今日は3月20日。火曜日。
私は関東生まれ。父の転勤で私は神戸の小学校に入学。 小学校卒業後に再び父の転勤で東京に戻る。結婚まで東京住まい。
私は、結婚後も転勤族で、今まで、小学校の同窓会等に出たことはない。 案内状を頂いたこともない。
突然に舞い込んだ・・・ 『小学校クラス会案内状』
『家族も増えて…クラス会』 出席することにしました。
卒業後初めて、小学校の同級生と再会する。 同級生のお一人の名前も顔も思い出さない。覚えていない。
初めての会に参加するような気持ちで、出席してみることにした。
どんな感じがするのだろう? 私を覚えていてくださる方はいるだろうか? 私は皆様を思いだすだろうか?
とても興味深い。楽しみです。
そして。
今日は四旬節第五火曜日。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『イエスはファリサイ派の人々に言われた。
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
さらに、
イエスは言われた。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、
『わたしはある』ということが分かるだろう。
わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにはしておかない。
わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」』
ヨハネ福音書 8章21-30節
『わたしはある』
誰のことでしょう? ファリサイ派の人は信じない方のようです。
その昔。
旧約時代。
『神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われた。』 出エジプト記3-14
それは、『わたしは始めであり終わりである者』 『存在の初めからある者』 『いつまでもおられる方』 『神』 ということです。
時が過ぎ。
新約時代。
イエスは、『わたしは神から遣わされた者』:『わたしはある』であると信じないないのか? と話します。
しかし。 ファリサイ派の人々はそれを信じません。
そこで。
イエスは、『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、
イエスは『わたしはある』ということ。神であること。
イエスが、自分勝手には何もせず、ただ、御父に教えられたとおりに話していること。
以上の二つが分かるだろう。』ヨハネ8-28 とファリサイの人々に、再び言われたのです。
更に。
イエスを『わたしはある』であるということを信じないならば、
それは罪である。 その人はその罪のうち死ぬことになる。 とイエスは言います。
でも。
『十字架につけられたイエスを仰ぎ見る人は救われます。』 とも言われます。
それは、
イエスは、『神の御心=万人の救い』を行うために、神に遣わされた方=神の独り子である。
・・・・と信じる時
生きることができる。 永遠の命に入ることができる。 ということなのです。
『神の御心=人類の赦し』 が 『十字架上の磔刑』 によって成就した。 ということなのです。
『今日の拝領唱』
『イエスは群衆に言われた。「わたしは地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」』
マタイ福音書 12章32節
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
何十年ぶりに遭う同窓生。そして 見ないで信じる神。 私には、同様に、心の中に生き続ける大事な人たちです。
明日もお元気で!
私は関東生まれ。父の転勤で私は神戸の小学校に入学。 小学校卒業後に再び父の転勤で東京に戻る。結婚まで東京住まい。
私は、結婚後も転勤族で、今まで、小学校の同窓会等に出たことはない。 案内状を頂いたこともない。
突然に舞い込んだ・・・ 『小学校クラス会案内状』
『家族も増えて…クラス会』 出席することにしました。
卒業後初めて、小学校の同級生と再会する。 同級生のお一人の名前も顔も思い出さない。覚えていない。
初めての会に参加するような気持ちで、出席してみることにした。
どんな感じがするのだろう? 私を覚えていてくださる方はいるだろうか? 私は皆様を思いだすだろうか?
とても興味深い。楽しみです。
そして。
今日は四旬節第五火曜日。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『イエスはファリサイ派の人々に言われた。
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
さらに、
イエスは言われた。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、
『わたしはある』ということが分かるだろう。
わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにはしておかない。
わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」』
ヨハネ福音書 8章21-30節
『わたしはある』
誰のことでしょう? ファリサイ派の人は信じない方のようです。
その昔。
旧約時代。
『神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われた。』 出エジプト記3-14
それは、『わたしは始めであり終わりである者』 『存在の初めからある者』 『いつまでもおられる方』 『神』 ということです。
時が過ぎ。
新約時代。
イエスは、『わたしは神から遣わされた者』:『わたしはある』であると信じないないのか? と話します。
しかし。 ファリサイ派の人々はそれを信じません。
そこで。
イエスは、『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、
イエスは『わたしはある』ということ。神であること。
イエスが、自分勝手には何もせず、ただ、御父に教えられたとおりに話していること。
以上の二つが分かるだろう。』ヨハネ8-28 とファリサイの人々に、再び言われたのです。
更に。
イエスを『わたしはある』であるということを信じないならば、
それは罪である。 その人はその罪のうち死ぬことになる。 とイエスは言います。
でも。
『十字架につけられたイエスを仰ぎ見る人は救われます。』 とも言われます。
それは、
イエスは、『神の御心=万人の救い』を行うために、神に遣わされた方=神の独り子である。
・・・・と信じる時
生きることができる。 永遠の命に入ることができる。 ということなのです。
『神の御心=人類の赦し』 が 『十字架上の磔刑』 によって成就した。 ということなのです。
『今日の拝領唱』
『イエスは群衆に言われた。「わたしは地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」』
マタイ福音書 12章32節
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
何十年ぶりに遭う同窓生。そして 見ないで信じる神。 私には、同様に、心の中に生き続ける大事な人たちです。
明日もお元気で!