まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

大人子供?子供大人?

2012年07月29日 13時13分40秒 | 日々雑感
「子供の社会は大人社会の縮図」とか「子供は大人を映す鏡」などと言う人がいる。

おおむね、子供社会でよくないことが起きた時に使われるもっともらしい言葉だ。

こういう言葉の根幹にあるのが

「子供は純粋無垢なのに、大人によって歪んでいく」という考え方だ。

そうだろうか。

純粋とか無垢とかいう素敵な言葉も、裏を返せば「無知」である。

いや、無知な人が必ずしも純粋で無垢ということはないのだけど。

しかし無知であるがゆえに「純粋に悪いことをする」ということもあるのじゃないだろうか。

気遣いとか優しさとか思いやりとか相手を労わるとか自己犠牲なんてものは

生まれついて備わっているようなものではなく

成長するにつれ人と関わるにつけ、知識と経験によって身に付くものであり

自覚のない善というものはなく、善というのは、ほぼ偽善じゃないかとさえわたしは思うのだ。

なので「偽善」が悪いと思わない。

「純粋な善」「無自覚の善」などというもののほうが珍しいと思っているから。

「自己中心」こそ純粋な本能だろう。

性悪説を強く唱えるつもりはないが、性善説には首をかしげる。

子供は本来わがままで身勝手だ。

弱い生き物なので、保身の為に上手に嘘もつく。

可愛がってもらうために相手の機嫌も取る。

自分を怒る人、怒らない人を見抜く。

怒らない人を見くびる。

こういう大人、周りにいるでしょう。

つまり「子供社会は大人社会の縮図」ではなく

「大人社会が子供社会のなれの果て」なのじゃないだろうか。

成長の過程で、悪に立ち向かう正義も弱い者を助ける優しさも身に付かず

自己中心で保身のための立ち回りがうまい子供のまま成長してしまう。

それが社会のせいだとか大人のせいだとかいうよりも

人間なんて、もともとそういう生き物なんじゃないのか。

わたしは子供の頃、早く大人になりたかった。

大人になれば幼稚でむき出しの悪意をぶつけてくる子供と関わらなくて済むから。

大人になれば、心の中でなんと思っていようと、表面上は取り繕った付き合いができるから。

しかし大人になっても子供の悪意を引きずった人がいる。

いい年して大人なのに仲間外れにされるのが怖くて、嫌々友達と付き合ってるなんて人。

携帯の普及に一因があると思うのだ。

昔だったら付き合いたくない人からの電話は出ないとか、留守電にしちゃうとかできたけど

今は着信が残る上にメールもあるから

「どうして返事くれないの」と責められてしまう。

自分が返事をもらえなければ「嫌われたかな」と心配する。

携帯のない昔だったら「忙しいのかな」と自分をごまかすこともできたが

メールなんて1分もあれば打てるから、自分は相手にとってそんな価値さえないのかと思ってしまう。

絆だのつながりなんてものは、一生のうちにそう多くの人と持てるはずがないのだ。

死ぬまでに一人でも心からの友と言える人ができれば幸せと思うが

今は多くの人とつながってないと寂しいらしい。

単純につながることはできるだろうが、それが自分をがんじがらめにしていることもあるんじゃないだろうか。

携帯を捨て街に出よと言ったところで、街に出れば老若男女が俯いて一心不乱に画面に見入っている。

大人が幼稚になったのではない。

幼稚なまま大人になる人間が増えたのだ。

とはいえ。

自分が大人だと胸を張って言える自信はない。

自己愛が激しく他人に関心がなく、困難からは逃げ出したく・・・

うーん、わたしもダメ大人。
コメント
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