らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

松本城〜卵焼き

2023年12月09日 23時59分59秒 | 歴史探訪

 山形響の長野県松本公演終了しました。

 公演日の朝、ホテル近くの松本城を見に行った時の写真です。

 子供の頃、亡父の親戚宅(従兄弟)に訪問した(愛知県足助)行きだったか?帰りだったか?覚えてませんが、松本城に行きました。

 亡父と私の二人旅だった記憶なのですが、はっきりしません。

 子供の足には、きつい階段だった記憶が鮮明で今回は断念。奥さんは登ったのですが足が痛いと言っています。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 松本公演の折には、ソロを吹いた太田氏の実家が卵焼き屋さんだそうで、たくさんの差し入れをいただきました。

    

 以前にもいただいた事があるのですが、これは何度食べても美味しい!!

 何パック食べても美味しい!!

 口飽きしない、ザ・卵焼きでした。

 また食べたいなぁ〜。松本公演またしたいなぁ。

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長命寺

2022年11月07日 23時59分59秒 | 歴史探訪

 先週、亡父の七回忌のため東京に戻りました。

 我が家のお墓がある長命寺です。祖父母・叔父・叔母・父らが眠っています。

 歴史があるお寺さんですが、子供の頃は植木市やお祭り、そして何と言ってもカブトムシやクワガタ採り、仮面ライダーなどの撮影など近所の子供達にとっては遊び場でもありました。

     

 上の写真の本堂は、私が子供の頃に建てられました。以前は古いお堂がいくつかあったのですが焼失したり、建て替えで新しくなっています。床下に蟻地獄がいてよく捕まえたりしてました。

 立て札の説明書にはこうあります。

「東高野山(旧谷原山)妙楽院長命寺は、真言宗豊山派の寺です。 慶長十八年(1613)後北条氏の一族である増島重明(慶算)が一院を開き、その志を継いで弟の子、重俊が諸堂を建立、寛永十七年(1640)に大和(奈良県)長谷寺の秀算により、(長命蜜寺)と号しました。 寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より九石五斗の御朱印を受け、府内八十八か所十七番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となりました。」

 子供の頃の遊び場でしたが、怖いなぁと思った場所があります。

    

 鬱蒼と暗い場所に怖い顔をした石仏が何体も鎮座している場所です。お寺の敷地内でよく遊びましたが、この場所だけはあまり行きませんでした。

   

 それでもこの石仏達にはひかれるものがあったのでしょう。中学生の時に石膏でこの石仏を模して制作したことがあります。その時は少し先生に褒められた作品になりました。

 モデルになった石仏は、一際大きなこの象。

  

 地獄に行くと会えるのかもしれませんが、あまり会いたくないですね。

 子供の頃は怖かった石仏達が、今はカッコよく見えるのも歳をとったからかも。

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丸亀城

2018年09月23日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 初代城主:奈良元安。

 このたびの大雨で、見事な石垣の一部が崩れたらしく、完全に修復が終わるまでに15年以上かかる見込みとのこと。

 残念。
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重要文化財 松山城

2018年09月19日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 関ヶ原の戦いで20万石に加増された加藤嘉明が、初代城主。

 市民の憩いの場所にもなっているようで、日が落ちてくると見事な夕日と愛媛の街並みを堪能できる。

   
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丸亀城

2018年09月13日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 旅行中です。

 本日も結構な雨でしたが、体調維持のためにウォーキングを。

 宿近くの丸亀城まで歩いてきました。

 先日の地震で、少し石垣が崩れてしまって、修復には随分とかかるそうです。

 自転車に乗ったおじさんに声をかけられて、「丸亀城は日本一の城!」と説明をされました。

 地元の人との交流も演奏旅行の楽しみの一つですね。

 今日も体ほぐして、明日からのお仕事に備えました。
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松山城

2018年09月10日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 演奏旅行のお仕事の時は、移動や自宅での休息が出来ないために、体調管理が一番難しいのです。

 外食オンリーなので、ついついカロリーオーバーになったり、乾燥した空気のホテルなど色々と気をつけないとすぐに体調を崩してしまいます。

 と言うことで、折角なので宿近くの松山城まで、仕事終わりでウォーキングして参りました。

 山城なので、山登りがきつかったのですが、歴史に思いを巡らせながら歩くにはちょうど良い感じ。

 体もほぐれましたので、明日からも頑張れます。
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平泉中尊寺

2018年05月30日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 山形響は昨日から演奏旅行に出ています。

 昨日から岩手県の一関市に滞在しています。

 いつも演奏旅行で近くを通るたびに寄りたいと思っていた平泉中尊寺へ仕事後に行ってきました。

 NHK大河ドラマ「炎立つ」の舞台にもなった平泉中尊寺。

 小学校5年生の時に、リトルリーグの合宿で岩手県を訪れた時以来の訪問でした。子供の頃の記憶をたどりながら宝物庫や金色堂、本殿など見てきました。

 それでも子供の頃の記憶に残っていたのは、この大きい杉の木が両側にある道なのでした。

 しばし、記憶の旅に出ていましたとさ・・・・。
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東京国立博物館へ。

2017年10月26日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 今の時期、「運慶」展をやっているというので、東京国立博物館へ行ってきました。

 東京国立博物館へ足を運び入れたのは、あれは・・・・バブル時期以来ですので、0十年前・・・・。遠い記憶です。

 今回、運良く「運慶」とその周辺の作品が集められるという情報をゲットしたので、行ってきました。

 奈良を回ったら一日では見ることは出来ないし、良いチャンスとなりました。

 まずびっくりしたのは、人の多いこと・・・・。

 久しぶりに満員電車に乗ったような・・・ジャイアントパンダかモナリザを見るために、押すな押すなという風景を思い出しました。

 多数の仏像を見たのですが、その一つ一つが、内からわき出てくるパワーのすさまじいこと・・・。

 体の肉付きも内から押し上げてきて、気力がみなぎっているように見える。私もそういうヴィオラの音を出したいとふと思ったりして・・・。

 何かを感じさせる表情の憂い・・・。

 凄い展示会を見させてもらいました。感謝。
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舞鶴城公園〜県指定 甲府城跡

2017年07月08日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 3日に宿泊した甲府市のホテル近くに史跡がありましたので、行ってきました。

 案内板には以下のようにあります。
「甲府城は、天正10年(1582)武田家滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。 関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に甲府城下も大きく発展しました。柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、ふたたび幕府の直轄地となりました。 このように豊臣政権下では重臣浅野長政・幸長親子らが甲斐国の支配を任され、また江戸時代の大半が徳川家直轄領であったことからも、ここ山梨が長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことがわかります。明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場および葡萄酒醸造所などが設置され、また城城北部では中央線敷設による解体など甲府城は本来の姿を変えてきました。一方で保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵氏の尽力によって国からの払い下げを受け、県有地となりました。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、昭和43年には県の指定史跡「甲府城跡」となりました。」

 石垣が見える階段を上がると、さすが山梨県!!富士山が見えます。
   

 反対側からは甲府の街がよく見えます。
   

 歴史残る良い街並みです。

 しかし暑かったですよ!!
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平宗盛

2016年07月19日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 元暦2年6月21日〜西暦だと1185年7月19日(今日!!)に、屋島・壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平氏の中で捕虜として捕まっていた平宗盛が斬首されました。享年39。

 数年前に放映されたNHK大河ドラマ「平清盛」でも当然!登場して、清盛の三男として権勢を欲しいままにした平家の中心人物です。

 一族がことごとく処刑されたために、その直系の血は絶えてしまいました。

 平家に関しては、その行いがあまりにも横柄なため、後世の人達の書き換えか???歴史の上では良い人物には描かれていません。平家は悪で、源氏が善なんて、そんな単純な話ではないはずで、平安時代に想いをはせれば、平家にも日本人の生活を向上させた貢献もあるわけです。

 NHK大河ドラマでは、その辺も描きたかったようで、当時色々と批判され、視聴率も云々と取りざたされていましたが、あらためて見ると大変興味深いドラマだったと今なら思えるのでした。

 (写真)こういう絵を見ると良いなぁ〜と心から思えるような年になってきました。「和」は良いですね。マイブーム。

 
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高岡大仏

2015年10月07日 23時59分59秒 | 歴史探訪
 以前の記事
高岡山瑞龍寺(国宝)

 以前訪れたときは、工事中だったので大仏を見ることが出来なかった。

 立て看板には以下のようにある。
「高岡大仏は、坂下町極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、延享二年(1745)、木造金色の仏像を建立したのが始まりである。しかし、その像は文政四年(1821)に焼失。その後、天保十二年(1841)に再興されたが、これもまた明治三十三年(1900)の大火で焼失した。 現在の大仏は、篤信家の松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治四十年(1907)に造営事業が着手された。その後、中川原町の萩布宗四郎らの協力により、二十有余年の歳月を経て昭和八年(1933)に全工程を完了、五月に開眼式が行われた。昭和五十五年(1980)に十一メートル後ろへ下がった現在の場所へ移転・補修された。 原型は中野双山、古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色に至るすべての工法を高岡の工人・職人達の手で行った記念すべき大作である。 昭和三十三年(1958)に建載された円輪光背には、阿弥陀仏の仏徳を人文字で表現する(キリーク)という梵字が頂点に配されており、大円輪の光背がそびえる大仏尊は世に珍しく、奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている。」

 遠くから見る大仏の表情、近くで見る大仏の表情、横からみる大仏の表情がすべて違う印象になるのが、驚愕。
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大阪城

2014年07月04日 23時39分03秒 | 歴史探訪
 これにて、大阪~東京ネタは打ち止めでございます。

 ちょん・ちょん・ちょん・ちょん。
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定義山 vol.2

2014年04月09日 23時59分22秒 | 歴史探訪
 案内板には以下のようにあります。
「定義如来西方寺五重塔解説
  今から八百年前、平重盛公の重臣 肥後の守貞能公は平家が壇の浦の戦いに敗れた後、重盛公の遺命を奉じて、この地にかくれ、重盛公が平和祈願のため、中国の怪山寺に黄金若干寄進に際して送献された阿弥陀如来の画像宝軸を護持しました。 源氏の追討を逃れるため、貞能公は、なおも世をはばかり、名を「定義」「さだよし」と改め、その後、朝夕尊像を礼拝し世の平和を祈ったのです。今この地を定義(じょうぎ)と称し如来様を定義如来と申し上げるのもここに起縁するものであります。 この西方寺五重塔は、貞能公の菩提を弔い、御報謝の意を捧げ、全国各地からのご先祖の供養に御参拝の皆様に心のやすらぎと幸益々多く、そして未来永劫の人類の平和を祈念するシンボル塔となることを信じ建立いたしました。」

 この五重塔は昭和時代に建てられたもので、古い建物ではないですが、寺院の中にあると風格を感じます。4/7はご開帳の日で運良く中を見ることが出来ました。

 お線香を供えて、おみくじをひいてお祈りしてきました。

 五十肩が1日でも1時間でも1秒でもはやく治りますように・・・・・・。
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定義山 vol.1

2014年04月08日 23時59分58秒 | 歴史探訪
 伝承ですが、本日4/8は釈迦の誕生日。

 昨日、仙台での用事を済ませた帰り道~普段素通りしている定義山に寄りました。目的の一つはTVで何回も見て美味しそうだなぁ~と思っていた三角あぶらあげを食べること(写真)。これは予想以上に美味しかったです。タレをかけて、ニンニク七味でいただきました。

 そして、初詣も済ませてない不届き者なので、浄土宗の寺院~西方寺も見学へ。
  

 ちゃんとお賽銭入れてお願いしてきました。
  

 案内板には以下のようにあります。
「こちらは平家ゆかり、浄土宗のお寺です。 今から850年前(平安時代)、平重盛は戦乱の世を嘆き平和祈願のため、中国怪山寺に黄金を寄進しました。その際に送献されたのが、こちらのご本尊、阿弥陀如来の掛け軸と言われています。 平重盛が病に伏すと、重臣平貞能は、壇ノ浦の戦いの後、源氏の討伐を逃れこの地に隠れ住み更に名を「定義」と改めました。このことがこの如来様を「定義如来」と呼ぶ由縁です。 江戸時代中期、霊験あらたかな如来様と日夜お参りが絶えず、ついには平家の末裔早坂源兵衛が自ら出家し西方寺の開創となりました。 今日においても、多くの方が願い事を持って参拝し、毎日ご祈祷の法要が行われています。 また御本尊「定義如来」は秘仏になっており、年に5回開帳されます。」

 つづく・・・。
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大円寺

2014年02月02日 23時34分22秒 | 歴史探訪
 あっという間に2014年の睦月が過ぎ、如月になりました。もう少し先週の事を書きます。

 先週、大鰐温泉に宿泊した時に訪れました。

 東奥日報社発行の青森県まるごと生活情報誌 月刊「ツゥーライフ」第86号~2014.1号によると、「大円寺は、建久2年(1191)、円智上人の創建とと伝わる古刹。起源はさらに古く、奈良時代、聖武天皇の国分寺建立に際し、本尊の大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置したことに始まるともいわれています。慶安3年(1650)、津軽三代藩主・信義により現在の場所に移され、以来、津軽家代々の崇敬を受け、現在まで「大鰐の大日様」として津軽の人々の信仰を集めています。 「大日様」と知られる本尊は、実は藤原様式の阿弥陀如来座像です。なぜ阿弥陀如来を大日様として信仰したのか、その理由は未だ解明されていませんが、「大鰐」という地名は、この大きな阿弥陀様「おおあみ」から、「おおあね」「おおあに」「おおわに」と転化したものといわれています。」

 あいにく日が落ちて、きーんとした空気の中、長くは眺められませんでしたが、なかなか魅力的なお寺さんでした。

  

 阿弥陀如来座像は国の重要文化財にもなっているようで、寺前の説明板には以下のようにありました。「大尊大日如来の由来  奈良時代聖武天皇の国分寺建立に始まり本尊毘盧遮那仏(丈六仏)即ち大日如来を阿闍羅山に安置せりと言い伝えられております。鎌倉時代建久二年(1191年)神岡山高伯寺に奉移せられ、さらに慶安三年(1650年)津軽藩三代信義公により現在地に奉移されました。大正九年に国宝に指定され、昭和二十七年には国の重要文化財に指定されました。」

 是非、開帳の折にはご本尊を見てみたいです。
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