廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

ウィルバー・ハーデンのことを語ろう(2)

2020年02月09日 | Jazz LP (Savoy)

Wilbur Harden / Tanganyika Strut  ( 米 Savoy MG-12136 )


前作 "Mainstream 1958" セッションに引き続き、5月、6月にもヴァン・ゲルダー・スタジオでコルトレーンと録音に入る。カーティス・フラーを呼び、
リズム隊は入れ替えてのセッションだ。タイトル曲は6月のセッションからだが、残りの3曲は5月の収録になる。

冒頭の正に闊歩するような軽快なテーマ部を経て、ハーデンのフリューゲルホーンのソロが始まるとこのアルバムの素晴らしさは約束されたも同然、
という気分になる。この後にコルトレーン、フラーへとソロのバトンは渡されるが、やはりハーデンの歌うようななめらかなソロは群を抜いている。
単純な構成の楽曲と演奏だけどマイナー調の哀感のあるとてもいい曲で、映画やCFのワン・シーンで使われてもよさそうな楽曲だ。

そして、ラストの "Once In A While" でハーデンの抒情的な歌心が炸裂する。コルトレーンもフラーも、先導するハーデンの演奏をお手本にしながら
ゆったりと吹くが、クオリティーでは大きく引けを取る。サヴォイのセッションはリーダー名を特定していないけれど、演奏の内容を聴くと明らかに
ハーデンが全体を主導していることがわかる。まるでこの曲はこういう風に演奏しろよ、と全体に指示を出しているかのようだ。他のメンバーたちは
忠実にそれに従うことで演奏が纏まり、1本のスジが通るようになる。

3管になるとハーデンのソロのスペースも減るが、この人の音色とフレーズの印象は演奏時間の長い短いに関係なく、しっかりと心に残る。
そこが素晴らしいと思う。

ヴァン・ゲルダー独特の残響が効いた翳りのあるサウンド、3管の力量や演奏配分のバランスが取れた構成、わかりやすい曲想など、内容的はまるで
ブルーノートの1500番台後半の雰囲気そのままなのに全く評価されていないのは解せないが、個人的にはブルーノートやプレスティッジばかりを
有難がる世間の風潮は却って都合がいい。こういう優れた内容のレコードが安く買えるからだ。そういう風潮が続く限り、レコード屋へ行って
パタパタとめくっていく楽しみは無くならないだろう。そういう中でウィルバー・ハーデンのレコードに出会えれば最高じゃないかと思う。

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ウィルバー・ハーデンのことを語ろう(1)

2020年02月08日 | Jazz LP (Savoy)

Wilbur Harden / Mainstream 1958  ( 米 Savoy MG-12127 ) 


私が一番好きなトランペッター、ウィルバー・ハーデンのことを語ろう。

1969年に45歳という若さで亡くなってしまったせいもあって、リーダー作は1枚しか残っていないし、その他のレコーディングもコルトレーンの陰に
隠れてしまって表立って見えることもない。遅咲きで活動時期も短かかったこともあり、まったく陽の当たらなかったトランペッターだった。
それでも、私はコルトレーンの横で吹く彼の音を初めて聴いた時から、問答無用で惹かれてしまった。

ハーデンの美質は何と言ってもその伸びやかで美しい音色だ。こんなに美感際立つ音色を出す人は他にはいない。音程も正確で高い技術力もあった。
この人がコンボの中にいるだけで、そのサウンドは清流化されていく。

1958年3月18日にハッケンサックのヴァン・ゲルダー・スタジオで録音されたこのアルバムで、既に彼のフリューゲルホーンは美音をまき散らしている。
コルトレーンの硬く濁りのある音との対比でそれがいっそう引き立っている。ソロのスペースはコルトレーンの方が長いけれど、ハーデンのソロの方が
断然印象に残る。この時のコルトレーンは上手くはなっているけれど、まだ独りよがりなところが目立つ。

ダグ・ワトキンスのウォーキング・ベースが圧巻で、この時の演奏の要となっている。ヴァン・ゲルダーはワトキンスの音を照準にして録音していた
ような感じがする。まあ、この人の前乗りのリズム感は凄い。

スタンダードが含まれておらず、地味な楽曲が並んでいることもあって人目を惹かないアルバムだが、タイトル通り58年当時の主流派ハードバップが
凝縮された演奏で、内容は1級品だ。長年ジャズを聴いてきた人には愛される内容である。

コルトレーンとの最初の録音だったこともあり、ハーデンは少し遠慮気味な立ち位置にいるけれど、この後の数か月の共演の中で徐々にその存在感は
増していくことになる。そういう軌跡を感じ取ることができるのが面白い。この2人は相性も良かったと思う。コルトレーンはこの後の数か月で
別人のように急激な成長を見せる訳だけど、ハーデンはその様子を目の前で見ていた唯一の人だったのかもしれない。

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夜ジャズの決定版

2020年02月02日 | Jazz LP (Savoy)

Sahib Shihab / Jazz - Sahib  ( 米 Savoy MG-12124 )


サヴォイのカタログ番号の若いものはビ・バップの残り香を帯びた古いスタイルのジャズが多いが、50年代後半になると硬派なハードバップがたくさん
出てくる。その中でも屈指の内容を誇るのがこのアルバム。サヒブ、ウッズ、ゴルソンの3管が織りなす暗く重い雰囲気が最高の仕上がりだ。

よく考えると非常に珍しいメンツの組み合わせで、他では聴くことのできない色合いのハーモニーが1度聴くと忘れることができない強烈な印象を残る。
このアルバムのいいところはサヒブの無国籍感が抑えられて、ベニー・ゴルソンの都会的な夜の静寂を想わせる深い抒情感が全面に出ているところだ。
サヒブの個性はやり過ぎると鼻につくが、ここではそれが抑制されて演奏の上手さが音楽を補強している。ゴルソンが音楽全体を統率していて、それが
上手くいっている。

フィル・ウッズのアルトは都会の摩天楼のような輝きを放ち、その周りをゴルソンの深くくすんだテナーが夜の闇のように大きく覆う。ビル・エヴァンスも
素晴らしいソロを残していて、この組み合わせは成功している。全体的にゆったりとしたテンポの曲が多く、それが殊の外いい雰囲気を出している。
そういうムードを重視した音楽だけど、軟弱な音楽にはならず、骨太でずっしりとした重さが残るところはこの顔ぶれだからこそだろう。

RVGの完成したモノラルサウンドが見事で音響的にも素晴らしい。唯一の欠点は内容を反映しようとしないジャケットデザインのいい加減さで、これが
このレーベルの評価の足を引っ張っているのは相変わらずの残念さだ。このアルバムもジャケットが違っていれば、最高の評価を得られただろう。

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サヴォイのカーティス・フラー最後の1枚

2019年11月10日 | Jazz LP (Savoy)

Curtis Fuller / Images Of Curtis Fuller  ( 米 Savoy MG 12164 )


昨日、新宿に出る用事があったのでそのついでに暗くなりかたけた夕刻に新宿ジャズ館に寄ったら、これが転がっていた。私の理解ではこのレコードは
弾数が少なくて珍しいはずだが、1,980円というギリ安レコだった。長らく探していたがまったく見つからず、これも諦めていた1枚だったが、こうして
忘れた頃にあっけなくぶつかる。まあ何にせよ、サヴォイのカーティス・フラー最後の1枚がようやく我が家にやって来てくれて懸案の1つが片付いた。

1960年6月の録音で、ユーゼフ・ラティーフ、リー・モーガンの組み合わせとラティーフ、ウィルバー・ハーデンとの組み合わせの2つのセッションが
入っている。ピアノがマッコイ・タイナーだったり、と新しい世代のメンバーがいるため、音楽は従来のハードバップからは脱却した雰囲気があり、
サヴォイのレコードっぽくない。そういう所がモダンジャズ愛好家たちからは敬遠されるのかもしれない。

こういうニュー・ジャズでは、リー・モーガンやカーティス・フラーは分が悪い。モーガンは新しい波にちゃんと乗ることができた人だけど、この時点では
まだその準備ができておらず、かなり苦戦している。この2人に比べて、ラティーフやマッコイの活躍は目覚ましい。まさに時代が変わる節目の作られた
このレコードには、新旧世代交代の様子がありありと刻まれている。サヴォイでのフラーの役割はここで終わった。唯一、ウィルバー・ハーデンが少ない
出番ながら気を張ったプレイをしている。これならモーガンではなく、ハーデンだけで録音すればよかったんじゃないかと思う。

このレコードはサヴォイ後期の制作のためか、RVGの刻印がない。にもかかわらず、驚くような高音質で鳴る。普通のボリュームだとうるさ過ぎて
とても聴けない音だ。これを聴いていると、RVGの世界もそろそろ通用しなくなってきた時代が来ていたんだなあとなんだか切ない気持ちになる。
いろんな意味で、時代が一回りして次の新しい時代に移ろうとしていた様子がしっかりと刻まれている。


年末の大型セール直前のこの時期、ユニオンは商品の動きが悪く、客足もまばらでいささか不気味な雰囲気になる。ある信頼できる情報筋によると、
今回の年末セールは海外の買い付け価格の高騰で店頭価格はえらいことになるらしい。具体的には書けないけれど、一部のレコードは日本人が
買えるような値段にはならないんじゃないか、ということである。ちょっと大袈裟な気もするけれど、もし本当だとしたら、大型セールに照準を
合わせている人には何とも気の毒な話である。こんなことで身を持ち崩したりしないよう、ほどほどに頑張っていただきたいと思う。


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リーダー作がほとんどない人 ~その2~

2019年08月16日 | Jazz LP (Savoy)

Allen Eager / New Trends In Modern Music Vol.2  ( 米 Savoy MG-9015 )


一般的にアレン・イーガーに最も触れる機会が多いのは、トニー・フラッセラのアトランティック盤だろう。 共演者としての参加なので演奏を十分堪能
できるというほど聴けるわけではないが、それでも "His Mastre's Voice" や "Blues Serenade" の淡麗な語り口に魅了されない人はいないだろう。
よし、ではリーダー作を探そうということになる訳だが、これが途方に暮れてしまうことになる。

この人の単独リーダー作はSP音源を集めたサヴォイの10インチが2枚、81年のUptown盤、日本でリリースされた放送音源くらいしかない。 後者の2枚は
どうも食指が動かず未聴のままなのでどういう内容なのかはわからない。 前者の2枚は若い頃の短いSP録音なので、あまり楽しめる内容とは言い難い。
サイドメンとして参加しているものはそこそこ残ってはいるけれど、それはあくまでサイドメンとしての演奏で本人の実像にはなかなか迫れない。

この人の略歴はWikipediaに詳しく出ているので割愛するが、ドラッグ問題でシーンからは早々に離脱したというお決まりのパターンだったようだ。
時々思い出したように楽器を手に取ったみたいだが長続きしなかったらしく、これではリーダー作どころではなかっただろう。 いいテナーを吹くので
ただただもったいない。 別に音楽なんてやらなくても人間は生きていけるから他人がとやかく言う話ではないが、それでも彼の演奏の片鱗に触れた
ことがある人からすれば、もっとその演奏を聴いてみたかったと思うのが人情ではないか。

40年代後半のサヴォイと言えば当時のトップ・レーベルであり、自己名義で録音できるというのはかなり凄いことだったはずで、それなりにジャズ界では
注目されていたということだ。 このアルバムでも粗削りながらも覇気のある演奏をしており、あともう少し持ちこたえていれば我々レコードオタクを
喜ばせる作品が残ったに違いない。 それぞれ事情を抱えていたと言え、こういう無いものねだりをしたくなるミュージシャンが当時はたくさんいた。


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ドン・バイアスの子守唄のような演奏

2019年05月06日 | Jazz LP (Savoy)

Don Byas / Tenor Sax Solos  ( 米 Savoy MG 9007 )


1946年、渡仏直前にサンフォード・ゴールド、マックス・ローチらと吹き込んだSP録音をLPへ切り直したもので、アルバムとしてのコンセプトなどはなく、
ドン・バイアスのバラード・プレイをただ堪能するレコード。 パーカーがビ・バップを始めた頃とは言え、まだまだジャズは難しいことを考える必要の
ない、ある意味では幸せな時代でこれはこれで十分だった。 

このサヴォイ・セッションのすぐ後にドン・レッドマンのビッグ・バンドの一員として欧州ツアーに出かけ、そのままパリに居を構えてアメリカには戻る
ことなく、72年にオランダで亡くなっている。 黒人が生きづらかったアメリカにさっさと見切りをつけたわけだが、それにしてもずいぶんと早い
決断だったものだ。 その代償としてアメリカのレーベルで50年代に新録のアルバムを作ることなく生涯を終えた珍しいジャズ・ミュージシャンで、
フランスで録音された音源が少し逆輸入されてポツポツと10インチが残っている程度だから、当然認知度は低いままだし、実像もよくわからない。

ベン・ウェブスターと同系統のバラード系だけど、ベンよりも更に深く暗い音色でゆったりと吹く人で、そこに少しゴルソンのようなうねり感が混ざる。
そういう強烈な個性があったので、アメリカで活動していればそれなりにレコードはたくさん残っていただろうし、名盤として後世に残る作品もきっと
作れたはずだから、何とも残念なことだ。 当時のアメリカに人種差別とドラッグが無ければ、ジャズという音楽はもっとマーケット規模の大きな音楽に
なっていたのに、と嘆かざるを得ない。 ローランド・カークのように「ドン・バイアス命」を公言するフォロアーももっとたくさん生まれただろう。

LP化にあたってはヴァン・ゲルダーは関与しておらず、元の音源をあまりいじらずにトランスファーしているようだけど、音質は極めて良好だ。
アドリブは少なく、メロディーをそのまま吹き流しているだけの短い演奏で、何とも素直でおだやかで子守唱のような心地いい音楽。 こういうのを
聴いていると面倒臭い日々のあれやこれやが何だかすべてもうどうでもいいや、という気分になる。 当時の人もそうだったんじゃないだろうか。 
その頃の音楽に求められていたのは、きっとこういう効能だったんだろうと思う。 

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ヒッコリー・ハウスのハウス・ピアニスト

2018年12月15日 | Jazz LP (Savoy)

Marian McPartland / Jazz At The Hickory House  ( 米 Savoy MG 15032 )


日本ではヒッコリー・ハウスと言えばユタ・ヒップを連想するのが一般的だが、アメリカではマリアン・マクパートランドということで相場は決まっている。
1952年にヒッコリー・ハウスのハウスピアニストになった彼女はそこを根城に活躍し、78年から2011年まで "Radio Jazz" という人気ラジオ番組の司会を務めた。
こういうアメリカの日常感覚が日本にいると当然わからない。 ジョージ・シアリングが大物ジャズピアニストだと言われてもピンとこないのと同じように。

イギリス生まれで十代の頃はクラシックの音楽学校に通っていたという経歴のとおり、彼女のピアノは基礎トレーニングがしっかりとしていることが一聴すれば
すぐにわかる。 我流で身につけたピアニストたちとは一線を画した正統なピアノ奏法なので、演奏がしっかりとしている。 こういうところは他の多くの
女流ピアニストたちと共通している。 酒やドラッグで不安定な演奏をしがちな男性ピアニストたちよりも遥かに安心して聴けるのだ。

特にこのアルバムはドラムをジョー・モレロが叩いており、冒頭から彼の神技ブラシが炸裂する。 演奏が揺れに揺れる。 ヴィニー・バークのベースもずっしりと
重く、理想的なピアノトリオの演奏を堪能できる。 取り上げられているスタンダードはどれもありふれたものだし、特に目新しいことをやっているわけでも
ないからスルーされるのが普通だろうと思うけれど、聴けばその良さに認識も新たになるだろう。

10インチはRVGカッティングではないので、ピアノの音が自然な響きで鳴っている。 ピアノに関してはRVGが関与しないほうが好ましい場合が多いから、
こういうピアノ・トリオの場合はRVGがリマスターしている12インチよりは10インチで聴くほうがいいかもしれない。


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存在理由があるピアノ・トリオ

2018年10月07日 | Jazz LP (Savoy)

Vinson Hill / And His Trio  ( 米 Savoy MG-12187 )


仕事帰りに拾った安レコ。 何者なのかは不明だが、取り敢えずはサヴォイだし、安レコだし、ということで連れて帰った。 その程度の消極的動機で
聴き始めたのだが、これが予想外の良さでちょっと驚いた。 これだから安レコ漁りは止められない。

スタンダードとオリジナルが半々の構成だが、スタンダードへのアプローチがありきたりのやり方ではなく、現代の方へ向いた当時としては新しい演奏をしている。
オリジナルも思索的な仕上がりで、全体的に聡明さに溢れ、自身の内面と上手く交感し合った音楽を創り上げている。 知的、という意味で言うなら、
例えばドン・フリードマンなんかよりはこちらのほうがずっと優れていると思う。 ただ、知的という言葉で表現されるよりは、もっとしっかりと地に足が着いた
ソリッドな手触り感のある音楽で、これは見事な出来だ。

最近はそうでもないようだが、一時のピアノ・トリオ・ブームは凄くて、CDの新品フロアがピアノ・トリオの作品で埋め尽くされていた時期があった。
ピアノ・トリオは一番平易な音楽で、音楽の素養なんかなくても誰でも楽しめるからだろうけど、供給側の粗製濫造振りには嫌悪感しか持てなかった。
どれだけ耳を凝らして聴いてもどれも皆同じような演奏で、各々の違いなんてさっぱりわからなかったけど、店頭では次から次へと新しい作品が陳列されて、
その回転の速さにはまったくついて行けず、呆然と眺めるしかなかった。

別に昔はよかったというつもりはないけど、こういうレコードが作られていた時代は各レーベルの中でピアノ・トリオの作品が占める比率はさほど多くはなく、
制作は厳選されていた。 だから残されたピアノ・トリオの作品はどれもしっかりと耳に残るものが多く、そういう意味では健全な時代だったのではないか。
このアルバムもなぜ作られたのか、その理由がよくわかる内容だろうと思う。


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既に完成されていたワークショップの原石

2018年09月24日 | Jazz LP (Savoy)

Charles Mingus / Jazz Composers Workshop  ( 米 Savoy MG-12059 )


1954年と1955年に行われた2枚の10インチ録音を1956年にカップリングしたアルバムだが、この時点ですでにワークショップを名乗っている。
そして、既にミンガスの音楽が展開されているというのが驚きだ。 ルイ・アームストロングのバンドのベーシストとしてキャリアをスタートさせ、
パーカーと共演し、エリントン・オーケストラを解雇されるという最強の履歴書を書くことができる人だけに許された、唯一無二の音楽。

まるでクラリネットのようなラ・ポータのアルトが躍るアーリー・スイング・ジャズがあるかと思えば、3管が思い思いのフレーズを流しながらピアノが
調性を外れたコードで移ろう無調の曲までが立ち現れて、これが54年の音楽かと絶句する。 55年のセッションになるとそういう傾向は更に顕著になり、
トリスターノの音楽理論も取り込んだかのような傑出したムードで完璧に統一される。 マイルスやロリンズがまだよちよち歩きをしていた頃、既に
ミンガスはこんな音楽をやっていたのだ。 ジャズという音楽のいつコードの決まり事から逸脱してもいいという特性を最初に見抜いたのはこの人だった
のかもしれない。

でもそこには難解さは全くない。 非常に落ち着き払った静かなムードでしっかり統制されている。 まるで、灯りが落ちて闇が降りた深夜の人気のない街の
どこか遠くから反響して聴こえてくるような都会的な音楽だ。 テオ・マセロとジョージ・バロウが操るテナーとバリトンの深いトーンが孤独な影を作りだし、
ウォーリー・シリロのピアノが石畳の街路を宛てもなく彷徨うように響く。

作曲にこだわったミンガスの最初期の作品として、ワークショップの原石というよりは既に完成した音楽が静かに刻まれている。 50年代前半のある時期に
創られた多くのアーティストのアルバムには上述したようなある共通した雰囲気が共有されているものだけれど、このアルバムにもそれがある。
ミンガス独自の音楽ではあるけれど、それは当時のニューヨークの空気をしっかりと吸って時代と間違いなく繋がっていたことを感じることができるのだ。


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ツイン・ピークスの世界観へと繋がる扉

2018年07月29日 | Jazz LP (Savoy)

Jimmy Scott / Very Truly Yours  ( 米 Savoy MG 12027 )


あと2週間ほど我慢すれば、待望の夏休みがやって来る。 この酷暑の中、会社になんてもう行きたくないから、待ち遠しくて仕方ない。 
今年の夏休みの私的メインイベントは、「ツイン・ピークス」の最新シリーズを観ることである。 発売と同時に既に入手済みだが、私は連続ドラマを
ちまちまとこま切れで観るのが嫌いなので、まとめてノンストップで観られるよう夏休みのお愉しみに観ずにとってあるのだ。

「ツイン・ピークス」はリアルタイムでドハマりした。 以来、一端のデヴィッド・リンチ狂として観れる映像はすべて観てきたし、個展が開かれれば必ず
足を運んだ。 まさかここに来て続編が観れるとは思ってもみなかったので、静かに狂喜している。 生きていればいいことがあるなあ。

TVシリーズの最終話でジミー・スコットが出てきた時には驚いた。 その少し前に彼のレコードを買って聴いていたところだったのだ。 デヴィッド・リンチの
音楽センスは元々人並み外れていたけど、この異色のジャズシンガーを持ってくるなんて普通の人にできることではない。 あの "シカモア・ツリー" は
一度聴くともう永遠に忘れることはできない。 狂気の映像と共に、その音楽も人間の記憶の奥深くにしっかりと刻まれてしまう。

カールマン・シンドロームという先天性のホルモン欠乏症で声変わりせず、身長も150cm程度で虚弱だった彼の歌がたっぷりと聴けるのがこのアルバム。
SP期から吹き込みはあるが、アルバムとしてはこれが第1作目となる。 デリケートでナイーブな歌声を邪魔しない簡素な伴奏をバックに、とても男性の
歌声とは思えない声でノン・ビブラートで歌われる曲たちを聴いていると、どこか知らない所へ連れて行かれるような錯覚を覚える。 それはまるでそのまま
ツイン・ピークスの世界観と重なる。 ただのジャズのレコードでは済まない何かがここにはあるのだ。








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人気と実態の乖離

2017年12月22日 | Jazz LP (Savoy)

Lee Morgan with Hank Mobley's Quintet / Introducing Lee Morgan  ( 米 Savoy MG 12091 )


若きリー・モーガンの姿が判る貴重な記録ながら、どうもスッキリせず冴えない内容だ。 その理由の1つは、おそらくビ・バップを演奏しているからだと思う。
なぜ、1956年にこんな時代遅れの音楽をやったのかはよくわからない。 モブレーは無理をせず、ビ・バップの形式に上手く自分を溶け込ましてはいるけれど、
元々がこういうタイプの音楽には似合わない人だ。 しかもフロントの2管にはビ・バップの覇気や高揚感がまったくない。

尤もモーガンはさすがに上手くて、長いソロを何の不安げもなく抜群の安定感で吹き切っていて、フレーズの作り方も上手い。 ただのパワー・ヒッターでは
ないところが当時のミュージシャンたちの間で驚異を以って迎えられた理由だけど、その美質がしっかりと刻まれている。

ただ、ハンク・ジョーンズ、ダグ・ワトキンス、アート・テイラーの3人は鉄壁のリズムを作っていてこちらはハード・バップのマイルドな演奏になっているのに、
フロントの2管がビ・バップのリフをやるものだから、音楽的に全然噛み合っていない。 終盤のバラード・メドレーでようやく5人の演奏がハード・バップとして
統一されて、何とかギリギリうまく着地するという感じだ。 やはり、ハンク・モブレーは音楽監督には向いていない。

おまけに、ヴァン・ゲルダー・スタジオでの録音でカッティングもRVGなのに、なぜか音質が冴えない。 音圧は高いけれど、音自体は表面が曇っている金属を
見ているような感じだ。 空間的な立体感や奥行き感もなく、オーディオ的な快楽度も高くない。

そんなわけで、昨今のこのレコードの高騰ぶりの理由がよくわからない。 悪い演奏だとは言わないけれど、今現在取引されている値段に見合う内容だとは
とても思えない。 


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濃厚な語り口

2017年07月17日 | Jazz LP (Savoy)

Joe Wilder / Wilder 'N' Wilder  ( 米 Savoy MG 12063 )


照明の灯りが反射してキラキラと輝くトランペットからゆったりとメロディーが流れてくる様子が、何の手も加えられずそのまま録られたような感じだ。
ヴァン・ゲルダーが第五のメンバーとして施したカッティングが冴えに冴えわたっている。 演奏の良さよりも音の良さが先に立って、終始圧倒される。

スタンダードを、趣味のいい演奏をする4人が集まって、ゆったりとした速さでのんびり穏やかに演奏するだけの内容なので、特にそれ以上どうこうという
ことは何もなく、心地いい流れにこちらもただ身を任せていくだけなのだが、そういう中でやはり際立つのがレコードから出てくる音の生々しさだ。

ジョー・ワイルダーの演奏を聴いていると、こういう独特の語り口で吹けるトランペット奏者を最近の録音では聴いた記憶があまりないような気がしてくる。
一聴すればすぐに、ああ、これはジョー・ワイルダーだな、とわかる。 音程の怪しいところは多々あるものの、この「語り口」という言葉でしか表せない
演奏は一度聴くと耳から離れることはない。 

最近のジャズはどれを聴いても同じような演奏に聴こえる、というボヤキが絶えないのは音楽形式の話もあるだろうけど、それ以上に鳴らされる音の非個性化に
依るところも大きいのかもしれない。 演奏者たちは身体と楽器のコントロールに心血を注ぐよりも、録音技術の進化に乗っかった音の響かせ方・拡散のさせ方や
組合わせの妙に没頭しているように見える。 そこには遊戯としての愉しさはあっても、音楽としての在り方には違和感を持つ一定数の人が出てきてもおかしくない。

ジョー・ワイルダーのこのアルバムは特に画期的な内容とは言えないかもしれないけれど、それでも聴いた人の心を捉えて離さないところがあるのは、おそらく
ブラウニーやマイルスと並んでもおかしくない、この人だけの音と演奏が聴けるからではないか。 例えば、私がブロッツマンの演奏を好むのはそれがフリーだから
ではなく、彼にしかできない演奏が聴けるからである。 そういう意味では、ワイルダーのこのアルバムもブロッツマンの諸作も、私から見れば特に違ったところは
何もない。 形式上の違いなんて、些細なことに思えてくる。


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見た目が100%、なのか?

2017年05月06日 | Jazz LP (Savoy)

Hank Jones / Quartet - Quintet  ( 米 Savoy MG 12037 )


事実上、ドナルド・バードのワンホーン・カルテットに一部でマティ・ダイスが加わったセッション、という内容だが、契約上の関係でハンク・ジョーンズ名義に
なっているというところだろう。 それくらい、ドナルド・バードのトランペットが輝かしく上手く録れている。

マティ・ダイスというトランペットはリーダー作もなく、サヴォイのハンク・ジョーンズの別の1枚に参加しているくらいで他のアルバムも見当たらない。
だからどういう人なのかよくわからないが、バードとよく似たタイプのプレイをしていて、なんでこの人を2曲だけ参加させたのかもよくわからない。
1955年11月1日の録音だからSPのような寄せ集め集ではなくアルバムとしての録音のはずだけど、こういう意味のわからなさ加減が如何にもサヴォイらしい。

ただ、あまりにトランペットの音がきれいに録れているからそちらに耳が奪われがちだけど、ハンク・ジョーンズのここでのピアノは絶品だ。 ラッパが前面に
立っているからピアノの音数を落としたプレイに徹底していて、真骨頂を見せる。 例の "Somethin' Else" でのプレイ・スタイルだ。 鍵盤の上に指を
そっと置いていくような弾き方で、こんなデリケートなタッチで弾ける人は他にはいないだろう。

非常に穏やかな曲調の楽曲が多く、全体の印象がとてもしなやかで洗練されているのに驚かされる。 バードのクセのない澄み切った音色、ハンクの音数の
極端に少なく柔らかい音、それらを邪魔しないベースとドラムの控えめな態度、そういうものが一体となってこの上品な音楽を作り上げている。

そして、ヴァン・ゲルダーの録音も最高の仕上がりで、ブルーノートやプレスティッジとは少し傾向が違う、サヴォイだけの高品質な音になっている。
私はそれら2つのレーベルのものより、このサヴォイの音のほうが遥かに好きだ。 

2管の曲もあるけれど、テーマをユニゾンで演奏するくらいの参加のしかたなので、これはワンホーンの内容と言っていい。 ドナルド・バードのワンホーンは
他には "ビーコンヒル" くらいしかなく、更にRVGの音で彼の伸びやかなワンホーンが聴ける作品はこれだけだ。 そこにこのレコードの大きな価値がある。

でも、そういう素晴らしさがまったく伝わらないこのジャケット・デザイン、一体何なんだろう。 これじゃ、誰からも見向きされなくて当然だよな。


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ハワード・マギーの爆音

2017年05月04日 | Jazz LP (Savoy)

Howard Mcghee / & Milt Jackson  ( 米 Savoy MG-12026 )


1948年2月の録音なのでビ・バップ期の音楽だけど、少し新しい匂いがし始めているところが感じられる。 SP期の録音だから演奏時間は短いけれど、
ハワード・マギーの吹くフレーズはビ・バップ奏者のものよりもメロディアスで音楽に新しい響きが感じられる。 同時代のトランペッターと言えば、
ディジー、ナヴァロ、エルドリッジらがいたけれど、その中では一足先にモダンジャズへと駒を進めることができた優秀なミュージシャンだった。

にもかかわらず、50年代はドラッグでその大半を棒に振っている。 3大レーベルでハード・バップをしっかりとやっていればきっと傑作群が残ったに違いない。
そういう創られることのなかった幻影のようなものを思い描かずにはいられない。

ジャケット裏に記載されているメンバーが不十分なので備忘録として書いておくと、このアルバムには2つのセッションが収められている。

Howard Mcghee - trumpet
Milt Jackson - vibraphone
Jimmy Heath - alto, baritone sax
Will Davis - piano
Percy Heath - bass
Joe Harris - drums    

howard Mcghee - trumpet
Billy Ekstine - valve trombone
kenny Mann - tenor sax
Hank Jones - piano
Ray Brown - bass
J.C. Heard - drums

前者のセッションではジミー・ヒースがパーカーばりのアルトを聴かせるのが非常に珍しい。 この人もパーカーに似ていると言われるのを嫌ってテナーに
転向したクチかもしれない。 後者のセッションではスキャットが入る曲があるけど、これはミスター・Bなんだろうな、きっと。 みんな演奏が上手い。

全体的にこの時代特有のいい雰囲気が漂っている。 音楽はいつの時代にも世相を反映するものだから、40年代終わりのシカゴの夜はこういう音楽が
似合う街だったんだろうなあ、となんだか羨ましくなる。 

このレコードは1955年に発売されていて、その際にRVGがリマスターを担当しているけれど、これが素晴らしい仕事をしている。 どの音も輝き、耳が
痛くなるような高い音圧で音楽が鳴り響く。 元々の録音が良かったからだろうとは思うけど、それにしてもどうすればここまで音を磨き上げられるんだろうか。
音楽の良さを余すところなく伝えてくれる、とてもいいレコードだと思う。


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ハンク・ジョーンズ再考

2016年11月27日 | Jazz LP (Savoy)

Hank Jones / The Trio  ( 米 Savoy MG-12023 )


DU Jazz Tokyo の元旦恒例セールがいつものマイルスではなくハンク・ジョーンズで特集を組む、という。 なんで今頃?という気もしないではないが、
それでもこれは一つの見識だと思う。 常々書いてきたことだけど、日本でのこの人の評価はあまりに低過ぎる。 トミー・フラナガンの実態にはあまり
そぐわない過大評価もどうかとは思うが、それ以上にこの人への過小評価には大いに不満がある。 もしかしたら、山田太郎、みたいな名前のせいで
損をしているのかなあと思ったりもするけど、一番の理由はやはり50年代にピアノ・トリオ形式で3大レーベルにレコードを残さなかったことなんだろうと思う。 

3大レーベルが50年代にピアノトリオの傑作を連発していた頃、ハンク・ジョーンズはサヴォイやキャピトルと契約していたために、そちらではリーダー作が
出せず、せいぜいサイドメンとして参加するのが関の山だった。 当時はサヴォイやキャピトルのほうが契約条件は良かっただろうから、そういう意味では
ハンク・ジョーンズ自身は恵まれた状況にいたんだと思う。 ただ、サヴォイはピアノトリオの作品作りが下手だったし、キャピトルは大衆音楽を供給する
レーベルだから、ジャズという音楽に対して特別な思い入れはなかった。

困ったことに日本の愛好家の多くは3大レーベルを通して見ることでしかジャズという音楽を認識できないところがある。 だからこれらのレーベルを出発点
とした、もしくは通過したミュージシャンばかりが人気を得ることになる。 パウエル、、モンク、ソニー・クラーク、ガーランド、フラナガン、ケニー・ドリュー、
そしてビル・エヴァンス。 

やはり、ジャズ・ピアニストはピアノ・トリオのレコードこそが名刺代わりになるのだから、そういう意味では名盤100選を選出しようということになれば
ハンク・ジョーンズという名前は大抵漏れてしまうし、ここで選外になるとファンの視界からは消えてしまう。 そして、60年代の荒波の中で、ある者は
不摂生が原因で亡くなり、ある者は欧州へと逃れ、ある者は演奏から身を引き、50年代のビッグネームの数が大幅に減ってしまった頃になってようやく、
人々はそうだ、ハンク・ジョーンズがいるじゃないか、ということに気が付くことになる。 そして、70年代後半頃からこの人の作品が本格的に作られる
ようになるのだ。 でも、残念ながら時すでに遅し、の感は否めない。

そんな歯車の上手く嚙み合わなかった50年代に残された数少ないトリオ作品の1つがこのサヴォイのレコード。 ビ・バップの残り香を少し漂わせながらも、
非常に端正な演奏に終始している。 録音は当然RVGで、ピアノの音はソニー・クラークの音とよく似た感じになっている。 ただし、ピアノの弾き方が
まったく違うから、ソニ・クラを思い出すようなところはまったくない。 ハンク・ジョーンズらしい、破たんのない、ある意味完璧な演奏をしている。

ただ、この作品はコアな愛好家からは褒められることはあっても、名盤100選に選ばれることはない。 その原因は、たぶん、ドラムのケニー・クラーク。
そのあまりに中道保守的な演奏が音楽全体を上手くまとめ過ぎていて、覇気のようなものを削いでしまっている。 聴いていて、面白味に欠けるのだ。
モダン・ドラムの開祖と評価の高い人だけど、レコードで聴く限りではそのドラミングに感銘を受けたことはあまりない。 たぶん、フィリー・ジョーが
叩いていたら、このレコードは名盤の仲間入りしていただろう。 ハンクは競演者に感応するタイプだからだ。 でも、個人的にこのレコードにはどこか
惹かれるところがあって、好きな1枚としてレコード棚の中に残っている。 ハンクのトリオ作品という意味では得難いレコードだ。




Cannonball Adderley / Somethin' Else  ( 米 Blue Note BLP 1595 )


競演者に感応することでハンクが怪演を残したのが、このアルバム。 この作品が誰もが認める名盤になったのは、ここで聴かれる演奏の中に怪しく漂う
一種の不気味な雰囲気にある。 そして、その不気味な雰囲気を作っているのが、ハンク・ジョーンズの音数の少ないピアノなのだ。 どことなくセロニアス・
モンクを意識したかのような、重々しくたどたどしい、黒光りするピアノ。 サヴォイでの演奏とは、まるで別人のようだ。

マイルスのサウンド・ディレクションの下に演奏されているのは明白だけど、ハンク・ジョーンズのピアノ演奏はこのアルバムを境にして明らかに変化した。
ここで聴かれる「間」と共存するスタイルがこれ以降の彼のスタイルの基盤になる。 そういう意味でも、これはハンク・ジョーンズにとっても重要な作品
だったのではないだろうか。


コメント (2)
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