今日は3月26日。受難の月曜日。イエスのエルサレム入城の翌日。
『今日の福音 イエスの御言葉 過越祭りの六日前の出来事』
『過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
イエスのために夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。
『気配りの人・マルタ』
ラザロはイエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。』

イエスは、エルサレムを訪れた時は、大体マルタとマリアの家にお泊りになったといわれています。
『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、
イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。』

『香油を塗るマリア と イエスに抗議するユダ』
『家は香油の香りでいっぱいになった。』
普通は、頭に香油を塗る習慣はありましたが、生きている人の脚に香油を塗る習慣はなかったそうです。
マリアは、イエスに起こる色々の出来事から、イエスをお慰めしたいと思ったのかもしれません。
『弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。
彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。』
ユダは、油を塗るマリアを見て、それは不必要で、無駄なことをしていると、イエスに抗議しました。
ユダの言うことは、一理あり、納得できることのように聞こえますよね。
マリアは、ユダの言う通り油を売ることができたでしょうが、イエスが一緒にいる喜びを表したのではないでしょうか?
『イエスは言われた。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、香油を取って置いたのだから。
貧しい人々はいつもなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」』
以上。ヨハネ福音書 12章1-11節
今日の福音では、イエスの御言葉やマルタとマリアとユダの姿から、いろいろを学びます。
マルタは、
イエスのそばから離れない姉妹・マリアに手伝ってもらいたいと願いながら、いつものように、食事の準備をします。
マリアは、
イエスが『マリアは良い方を選んだ』と云われるように、いつものように、イエスのそばを離れず、イエスの話を聞きます。
マリアにとって、イエスの足に香油を塗ったことが葬りの準備をするためであったのかどうか・・・
おそらく本人にもそんなつもりはなかったでしょう。
ただ、これだけ危険の迫っている状況でしたから、ここで一緒に食事をするのは最後かもしれないという思いから、
イエス・キリストに対する『心からの尊敬の気持』を表したいという気持ちがあったのでしょう。
いつものように、マルタとマリアは、対照的な二人です。
ユダは、
使徒たちの会計係として、世間が考える通りに、自分の考えではなく、もっともらしい言葉を並べます。
貧しい人を助けることは、それはいつでもできることであり、毎日やるべきことです。
ヨハネ福音記者は、ユダの心の奥底にある思い=会計係として預かったお金をごまかしていた=を暴露します。
イエスは、
『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、香油を取って置いたのだから。』
・・・と。マリアのしたことは決して無駄な行いではないと、肯定します。
と同時に。
身近に迫った死を覚悟する、イエス・キリストの気持ちが表れた『御言葉』だったのでしょうか?
その通りに。
マリアのしたことは、そのキリストを葬る備えとなりました。
私たちは、
マリアの行動やイエスの御言葉から学んで、今何をすべきかはっきりして、『受難の週』の準備ができます。
イエス・キリストが自分から進んでささげる命は

すべての人に、『永遠の命を与えるための死』です。
イエス・キリストの尊い死を、深く思い巡らしながら・・・
イエスの受難の日に向けて心の準備をしてまいりましょう。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
「桜咲いた!」は「合格の暗号文」です。満開の桜を眺めながら…喜びの日を待ち望みましょう。 お元気で!
『今日の福音 イエスの御言葉 過越祭りの六日前の出来事』
『過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
イエスのために夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。

『気配りの人・マルタ』
ラザロはイエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。』


『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、
イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。』

『香油を塗るマリア と イエスに抗議するユダ』
『家は香油の香りでいっぱいになった。』

マリアは、イエスに起こる色々の出来事から、イエスをお慰めしたいと思ったのかもしれません。
『弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。
彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。』

ユダの言うことは、一理あり、納得できることのように聞こえますよね。

『イエスは言われた。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、香油を取って置いたのだから。
貧しい人々はいつもなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」』
以上。ヨハネ福音書 12章1-11節
今日の福音では、イエスの御言葉やマルタとマリアとユダの姿から、いろいろを学びます。
マルタは、
イエスのそばから離れない姉妹・マリアに手伝ってもらいたいと願いながら、いつものように、食事の準備をします。
マリアは、
イエスが『マリアは良い方を選んだ』と云われるように、いつものように、イエスのそばを離れず、イエスの話を聞きます。
マリアにとって、イエスの足に香油を塗ったことが葬りの準備をするためであったのかどうか・・・
おそらく本人にもそんなつもりはなかったでしょう。
ただ、これだけ危険の迫っている状況でしたから、ここで一緒に食事をするのは最後かもしれないという思いから、
イエス・キリストに対する『心からの尊敬の気持』を表したいという気持ちがあったのでしょう。
いつものように、マルタとマリアは、対照的な二人です。
ユダは、
使徒たちの会計係として、世間が考える通りに、自分の考えではなく、もっともらしい言葉を並べます。
貧しい人を助けることは、それはいつでもできることであり、毎日やるべきことです。
ヨハネ福音記者は、ユダの心の奥底にある思い=会計係として預かったお金をごまかしていた=を暴露します。
イエスは、
『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、香油を取って置いたのだから。』
・・・と。マリアのしたことは決して無駄な行いではないと、肯定します。
と同時に。
身近に迫った死を覚悟する、イエス・キリストの気持ちが表れた『御言葉』だったのでしょうか?
その通りに。
マリアのしたことは、そのキリストを葬る備えとなりました。
私たちは、
マリアの行動やイエスの御言葉から学んで、今何をすべきかはっきりして、『受難の週』の準備ができます。
イエス・キリストが自分から進んでささげる命は

すべての人に、『永遠の命を与えるための死』です。
イエス・キリストの尊い死を、深く思い巡らしながら・・・
イエスの受難の日に向けて心の準備をしてまいりましょう。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
「桜咲いた!」は「合格の暗号文」です。満開の桜を眺めながら…喜びの日を待ち望みましょう。 お元気で!