まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

希望はきっとある

2024年05月09日 22時26分04秒 | 日々雑感
先日、元気だった知人(80代後半)が突然、具合が悪くなったことに衝撃を受け

地域包括センターに電話をかけてみた。

対応は親切だった。

だが、いざというときに備えたいという気持ちは満たされなかった。

それはそうだ。

介護や見守りが必要な老人は増える一方である。

多分、対症療法のような対応をするしかないのだ。

つまり、具体的に何がどう困っているかということに対して

本人の意向、家族の意向、経済的なこと・・・と対処していくのだ。

まずは介護認定を受け、ケアマネを決め、何に困っていてどうしたいのか・・・

そういう状態ではないのに、もしも両親が介護が必要な状態になったとして

わたしが介護をしていたとして、もしも骨折してしまったらどうしたらいいのだ?

なんて、起きてもいないことを心配して相談してもなんの安心材料も得られないのだ。

そのときそのときの瞬発力で決めていくしかないのだ。

ヘルパーさんを頼むのか。

短期入所に預けるのか。

誰か知人に頼るのか。

起こってもいないことを心配してもどうにもならないということを知れただけ良かったかも。

両親はまだいい。

わたしも、わたしのきょうだいもいる。

どうにかなる。

今の状態で、子供全員に先立たれるという可能性は極めて低い。

だが、わたしの老後には頼る子供はいない。

だから結婚すれば良かったのに、とか言われたくない。

そのことにはなんの後悔もないから。

わたしは今から素敵な老人ホームを探すのだ、と冗談めかした口調で同僚に話すと

「XXさんに何かあったら、わたしが駆けつけますよ」

泣かせるではないか。

「買い出しとかだって行きますよ」

あ、買い出しはアマゾンに頼むよ。

と言い返して茶化してしまったけど嬉しかった。

実際に頼れるかというと、どうだろうかとは思う。

同僚が嘘をついてるとか調子のいいことを言ってるとかいうことではない。

実際には他人を頼れないもんである。

でも、心配して駆けつけてくれる(かも知れない)人がいる、と思うことは希望なのだ。

そういうことを言ってくれた人がいるということが、これからずっとわたしの希望になるだろう。

希望で腹が膨れるかとか希望で腰の痛みが取れるかとか言いたい人は言いたまえ。

希望こそが人の生きる原動力なんだと、絶望したことのある人なら知っているはずだから。
コメント
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