新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月22日 その2 サッカー協会を賞賛する

2016-12-22 19:10:45 | コラム
善くぞやって下さいました:

つい2~3日前にサッカー協会が今年活躍した選手たちを表彰し「Jリーグアウオーズ」を授与したと報じられた。その「アウオーズ」という表記が良かったので採り上げようかと思ったが、確か昨年の12月22日に褒めたおいた記憶があったので放置した。すると、矢張りそうだったとGooのブログが教えて下さったので、それをここに引用してみよう。

>引用開始
サッカー協会の快挙だ:

Jリーグ・アウオーズの発表:


昨21日に都内でサッカー協会が表彰式を開催したと報じられている。この表彰を「アウオーズ」としたことはカタカナ語排斥論者の私から言えば「サッカー協会の快挙」である。何が快挙だと言って、世の中の誤った言葉遣いをチャンと正していたのだから。

何故快挙というかと言えば、英語の“award”はこれまで繰り返してマスコミが、いや多くのテレビ局も新聞も「アワード」と全く元の英語の発音や、辞書に明記された発音記号と異なる表記をしてきたのであるから。私は誠に罪深いこととこれを繰り返して批判し、何とか通信社の「外来語ハンドブック」にでもそう表記せよと指示されているのかと皮肉を言ってきた。また、マスコミの担当者は手元に英和辞典すらないのかとも指摘した。

私は“award”をあのようにカタカナ化するのは我が国の学校教育の科学としての英語」が如何に正しいことを教えていないのか、ローマ字読みの悪影響なのか、さらに教えていたとしても効果が上がっていないのか、または教えている人の発音が不正確なのか何れかとも言ってきた。そこに、この度のサッカー協会の(だと思うが)この「アウオーズ」という表記に接して「流石、我らのサッカー協会」と朝から気分が良いのである。

念のため申し上げておけば、私は何度も「カタカナ語を使うのは各人の勝手であり、それを阻止する意図など毛頭ない。カタカナ語は最早我が国の文化の一部となって定着してしまっているのだから。だが、カタカナ語は元の英語と比べれば、言葉の誤用や和製語であるとか誤った発音の表記があって全く別物であると承知でお使いになれば」とも言ってきた。だが、誤った発音の表記をするのは良いことではあるまい。

因みに、Oxfordには“award”は“(often in names of particular awards) a prize such as money, etc, for ~ that 誰か has done”とあり、―see Academy Awardと単数で出ていた。何れにせよ、英語では「アワード」とは言わないことを確認して終わりたい。

<引用終わる




アメリカの会社、日本の会社

2016-12-22 15:17:06 | コラム
日米の会社を比較すれば:

昨日「外国人の時間の観念」を採り上げた中で秘書さんの件で権利意識という表現を使ってしまった。これだけではやや舌足らずだったので、これを機会にあらためて日米の会社と会社員の違いを論じてみたい。

あの場合は秘書さんの権利意識というよりは、彼らがごく自然に時間は自分のものと思っている観念を極端な形で表現したと思った方が良いかも知れない。一般論としては、スピード・トラックに関係ないか身分の垂直上昇があり得ない事務員等の一般社員は「給与に見合う分だけ(見合う時間だけ)仕事をすればそれで十分」と心得ているから、当たり前のように(平気で?)定時出勤・退社するし、自己都合で早退することもあると思っていて良いだろう。

この辺りは、我が国の「皆でやろう」という精神の表れと言われた経営者もおられたが、課単位や部単位で動く我が国の組織で動くのとは異なって、事業本部長の下に横一線で多くの部員たちがそれぞれの、他の誰とも重複しない仕事、即ち“job”を割り当てられ、それをやり遂げる為だけに懸命に働いているアメリカの会社員のものの考え方は、我が国の者とは大いに違うのだ。時間をその為に如何に使うかは彼らの権利なのかも知れない。

私が1972年にアメリカの会社に転進し、初めてカナダはBC州の奧地(北部)にあるパルプ工場を訪問した際のことだった。前日にヴァンクーヴァーからその街のホテルまで案内してくれた事務部長が「明朝7時に迎えに来る」と言われて仰天した。工場に到着してみれば工場長以下幹部は全員が出勤していて、そこから挨拶かねて早朝の会議となった。9時も近くなって窓から何気なく外を眺めると、事務系統の者たちが続々と出勤してきた。「なるほど、そういうものだった」と、先ず勉強させられた。

その点は、その前に初めて出社したオハイオ州のM社の本社でも同様で、予め「朝は8時前に行け」と東京の総支配人の指示があったので、7時半頃に恐る恐る入っていった。確かに、そこにはマナージャー以上の人たちのオフィス(個室である)は全て偉そうな人たちが忙しく仕事をしておられたのだった。それ以外の席はガランとしていた。

1900年代に我が国の人がアメリカの大手企業の事務所を訪問して、「あちらでは5時になると一斉に帰って行く。権利意識の表れだ」と感心していたものだったがこれは誤解であり誤認識だ。彼らは給与に見合う時間だけ働き、定時に引き揚げるのは当然と思っているだけのこと。我が国のように会社に対する忠誠心がある訳ではない。我が国との大きな違いは「彼らは会社とは自分たちの生活の糧を稼ぐ為の機関」としか見なしていないと思う。

故に、その場を与えてくれたことに対する謝礼としてキチンと仕事をするが、それ以上のことをする義務はないと思っているのだと疑っている。しかし、上昇志向がある者たちは年俸が増えれば仕事量も責任負担も増加するので、規定の時間だけしか働かないのでは「職乃至は雇用の安全」(=“job security”)の危機が訪れるのだ。これは社員が「定時で帰ってしまう層」と「やるべきことをやり遂げる為には早朝出勤、深夜に帰宅の層」に分かれていることを示しているのだ。

アメリカの一般社員が「会社とは自分たちの生活の糧を稼ぐ為云々」と心得ていればこそ、会社側もそれに対応するかのように日本の会社のように(今ではそういう風習が廃れた感があるが)社員旅行や、保養所のような更生施設や、テニスコートや野球場といったリクリエーションの設備などは設けてはいない。社宅などは聞いたこともなかった。対象的に北欧の多国籍企業がアメリカの工場を買収して先ず手をつけたことは、カフェテリアとシャワールームを設置したことだった。

以上が日米相互の企業社会における文化、そのまた中の時間に対する違いを採り上げたもので、これだけでは到底語り尽くせない違いは未だ未だあると思っているので、何れまた機会を捉えて回顧してみようと思っている。