われたら、可能性は「まずない」と思うけどな。ひょっとしたら日本語ではそうじゃないのかなあ。考えて見なきゃ・・・。

幸福度の指標から考えること

5月24日。火曜日。不思議な夢を見ていた。たくさん人がいて、そのうちの女ばかり4人ほどで歩いているうちに、誰かが「彼女、いないよ」と言うので振り返ったら、いっしょにいたはずの「彼女」がいない。気をつけて見ているからと言って、前にいた2人を先に行かせ、「彼女」を探していろんな群集シーンを通り抜けているうちに、何台ものバスが止まっていて、人が行列している広場のようなところに出た。それが人を探す夢によく出て来る「日本のどこかの観光地の駐車場」のようなところ。行列の中に「彼女」の姿を探していたら、バスが一斉に潮が引くように出て行ってしまった。はて、いなくなった「彼女」は誰だったんだろうな。ワタシはバスに乗り損ねたのか、それともみんなを見送ることになっていたのか・・・。

起きてみたら、右手の中指の付け根が痛い。手を握ると関節がカクカクする感じ。ばね指になってしまったのかな。ばね指はゲリラみたいに指から指へ移動して回る関節炎よりも痛いから困る。ついてないなあ、まったく。シアトルで作ってきた打ち身は、膝の皿はすっかり治ったけど、脛は内出血がくるぶしの下に流れて来て、まるで「足首捻挫、全治1ヵ月」みたいなすごい紫色。よっぽどガツッとぶつけたらしく、少しすりむけたところがたんこぶになっているけど、何にぶつけたのかはまったく覚えがない。いい年して酔っ払うもんじゃないよね。足を突き出して、ほらっ!とカレシに見せたら、「すげぇ。相手の方はいったいどれだけすごいことになってんだか、見てみたいな」。相手って・・・はあ?

新聞を見たら、OECDが国民の実感に近い豊かさの指標として「幸福度指数」(Your Better Life Index)なるものを作ったそうで、住居や所得、環境、雇用、教育、生活の満足度、ワークライフバランス、安全、コミュニティといった11項目を数値化して平均したら、幸せな国民第1位はオーストラリア、第2位はカナダ。なるほどっ。ワタシも生活に満足していて、いろんな意味で生活全体に豊かさを感じる。OECDの国別評価を見たら、オーストラリアとカナダはほとんどの項目でほぼ互角だった。日頃から似ているところがたくさんあるとは思っていたけど、おととしシドニーに行って、バンクーバーとは確かにいろんなところが違うんだけど、それでいて何となくわかり合えるというか、親近感がいっぱいな感じがした。ま、オーストラリアには仕事の内外で親しい友だちがいるからかもしれないけど。

日本はと見ると、総合指数が加盟国34か国中の19位。意外に低いなあと思いつつ、いろんなサイトの解説を読んでいるうちに、教育や安全、所得はたしかにトップクラスだけど、「生活の満足度」や「ワークライフバランス」が低くて、全体的に下がってしまっているらしいとわかってきた。自分の生活に満足している人は40%(OECD34ヵ国の平均は59%、カナダは78%、オーストラリアは75%)。ちなみに、5年先には満足していると思うかと言う質問でも日本は40%で、加盟国中でずっと下の方。おまけに、自分を健康だと思う人の割合は33%(OECD平均は69%)だったそうな。ほんとうに不満いっぱいで不健康な人たちだらけなのか、それとも単に悲観的な文化なのか、どうなんだろうなあ。

そういう文化なのか、今の社会の風潮なのかはわからないけど、掲示板やいろんなサイトの投稿や記事を読んで、今の日本の人は幸せではないのかなという思うことが多い。ローカルの日本人の掲示板などはとっくににいちゃんねる化して、もう興味もほとんどなくなったけど、それなりの理由があって海外に出て来たんだろうに、何もかも不満と嫌悪。まあ、この人たちは日本でも同じように不満だらけだったんだろうけど、自ら身をおいたはずの異文化に背を向けて、カナダが嫌い、カナダ人が嫌い、中国人が嫌い、韓国人が嫌い、カナダで(自分より)うまくやっている日本人が嫌い・・・。いちいち本気で読んでいたらこっちまで欝っぽくなってしまいそう。

だけど、外国に来て不興を託っている人たちに留まらず、日本人は本質的に欝っぽい国民なのかなと思うことはよくある。(ローカル掲示板でこれを言うと、110%の確率で「日本人のくせに日本/日本人のことを悪く言う外国かぶれ」とか「在日の反日発言」と炎上するだろうな。)もし「欝っぽい」というのが不適切なら、「否定的」または「消極的」、つまり「ネガティブ」な性質と言った方がいいかもしれない。でも、これは実はカレシについても言えることなので、日本人の専売特許じゃないんだけど、それでも、不満感や不幸せ感の大きい人の割合が高いと、国の単位で測定したときに「日本人の幸福度は34ヵ国中19位」という結果になるんだと思う。まあ、そういう結果について、どうしたいのかは日本の人が考えることだと思うけど・・・。

ひとつだけ笑ってしまったのは、幸福度第1位のオーストラリア以下どの国でも、「所得」の項目の満足度あかな~り低かったこと。豊かさを感じて満足している人たちでも、「これでもっと収入が多ければもっとハッピーかも・・・」と思っているということだろうな。ずっと昔、「お金で幸せは買えないけれども、お金があると今ある幸せが倍になる」と言った人がいたけど、自分をあまり幸せと思えない人にとっては、たとえ大金が入って幸せが倍になっても所詮は「微増」どまりで、実感がないかもしれない。それじゃあ、いくらお金がたくさんあっても、欝っぽくなるだけかもしれないな。「豊かさの感」はお金の多寡やモノの量だけで測れるもんじゃない。だからOECDはお堅
い経済指標よりも「実感」に近い豊かさの指標を作ろうとしたんだと思う。ま、何が「幸せ」かも、最後的には人それぞれなんだけど・・・。

いよいよスタンレー・カップ決勝戦だぞ

5月25日。水曜日。ずいぶん咳をして、起きてみたら何だか気管支炎に発展しそうな気配。やだなあ。気管支はワタシの急所みたいなもので、風邪そのものが「ちょっと風邪気味」で終わっても、なぜか後で本格的な気管支炎になることが多いから困る。10年くらい前までは、ずっと体中の骨が分解しそうな「喘息」に悩まされていたけど、いくら精密検査をしても、気管も肺もいたって健康で、執拗な咳の原因になるものが見つからず、結局は「心因性」ということになった。でも、今はどうなのかなあ。まだ自分で感知できないストレスがあるんだろうか。まあ、とりあえずトレッドミルで走って風通しを良くしたらいいかも。

きのうの夜は、カナックスが3勝1敗で臨んだNHLの西部カンファレンス決勝第5試合で、延長ピリオド2回目で何だかあっけないけど劇的なゴールで勝って、念願のスタンレー杯決勝に進出。カレシが英語教室から帰って来たときは2対2のままで延長戦に入ったところで、ワタシが合流して酒屋に行ったらみごとにがら空き(道路もがら空き)で、店内に実況が流れ、店の人たちはみんな大型テレビがあるイベントコーナーの方を見ていた。一度だけ業務連絡で音声が途絶えたら、一斉にブーイング。これでもみんな一応は州政府の「公務員」なんだから、のどかなもんだ。(昔は横柄なのが多かったけどなあ・・・。)切らしていたものを全部カートに入れて、ついでにワインを買い足して、レジに行ってもまだ試合は白熱中。今どきはスキャナでピッとやるし、こっちは勝手に空き箱とトートバッグに詰めるし、支払はチップ入りカードを自分でキカイに差し込んでピッピッとやるから、レジ係がテレビの方を向いたままでも支障はない。

酒屋を出たときは延長第1ピリオドの残り時間5分。道路はほんとにがら空き。街中が息を詰めているような感じ。帰り着いてガレージに入れて、エンジンを切ったのが残り時間30秒。家の中に入ってテレビをつけたら、決着がつかないまま延長第2ピリオド。同点はありえないから、どっちかがゴールを決めるまで何回でも延長する。こうなったらもう死闘だな。で、パックがどっちかのネットに入ったところで(入れられた方は)サドンデス(頓死)。いやあ、プロスポーツの用語は荒っぽい。テレビの前に陣取ったカレシをおいて、ワタシはオフィスへ。リラックスしてゲームなどしていたら、カレシがどどどっと階段を下りてきて、「信じられないゴールだ!」と興奮して報告。おお、やっと勝ったんだ。その「信じられない」ゴールを見に、カレシの後についてリビングに。敵も味方も跳ね返ったパックを見失って、ホイッスルが鳴るのを予期するような動きになったところで、ブルーラインの内側でみんなの後にいたビエクサが自分の方へころころと転がって来るパックを見つけて思いっきりシュートして、まっすぐゴール。一瞬、敵も味方も「あれ?」という顔・・・。

試合の後で行われた西部カンファレンス優勝のキャンベル杯授与式では、キャプテンのヘンリク・セディンがテーブルに置かれた優勝杯の後ろに立って写真撮影。ここで選手が優勝杯に手を触れるとスタンレー杯を取れないというジンクスがあるから、手渡しをしないことになっている。ダウンタウンはその後がすごかったらしい。市の方でグランヴィルストリートのバスをあらかじめ迂回させてあったそうで、何千人いるんだか、道路はびっしり人、人、人。顔中をチームカラーに塗って、カナックスの旗やタオルを振り回し、サッカーのワールドカップでなじみになったブブゼラまで持ち出してのにぎやかな路上パーティ。そうだよなあ、17年も「来年こそは」と待ち続けて来たんだもんね。去年のオリンピックのホッケーでカナダが金メダルを取ったときの光景とまったく同じなのは、良い兆しだな。オリンピックで誰彼かまわずみんな一緒に祝って楽しむことを学んだんだろう。平日だというのに、夜中を過ぎてもまだパーティは続いたそうだから、今日は遅刻したり、二日酔いで病休を取った人がけっこういたんじゃないのかなあ。でも、たぶん大目に見てもらえたかもね。

泣けるのは心が健康だということ

5月26日。木曜日。気管支炎どころか、もろに風邪のような感じ。午前8時過ぎあたりから猛烈な咳が出始めて、咳止めドロップをなめても効き目なしで、息もつけない。そんなときに限って、カレシががばっと起きて、「うるさくて眠れない!」と一喝。こっちもがばっと起きて、何でそんなことを言うのよっとやり返したら、「ごめん、寝ぼけてた」と平謝り。へえ、そうなの。昔よくあったよなあ。例の「心因性喘息」に悩まされていた頃、窒息しそうなくらい咳き込んでいるワタシに「うるさい。眠れない」。時にはベッドから追い出されたもんだけど、ふむ、寝ぼけて地が出ちゃったと言うこと?

しゃくにさわるから、ベースメントのソファに移動して横になっていたら、こそこそと下りてきてコンピュータの前に座ってなにやらカチャカチャ。(ストーカーしなくてもどこへも行かないって。)しばらくうとうとして、トイレのついでに空っぽのベッドに戻ったら、しばらくして「ボク、腹へったから朝食するけど、キミも食べる?」と言って来た。もう少し眠りたいと言ったら、「ボクだってそうしたいよ」とか何とか言いながら下へおりて行ったけど、10分も経たないうちにごそごそとベッドに戻って来た。2人とも何とか眠りについて、起床は11時過ぎ。何となくばつの悪そうな顔で、やたらとやさしい。あのね、昔のような心因性喘息だったら考えなくちゃならないけど、これは正真正銘の気管支炎なのっ!カレシ曰く、「ネットで調べたら、1週間ぐらいで治るってさ」。もう・・・。

小町などではよく「モラハラ/DVは治りません」と言う書き込みがあるけど、治らないのは行動の根底にある性格だと思う。生育の過程で固まった性格は本人が変えたいと思ってもおいそれとは変わらない。ましてや他人が変えようとしても変えられるものではないし、第一に変えようとすることで自分もモラハラのあり地獄にはまってしまいかねない。でも、本人がそのつもりになれば、モラハラ衝動をコントロールすることはできる。ただし、自分をコントロールするにはかなりの精神エネルギーが必要になる。衝動や感情で他人をコントロールしようとする方がどれだけ楽なことか。そのあたりが「モラハラは治らない」といわれる所以だと思うけど、カレシも何らかのストレスがたまってくると、コントロールが外れて、つい昔の「モラ行動」が出て来ることがある。でも、その「うっかりモラ」が効き目をなくしたのは、ワタシも自分をコントロールすることができるようになったからだと思う。カレシはワタシじゃないし、ワタシはカレシじゃないし・・・。

産経に『悲哀に寄り添う』という、関西学院大学の野田教授のエッセイが載っていて、その2は「悲しみを抑圧する社会の危うさ」というタイトル。圧倒的な「がんばろう」の声の前に悲しみが抑えられている、あるいは隠されているといい、ある番組で女性キャスターが何度も「家をなくし、職をなくした被災者の方々」と言うのに「家族を亡くした・・・」と言わないのが奇異に感じられたと書いている。英語のメディアの災害報道には「Loved Oneを亡くした人たち」という表現が頻繁に出て来る。ずばり「家族を亡くした人たち」のことで、先日の大竜巻の報道でも使われている。どうして「家族を亡くした被災者」と言わないのか。親や伴侶、子供を亡くした人たちに向かって「あなたはがんばろう」といえるか、と野田教授は問う。ちょっと引用させてもらって・・・

『「がんばろう」のかけ声は、抽象化された「被災者」一般に向かって発せられているのであって、具体的な人の顔を思い浮かべていない。テレビ、役場にあふれる「がんばろう」「希望」の貼り紙におされて、悲しむ人は自分を抑える。第三者は悲惨な話に触れるのは辛(つら)いので、無自覚なまま逃げ、けなげな話題に関心を向ける。こうして、悲哀が圧迫されてきたのではないだろうか。』

悲惨な話だけではない。人の悩みや苦しみや不幸に触れることを嫌がり、自業自得、自己責任といった言葉を投げつけて退けようとする人は多い。カレシもそういう傾向が強い方だけど、観察してみると、共感性がないからというよりも、相手の話によって触発される自分のネガティブな感情に対処できなくて、その苦痛をもたらした相手に責任を転嫁して攻撃してしまうらしい。悲しみのどん底にある人に「がんばれ」というのも、勇気づけたい、元気づけたいと言う善意は疑わないとしても、一見ポジティブながら、どこかに「自分のネガティブな感情」に触れられないようにという自衛的な要素が含まれてはいないんだろうか。もうちょっと引用させてもらうと・・・

『いまなお架空の武士の生き方・死に方を理想として称揚する日本社会は、泣かないこと、悲哀を耐える形の美しさを強調してきた。それが不幸に直面した人々に対し、いかに残酷に作用してきたか。』

ワタシのドクターは話を聞いてもらっているうちに泣き出すワタシに、「泣くのはいいことだ。泣けるのは心が健康な証拠。泣けなくなったらすぐに相談に来なさい」と言い続けた。「がんばれ」の「頑」は頑迷、頑固の頑。「かたくな」とも読む。でも、人間の心は長いこと頑なであることを強いられていると、いつかは折れてしまう。悲嘆にくれている人には、「がんばれ」と言わずに、黙ってハグしてあげて。

たかが学歴、されど学歴、だけど窮屈

5月27日。金曜日。午前7時過ぎに咳が始まった。すぐに咳止めドロップを口に入れて、そこへ急に猛烈な寒気がしてきたので毛布を1枚足して、咳が静まるの待つこと20分ほど。弾みでドロップが気管に飛び込んだりしたら一大事だからと注意しいしいの咳なもので、カレシは目を覚まさなかったもよう。ワタシもそのまま11時過ぎまで眠ることができた。起きたら、きのう鼻づまりで重かった頭が軽くなっていて、まだ咳は出るけど胸のあたりもつっかえが取れたように楽になっていたからびっくり。ひょっとしたら、寒気がしたときにどどっと熱が出て、ウィルスも細菌も瞬時に炎上したのかも。何だか瞬間湯沸し器みたいな・・・。

世界的に天候不順と言う感じで、バンクーバーのあたりも4月からこの方、過去55年で最も低温というありさま。5月も終わりだと言うのに、今日も雨しょぼしょぼで、ポーチの温度計は午後になっても10度を越えるのがやっとこさ。これじゃあ生理機能も狂ってくるかな。日本にはもう台風が接近中とか。「5月に台風って普通ですか」と小町で聞いてみたいくらいだけど、ほんと、子供の頃に番号がひと桁の台風なんてなかったと思うな。(もっとも、めったに台風が台風のままで来ないところの生まれ育ちなもので知らないだけかもしれないけど。)まだ5月だというのに、東京のあたりはもう梅雨入りだそうで、やっぱり天候不順だな。

また週末置きみやげの仕事があるけど、何かめんどうだし、夜はコンサートがあるから、今日は「休日宣言」。たまった洗濯をするつもりだったのがど忘れして、午後いっぱいはだらだらとネット三昧。おもしろいことはないかなあ、と小町横町をぶらついていたら、またまた「学歴論争」。今度は商業高校卒の女性と一流大学院卒の男性の結婚は難しいのかという悩み。300本以上ある書き込みでは「難しい」、「やめておけ」という意見が圧倒的で、そのほとんどが自称「高学歴」。結婚するのに学歴なんか関係ないと言えるのは学歴がない人たちで、高学歴階級の人たちにとっては「一族の存亡の危機」のような問題であるらしく、大学に進学するのが「あたまりまえ」な世の中で(日本の大学進学率は実は50%前後だそうな)大学を出ていないのは、育った家庭の環境、価値観、本人の能力や向学心に瑕疵ありということで、「嫁」として不適格と判定されるらしい。

日本で結婚しなくて良かったなあ。と言っても、ワタシが結婚適齢期だった頃は高卒女性の方が嫁候補としての価値が高かったんだけどなあ。それにしても、建前では「格差は良くない」と言いながら、本音ではあらゆることにものさしを当てては(自分が優位に立てそうな)違いを言い立てて、せっせと「格差社会」を作っているように見える。いつから日本は「カースト社会」になったのかいなと思ってしまうくらい。「恋愛するだけならいいけど、結婚となると話は別」って、「遊びで付き合うだけならいい」ということかな。つまりは婉曲的に「その程度の女」と言っているということかな。(学生時代にキャバクラのバイトをしても、大学卒ならいいのかな・・・。)職業によっては学歴や資格が要件になるのはわかるけど、男女の合意によって新しい家庭を作るのが結婚でしょうが。まあ、平等(みんな同じ)が強調されればされるほど、「自分」を目に見える形で(他人より一段上に)差別化したくなるものなんだろうな。

東京大学の社会心理学の教授を交えた国際チームが、社会的規範の厳しさや規範から外れたときの罰の強さなどの「文化の窮屈さ」を世界33ヵ国で測定したところ、日本は8番目だったと言う記事が読売新聞サイトにあった。「窮屈さ」はそれぞれの文化が歴史的に直面してきた社会的な脅威の大きさと関連しているんだそうで、日本については人口密度の高さや自然災害の頻度が影響しているらしいということだった。ま、高学歴対低学歴、専業主婦対兼業主婦、子持ち対子なし、既婚対非婚、首都圏対地方等々、果てしなく水掛け論的な優劣争いが続く二項対立文化もかなり窮屈そうだなあと思うけど、どんな「社会的脅威」が影響しているのかな。

60代でもジーンズにTシャツはあり

5月28日。土曜日。咳き込んだのは一度だけ。なぜかいつも寝付いてから3、4時間後というのが不思議。でも、風邪気味は抜けたようだし、気管支炎も峠を越したと言うところで、とたんに機嫌が良くなるから、ワタシってげんきんだよね。

ゆうべはVSOポップスのコンサートに出かけた。シーズンチケットを持っているシリーズの最後のコンサートが先々週のシアトル行きと重なってしまって、代替としてカレシが選んだのがポップスの「コットン・クラブの夜」というジャズコンサート。クラシックならイブニングドレスくらい着てめかし込むところだけど、カレシがジーンズで行くと言うので、ワタシも裾にずらりとビーズがぶら下がっているラメ入りのおしゃれTシャツといういでたち。モールまで車で行って、そこから地下鉄に乗れば歩くのはせいぜい2ブロックだからと、気温が10度近くに下がっているのに、Tシャツ一枚で出かけてしまった。いい年なのにいったい何を考えているんだか・・・。

コットン・クラブは「Roaring Twenties」と言われた1920年代にニューヨークのハーレムにあったナイトクラブ。ミュージシャンやダンサーはすべて黒人、客はすべて白人だったそうな。デューク・エリントンはクラブの専属バンドだった頃に数多くのジャズの傑作を書いた。ギャングが活躍?した禁酒法時代のことだから、経営者や客筋にまつわるエピソードは数知れない。ゆうべのコンサートは、ゲストがバンクーバーに住みついたというトランペットとヴォーカルのバイロン・ストリップリング、女性ヴォーカルはカーメン・ブラッドフォード、ヴォーカルとタップダンスがテッド・レヴィ。白いジャケットのブラスセクションと黒いジャケットのストリングセクションを両側に配して、中央にドラマー、そして、おお、ベースはあのジョディ・プロズニク!

ジョディ・プロズニクはバンクーバー生まれの女性ジャズベース奏者で、大きなベースの後ろに隠れてしまいそうな小柄な人だけど、そんなことは感じさせないパワーがある。バンクーバーに彼女の母校マギル大学の同窓生の組織があって、その親睦会に揃って卒業生のイアンとバーバラのゲストとしてときどき招待される。その中のひとつがジョディ・プロズニク・カルテットの演奏会で、コンサートホールやクラブとは違うプライベートな雰囲気の中でごく間近に演奏ぶりを見ることができた。そのとき、演奏の後でジョディと直接話をする機会があって、話の流れで彼女にベースをひょいと手渡された。そっと持ち上げてみたけど、思ったより重くて、弦が太いから指で弾くにはすごい力がいりそうだった。それをワタシとさほど背丈が違わない彼女がいかにも楽々と演奏しているのが強烈な印象として残った。それ以来、ワタシはジョディのファン・・・。

古き良きスイング時代のジャズを堪能して、何となく芯まで温まった気分になって、クラビングの若い男女で溢れる金曜日の夜のダウンタウンを、還暦過ぎの極楽とんぼばあちゃんはジーンズにTシャツ一枚の軽装で、カレシと手をつないでうきうきと闊歩?して、地下鉄に乗って帰って来た。はて、日本でやったら卒倒する人が続出しそうな「浮いた身なり」ということになるのかな。へたをしたら、掲示板に「60代なのにジーンズにTシャツなんて!」と憤られてしまうかもしれない。そんなんでも風邪がぶり返さなかったのは、きっと悪運が強いんだろうなあ、ワタシ・・・。

学歴の差も何十年もいっしょだと

5月29日。日曜日。いい天気だけど、う~ん、まだイマイチ初夏の感じがしない。それなのに、カレシは今年の前庭は何もかも野放図にでっかく育っていると言う。業者の人が来て植木の周りに肥料を注入して行ったせいかな。こんなんだったら野菜を植えた方がいいかも、というカレシ。前庭にトマトって・・・ま、塀と背の高い生垣で二重に囲ってあるから、菜園にしてもきっと外からはわからないだろうな。たとえば、きゅうりのつるが楓の木を登って、枝からきゅうりが鈴なりということにでもなったら目立つかもしれないけど。

カレシが着るものがなくなったというので、今日はまず洗濯。ランドリーシュートを開けたら、なだれ落ちて来そうなくらいのたまり様。まさにぐうたら主婦ってところだけど、ワタシは「主婦」業はやってないの。「ワイフ」業はやっているけど、家事はおひとり様だったら当然やらなければならないことをやっているだけ。だけど、この洗濯物のたまり具合から見たら、相当にぐうたらなおひとり様ってことになりそう。洗濯機を回しておいて、きのうやり残した仕事にかかる。期限は午後5時だから、まっ、何とか間に合うか。いつものんきに「何とか間に合うか」と言っているような気がするけど、これでは自営業の方でもぐうたらかな。まあ、おいしいご飯が食べられたら、ぐうたら暮らしは悪くはないけどね。

カレシが庭仕事をしている間に、極力まじめに仕事。変なフォーマットになっているから、それを崩さないようにする方が肝心の翻訳よりも手間がかかる。それでも、たいして込み入った内容でもないから、ちょっと余裕で間に合って完了。もっとも、終わった洗濯第1ラウンドをドライヤーに入れて次のラウンドを回すのをケロッと忘れたし、カレシがセットしてあったブレッドマシンの種からパドルを抜き取るのもケロッと忘れて、焼きあがったパンは底に大穴が開いたし。まっ、それだけ大まじめに仕事をしたと言うことで、納品して、本日の営業は終了・・・だといいんだけどなあ。(そうはおろさないのが問屋さんで、とりかえっこみたいに次の仕事が。あ~あ。)

夕食のしたくを始めるのを忘れて例の「高卒・院卒カップル」のトピックを読みふけっていたら、カレシが「腹へった~」。で、おもしろいことでも書いてあるのかと聞くから、高卒の女性に対して高学歴階級のお歴々が、学歴の差がありすぎて知識や教養や語彙のレベルが違うから話について行けないだろうし、育った環境が違うし、それぞれの家族の価値観も違うから、結婚はやめておいた方がいいというスレッドだと言ったら、カレシ曰く、「そんな程度の違いで同じ国の人間と結婚できないなんて言ってたら、国際結婚なんか端からできないんじゃないのかな」。

う~ん、なかなかおもしろいところを突いているな。異国人が相手だと、学歴云々の前に、言語が違うから話について行くのが大変だろうし、文化が違うから常識的な知識も教養の範囲も違うだろうし、価値観も違うだろうし、育った環境なんかまるっきり違うんだし、小町横町の人たちの基準から見れば、何から何まで違いすぎて、結婚そのものが論外ということになりそう。だけど、毎年何千人もが「何もかも違う」異人さんと結婚するのは、是非を判断する基準が日本人が相手の場合と違うのかな。社会心理学のテーマにしたらおもしろいかも・・・。

夕食は久しぶりに骨付きラムをギリシャ風にローストしたら、あら、いつまでも肉が胃の中に残っている感じで、ランチの時間になってもおなかが空いて来ない。魚中心のメニューになってから、たまに肉を食べると消化に時間がかかるようになった。そういえば、カレシは生野菜も一度にたくさん食べると消化不良になるとこぼすようになった。柔らかい魚ばかり消化するようになって、胃袋がぐうたらになってしまったのかな。ま、ただの老化現象かもしれないけど、この頃の2人、何だか似てきたところもあるねえ。ふむ、「ワタシ高卒、カレシ学位2個と士のつく資格」の身の丈違いの2人だけど、36年も経ってしまうとこんなもん・・・

塀の中を覗けるおもろい商売

5月31日。火曜日。5月も今日で最後。相変わらず低温気味。この夏は「高温少雨」の傾向だったはずなんだけど、もしかして「夏が来るとしたら」という大前提が付いていたのかな。世界中のあちこちで寒いらしいので、あんがい地球温暖化は中止になって、逆に寒冷化に向かっているのかもしれない。デイヴィッド・スズキみたいなのが「氷河時代が来る!」と触れて回っていたのはそんなに昔じゃないし、そのうちにまた「やっぱり氷河時代の方が正解だ」なんて言い出すのかな。(なんて言っていたら、トロントは30度で、ヒュミデックス(体感温度)は40度。うわぁ、あっつぅ・・・。)

ほぼ1週間ぶりでかなり普通に眠れたので、今日は元気いっぱい。咳で目が覚めたのは一度きりで、それもゴホゴホと2回くらい。咳止めドロップを口入れる必要もなくまた眠ってしまった。日本で買って来た咳止めは良く効くし、砂糖なしなのでいいんだけど、朝には舌が白くなっていて、ざらざらしてヘンな味がするもので、起き抜けからうぇ~という気分になって困る。あんがい、砂糖の代わりに入っている甘味料のせいかもしれない。ま、何にしても、「薬」と名の付くものは、使わないで済めばそれが一番ということかな。(ま、ワタシは飴玉の類をなめるのがあまり好きな方ではないし、薬を飲むのはめんどくさい方だから、そう思うんだろうけど・・・。)

朝食後はゆっくりと仕事にかかる。日英訳は当然日本語の文書を英語に翻訳するわけだけだから、日本で日本人が日本人向けに書いた(海外への発信を想定していない)ものもかなりある。そういうのでも、外国資本が入っていたりすると、内部報告を親会社などに英語で出さなければならない場合があって、そういうのが高度な専門分野を看板にしていない「何でも屋」のワタシのところに頻繁に回ってくる。たいていは請求額の小さい仕事だけど、地道に拾っていればそれなりにけっこういい商売になるし、なによりも、日本の企業文化の「内情」がいろいろと読み取れるのがおもしろい。それを英語思考の人間が読んでわかるようにするわけだけど、ちょっとのぞき趣味的なこともあるし、逆に、やっているうちにこっちまで欝っぽくなるようなこともある。だけど、特に人間関係が絡む問題になると、日ごろ小町横町の外野席で見ている今どき日本の「世情」と一致するから、ま、メディアと言う「建前」に対峙する人間社会の「本音」を垣間見せてもらっているようなものかな。

ただし、その「本音」は必ずしも日本だけの心理というわけではなくて、人間なら多かれ少なかれ持っている性格が、時(今)と場所(日本)と場合(ポストバブル環境)によっては「主流」になって、たとえばOECDの「幸福度指数」とか「文化の窮屈さの研究」といったことによって数値化されることで、日本の外で(ステレオタイプ的ではあるけど)やや具体的なイメージが形成されるんだろうと思う。もちろん、逆も然りで、ある国や文化や人に関する雑多な情報が交錯して、それを外にいる人間がどこまで弁別、解析できるかによって、日本人の間に(ステレオタイプ的)なイメージが形成されるのだと思う。それがまたそれぞれのこだわりや思い込みの強さによって、固まったり、流動的だったりするわけだけど。

問題は、そうやって出来上がった相手方のイメージを、「そういうものか」と受け取るか、「生理的に受けつけない」と拒絶するか、「どうやって変えようか」と思案するか、あるいは「レベルが低すぎ」と侮蔑するか。これまた感性が異なる人それぞれに違うから、人間てのはほんとうにおもしろい動物。基本的には、どちらかというとネガティブな反応にはその人自身の心理が投影されていることが多く、そういう反応をする人はポジティブな反応をする人(とネガティブな反応をする他人)に不快感を持つことが多いように思う。TIME誌に「楽観は遺伝子に組み込まれた機能」という研究についての記事があって、「楽観すると言うメカニズムが備わっていなかったら、人間はみな軽度のうつ病になっていただろう」と言っていた。つまり、ものごとに総じてネガティブに反応しがちな人は楽観遺伝子がうまく機能していないということなのかな。それとも、本当に千差万別、十人十色の「感性」が楽観的な人と、悲観的な人を分けるんだろうか。

楽観的な人も悲観的な人も、それぞれがさらにサブカテゴリみたいな性格に別れるから、やっぱり人間は複雑怪奇。ま、それよりも、仕事の後は月末処理にかからないと先立つものが入って来なくなるから、よくわからないことに納得しているヒマがあったら、ちょっとあわてないと・・・。