私は、山形交響楽団に1999年に入団しました。
入団した年に、やっと尾花沢新庄道路の毒沢仮出入口(現・川原子IC) - 新庄IC間が開通し、山形自動車道は、西川IC - 月山IC開通しました。庄内側は、庄内あさひまででした。
当時の山形響は、学校訪問の音楽鑑賞教室を中心とした活動をしていて、学校の体育館が過酷な8月や晩秋から4月いっぱいまで、ほぼお休みのスケジュール。しかし、5〜7月、9〜11月半ばまでは、毎週月〜金曜日まで毎日2回の本番を行うという過酷なスケジュールでした。入団したばかりの時は、県内の交通に不案内だったので、山形市に住んで楽団のバスにほぼ100%乗車して、何だか分からないうちに学校に運ばれる生活をしていました。今より高速道路網がしっかりしていなかったので、揺れるバスで、一般道を走り、庄内などで本番があると毎日のように家に着くのは夜の19時頃、そして、次の日は朝早くまたバスに運ばれて行きましたっけ。当時のバスは、禁煙ではなく後部席の方でがんがん煙草の煙がたかれてましたっけ・・・・・。車で移動する団員もカーナビを所有している団員が少なく、地図を見ながら各学校へ行っていました。
東京から引っ越してきて最初は山形市深町に住んでいて、周りには元気寿司とローソン、酒屋くらいしか無く、何か外食するほどお金も無く、少し歩いたところにミツマスというスーパーに行って食料を調達していました。ヤマザワさんは少しお値段が高めでしたので、余程じゃ無いと行くことが出来ませんでした。
外食と言えば、今もあるとん八さんの激安とんかつ弁当や、七日町の中村屋さんという揚げ物専門のお店、旅篭町?の肉アベさんの定食をよく食べに行きました。あ、そうそう「なか卵」さんの牛丼もよく食べに行きました。ラーメン関係では、㐂伝とか会津っぽとか今の幸楽苑の系列店に行っていました・・・・。
生活で言えば、インターネットは夜11時くらいからつなぎ放題になるテレホーダイを使って、離れてしまった友人達とチャットでやりとりしたり、掲示板に書き込んだりしてコミュニケーションを取っていましたっけ。今のようなSNSは有ったのかな・・・?
上記のオケの業務以外は、山形弦楽四重奏団を作るまでは、それまでお世話になってたオーケストラにエキストラに行ったり、昔の友人達とクァルテットをやったり、実家に帰って友人達と飲んだりしていましたっけ。
山形響の話に戻りますが、定期演奏会は音楽鑑賞教室が休みの時期の木曜日に年5〜6回行い、まだ東京大阪のさくらんぼコンサートは始まっておらず、庄内定期演奏会もまだ・・・。鶴岡も酒田も古いホールでしたね。その後、シベリウス交響曲全曲を演奏した現創立名誉指揮者の村川千秋先生が、常任指揮者を退任し、黒岩英臣先生が後釜のように首席客演指揮者〜常任指揮者、少し後に工藤俊之先生が指揮者になった頃です。まだ文翔館が工事中で、昔のYBCの建物内のホールで練習していました。
まだ父が存命で、父や母、知り合いの音楽家からいつ東京へ戻ってくるんだ?みたいなことをしょっちゅう言われていました。自分の中では山形で頑張るぞ!と帰るつもりがほぼ無く生活していました。それから20年以上が経ってしまったのですね。
なんて、懐かしがりながら、今日は書いてみました。