7月1日。月曜日。曇り。
今日は、月一、ベテラン主婦の集まり、『聖書を読む会』
日本語、英語、 そして フランス語の聖書。
皆様、得意な語学を生かして、3カ国語の聖書の比較をしたりして・・・。
今日の範囲は、『ヨハネ福音書 4章1~30節』
今日は、
イエス様が、『普遍真理=福音』を、
一人の女性・サマリアの女と共に、
ユダヤの世界から、異教の人々へと、広げていく話です。
サマリアの女性が、
初めて出会うイエスに向かって振る舞う高飛車な、イエスを見下げる立ったままの態度から、
イエスと語り合ううちに、
イエスへの信頼が増していき、
イエスの前にひざまずき、イエスを見上げる目線に変わっていくのです。
そんな一女性の、信仰が生まれて変わっていく姿を、『絵画』で見るのも、楽しいです。
私達・聖書の会メンバーは、いつもより1時間延長、3時間半、
イエス様とサマリアの女性の出会いの意味について、とことん考えました。
長いですが、ご一緒に、お楽しみください
では始まりです。
『イエスは、多くの弟子を作り、弟子たちが洗礼を与えていたユダヤを去り、
(弟子たちと)再びガリラヤへ行かれた。
それで、
ヤコブがその子ヨセフの与えた年の近くにあるカリというサマイアの土地に来られた。
そこには『ヤコブの井戸』があった。
イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。
サマリアの女が水をくみに来た。
イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
すると、サマリアの女は、言った。
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」
『キリストとサマリアの女 』 ヨーゼフ・フォン・ヘンペル作品
ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである。
イエスは答えて言われた。
「もしあなたが神の賜物のことを知っており、
また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、
あなたの方からその人に頼み、
その人は生けた水を与えたことであろう。」
女は言った。
「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにでないし、井戸は深いのです。
どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
あなたは、(この井戸を下さった)わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。
ヤコブ自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」』
『ヤコブの井戸』は、サマリヤの町スカル(シェケム)にあった井戸のことです。
スカルは、旧約時代のシェケムで、ゲリジム山の北東に位置しています。
この井戸は、サマリヤ人の伝承によると、ヤコブが掘ったとされています。
イエスは、『ヤコブの井戸』の傍らで、サマリヤ人の女に、
『永遠のいのちの水』について、また『真の礼拝者による礼拝』について語られるのです。
女は、イエスが自分に話しかけたことにも、
自分の器から水を飲むということにも、驚いたのでしょうね。
それは、当時は、人種差別、階級差別 等、普通には考えられないことだったでしょう。
そんな世間の常識は、イエスのお考えの範疇にはないのです。
『イエスは答えて言われた。
「 この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
女は言った。
「主よ、渇くことがないように、
また、ここに水をくみに来なくてもいいように、その水をください。」』
イエス様は、女との会話をきっかけに、『生ける水』について話し出しました。
神の賜物である『生ける水』について語り、
自分が与える「生ける水」は 『永遠の命の泉』になること、
神は霊であるから、『霊と真理』において礼拝するべきこと。 を教えます。
女も、イエスの語る『生ける水』が、
宗教的意味合いを持つ『水』であることに気づいたのでしょう。
又。
女には過去に五人の夫がいた事、今は結婚していないが六人目の男がいる事。
彼女の過去を、イエスは言い当てました。
『女は言った。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
わたしどもの先祖はこの山で礼拝をしましたが、
あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。」
女が言った。
「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
その方が来られる時、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。
「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」』
イエスは「その水をわたしに下さい」という女の願いを無視するかのように
話題を変え、
「あなたの夫を連れてきなさい」と言いました。
そして、女が知られたくないと思ったであろう過去、
五人の夫があったこと、今は結婚していないが六人目の男と一緒に生活していることを言い当ます。
ここの『イエスの御言葉』は、何を意味するのでしょう?
イエスは、イエスには隠し事ができないことを知らせ、女に真実を語るように、うながすのです。
と同時に、
女性に、自分のほんとうの姿を、自覚させたのでしょう。
神への改心、回心のためには、
自分の罪深い本当の姿を認め、悔い改めること、が先決なのです。
イエス様は、
女が、霊的渇きを覚えていること、
それが多くの男性との遍歴につながっていることを読み取り、
女にその自覚を促すことを、意図されたのでしょう。
女は、
それまで、イエスを、『先生!』と呼び、ラビ・司祭 と思っていたようですが、
”この人は預言者かもしれない!” と気づいたのでしょう。
そこで。
イエスに尋ねるのです。
「ゲリジム山で礼拝をする自分たち・サマリア人と、エルサレムで礼拝をするユダヤ人の、
どちらが正しいのか?」 と。
この質問は、彼女の『渇き』の大きさを示しますよね。
彼女の質問に感心したイエスは、
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきであり、
ゲリジム山でもエルサレムでもなく、
このような礼拝をする者たちを神は求めておられる。」と答えます。
更に。女は質問をします。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシアがこられることを知っています。
そのかたが来られたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう。」
・・・と。彼女は、『救い主到来』の希望 を語るのです。
そこで。
イエス様は、『霊的成長』 を女性に認め、
『神の秘儀』を、女性に語るのです。
「あなたと話をしているこのわたしが、それである。」
イエスは、『ご自分が救い主』であると、
自ら人に語る最初にして最後の、『御自分の身分』 を彼女に語ったのです。
この時の、女性の驚きはどんなものであったでしょう!!
その瞬間。
女性は、イエスの言われるとおりに、『イエスを信じた』のです。
主・イエスを信じた後の、彼女の変身ぶりは、偉大なものです。
彼女は、男たちとの関係で苦しんでいた、『心の重荷』は取っ払われました。
彼女は、『自分の罪』が赦されたのを感じ、開放感を味わいました。
彼女は、12時の、一番暑く誰もいない時間帯に、人目をはばかるように水汲みに来ていました。
これからは、
人目をはばかることもなく、正々堂々と、恐れのない、『自由人』になったのです。
更には、
彼女は、その身を隠すようにしていたサマリア人の人々の前に、走り出したのです
心配を全く彼女の中から消え去っってくれた、イエスとの『重大な出会い』を、
自分ひとりの心のうちにとどめることは できなくなったのです。
結果。
『女は、水がめを置いたまま町に行き、人々に言った。
「見に来てください。私が行ったことをすべてを言い当てた人がいます。
この人がメシアかもしれません。」
人々は町を出て、イエスのもとへがやって来た。』
以上。今日の通読範囲の『ヨハネ福音書 4章1~30節』でした。
その後の続きは・・・
『さて、その町の多くのサマリア人は、
「この方が、私の行った事すべてを言い当てました」と証言した女の言葉によって、
イエスを信じた。
そこで、
このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、
自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。
イエスは二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。』
ヨハネ福音書 4章39-42節
こうして、イエス様とサマリアの女の会話がきっかけとなって、
サマリアの女性は、『生ける水:いのちの水』 を発見したのです。
『福音』が、ユダヤ人世界から異邦人の世界へと広がる、こととなったのです。
以上。
一人の女性の探求心と回心が、世界に『福音』が広がるきっかけとなったのでした。
一人の女性の信仰が、世界に『福音』を広めるのです。
”さもありたいと!” と話し合った、今日の女性仲間でした。感謝!感謝!
長々とおつきあい下さり、感謝申し上げます。
サマリアの女性が、イエスに出会って、感動して、町の人に知らせずにはいられず、走り出したように・・・
私も、イエスとサマリアの女性に出会って、感動し、書かずにはいられませんでした。
お粗末様でした
そして。
今日は7月1日。年間第十三月曜日。
イエスの心を動かした、純真なサマリアの女性。
神の裁きの心を変えるのは、信仰深いアブラハムです。
『今日の第一朗読 アブラハムの嘆願』
『 その人たちはソドムを見下ろす所まで来た。
アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。
主は言われた。
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。」
『ソドムとゴモラ』 ニュルンベルク年代記
破壊される街から脱出するロトと妻子だが、
神の言いつけを破って後ろを振り向いた妻が塩の柱になり始めている。
「わたしは降って行き、
彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、
その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者と一緒に殺し、
正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。
全くありえないことです。
全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。
「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、
その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。
「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。
それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
主は言われた。
「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。
「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。
もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。
「あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
アブラハムは言った。
「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。
もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。
「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。
アブラハムも自分の住まいに帰った。』
創世記 18章16-33節
アブラハムの『執り成しの祈り』 が長々と祈られました。
神は、アブラハムの忍耐強い祈り を聞かれました。
アダムが、不従順によって、人類全体に災いを引き入れました。
一方。
アブラハムは、その信仰によって、人類に『祝福』をもたらしました。
もし、
少数でも正しい人がいれば、神は他の多数の人への罰を思いとどまり、救われるのです。
私たち・キリスト者は、
神を信じ、神の約束された国を目指して、一直線、『人生の旅路』を歩んでまいりましょう。
『今日の答唱詩編』
『神はわたしの罪をゆるし、 痛みをいやされる。
神は恵み豊かに、あわれみ深く、 怒るに遅く、いつくしみ深い。
父がその子を憐れむように、 神は神を畏れる人を憐れんでくださる。』
詩編 103章3&13節
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
いよいよ7月。2019年後半に入りました。毎日穏やかにお過ごしください。 お元気で!