新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月7日 その2 時代は急速に進歩し変化する

2016-12-07 13:35:28 | コラム
アメリカで起きた現象は:

本日、カリフォルニア州に40年近くも住んでいるSM氏が興味ある現象を以下のように知らせて貰えたので紹介しよう。

>引用開始
最近あるNational chain のレストランへ行って驚いたことは、注文、支払いをテーブルの上にあるスクリーンで行い、いわゆるウエイトレスはいることはいますが、料理のテーブルへのデリバリーはアルバイト的な高校生のようなものが専門的に行っています.結局、スーパーのチェッカーと同じようにウエートレス(ウエーター)職も消える過程にあるようです.今後全米各州で最低賃金が$15以上に上がる動きに備えてのIT化の流れでしょう.
<引用終わる

如何にもアメリカ人がやりそうなことだと思った次第。彼らの人件費節減に向けての強烈なコスト意識とはこういうものだと、あらためて思い知らされた。

それで思い出したことがある。2000年に6年振りで、しかも生まれて初めてアメリカにビジネス以外(”sight seeing”ではなく”pleasure”と言うようだ)で訪れた時のことだった。先ずサンフランシスコから入って、Weycoのコーポレート・レートを適用して貰ったハイヤットリージェンシー・ホテルにチェックインした。ふと、リセプションのカウンターの片隅に”Video check-out”と言う看板を発見して何事かと一瞬思ったが、直ぐに忘れて部屋に入った。

そしてテレビをつけて直ぐに判明したことは、そのテレビのリモコンを使ってチェックアウトが可能であり、そのままホテルを後にしても良いシステムが導入されていたのだった。更に、出張者で領収証と明細が必要な場合には、上記のカウンターに行って請求すれば貰えるように準備されているのだった。それならば朝のチェックアウト客でフロントデスクが繁忙を極めている時に、さっさと出て行けるような便利なシステムなのである。

これがアメリカ人が考える能率化であり、そこに私の持論である「アメリカで導入される新規開発の生産方式やを合理化のシステムや新規開発の製品などは、何れは我が国に導入される」を当てはめると、遠からぬ将来我が国のホテルにもと一瞬考えたが、それ以降何度か訪れる機会があったアメリカの各地のホテルでは、一向に見かけなかったし、我が国でもそういう類いの合理化も導入されていないようだった。

寧ろ、回転寿司チェーンなどにはICチップが埋め込まれた皿が導入され、瞬時に計算書が現れてくる端末を持った店員さんがいるかと思えば、某専門商社の社員食堂にも、食器類にICチップが入ってい会計方式になっていたのだった。このように、世の中は何らかの機会を捉えては人手を省く方向に進んでいるし、AIなどの研究開発も進歩発展の一途である。このようなICT化の勢いは最早何人も阻止出来ない次元に入っているのだろう。私がリタイヤーする際に多くの若手に言われた「良い時に辞められますねー。一方残された我々は・・・・」を思い出す、今日この頃である。


ICT化が広範囲に普及した時代に思う

2016-12-07 08:08:03 | コラム
ICT化は印刷媒体の衰退をもたらしただけか:

昨6日に商社マンと語り合った際に出てきた話題の一つだったが、ここに敢えてこれだけを採り上げてみたい。それは昨日別途採り上げたICT化と印刷用紙の需要衰退の関連でも論じたが、先進工業国ではアメリカを筆頭に新聞用紙の需要が激減している一方で、新興国乃至は所謂LDC(ってPCに触れるかな?)の中には新聞は未だに普及しきっていないところもあるのだ。数年前にはタイの製紙業界が「世界中で新聞が消えた頃になっても、インドと中国では未だ全国に普及し終わっていないのではないか」と皮肉ったことさえあった。

しかし、ここ百人町/大久保界隈で見られる現象だが、この街を占拠するアジアとイスラム教圏からの移住者(?)のほとんどがスマホで四六時中語り合っているのだ。大久保通りを歩けば至る所に中国語のフリーペーパーが乱雑に置かれているし、最近は余り見かけなくなった韓国のフリーペーパーもある。だが、あれだけイスラム教徒が増えても、アラビア語やマレーシア語のフリーパーを未だ見た記憶がない。何故だろう。

この辺りを昨日商社マンと論じ合ったのだが「新聞等印刷媒体の普及が遅れているアジアの一部のイスラム教圏内の国では、先ず新聞の読者が増えていく時期があるだろう。だが、その後にICT化が急速に進み、この界隈に見られるようにスマートフォンが情報に接する手法として、同時進行の形で普及していき、印刷媒体に依存する時期を飛び越えてインターネット依存に進んで行ってしまうのではないか」ということだった。

現に、イスラム横丁の表通りから外れた片隅にイスラム教国の人たちを相手にして、ビルの壁に誰の許可を得たのかガラスケースを貼り付けてスマートフォンとその付属品を街頭販売して賑わっているイスラム教国人の露店(なのだろう)がある。尋ねてみる勇気もないが、「あの異邦人から機械を買うと番号もついてくるのだろうか、それとも本国で取得してきた番号をあの四角な箱に入れ込めるのだろうか」などと考えさせられる。あの商売は合法なのだろうか?

私はこの街で彼らがガラケーを持っているのを見たことがない。イスラム教国の人たちが新聞のような紙を持っているのも見たことがない。もしかすると彼らは既に印刷媒体に依存する時期を飛び越えて、異国で情報に接する手段としてスマートフォンという媒体に依存する段階に知らずして入っていったのではないのかとさえ思わせてくれる。この事態を製紙業界OBとして考えれば、新聞用紙と印刷用紙の需要の将来性にとっては、決して明るいものではないとなってしまうのだ。それどころではない、世界は今後益々印刷媒体を古物化してしまう時代になっていくのではないのかとすら危惧させてくれる。

それはスマートフォンの普及が、新たな時代をもたらす非常に有効な機器である事を立証するものではあるだろう。だが、私が既に批判してきたように恐らく一時的には家庭の可処分所得を奪い去っていく危険な機器であるとも言えるだろう。だが、アマゾンが販売を開始する押すだけで必要な商品が配達される端末の説明を聞くと、その初期設定はスマートフォンで行うとあった。その他の多くの新時代の器機の操作もスマートフォンであるし、自動改札機にも使えるようだ。何処までそれほどに紙を敵対視して不要にすれば気が済むのかと言いたい気分にもなってしまう。

だが、それが時代の変化であり世の中の進歩だと受け入れるだけの度量は持っているつもりだ。だがしかし、私のように時代遅れの高齢者はスマートフォンに依存しなくても2020オリンピックくらいまでは生き長らえられると思っている。今週末には藤沢まで中学(旧制だ)のクラス会に出かける。考えてみればもう何年もJRでも私鉄でもバスでも何でも紙の切符を買ったことがない。鉄道に乗っても、その昔は逃げ回っていた(何の為に?)「検札」も来なくなった。パスモだのスイカで乗られては検札のしようもないのだろう。長生きをして良かったのかと、時々考えることがある。