新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月20日 その2 外国人の時間の観念を加筆訂正します

2016-12-20 10:39:46 | コラム
プーチン大統領の遅刻に思う:

外国人と言っても良いかも知れない。経験上も欧米人の時間に対する感覚を論じてみたい。先ず結論から言ってしまえば彼らは時間を自分の自由にして良いので、時間の方で合わせてくるものと考えているようであり、我が国の文化では懸命に真摯に自らを時間に合わせていくものだという違いがあると定義していた。

それ故に欧米人は時間を自分の思う通りというか計画通りに使うのは当然で、それの何処が悪いとでも考えていると思わせられてきた。私は日本人の一般的な感覚で「欧米人は時間に対して厳格である」と思い込み、我々と同様に約束等の時刻を厳密に守るものと思い込んでいるのではなかったとも考えている。事実、英語にはそれに対応する漢字の熟語がない“punctual”などという単語があるほどだ。

私もそうかと考えていたが、アメリカ人の中で長い間過ごしてみると、どうもそうではないのだと考えるようになった。即ち、何事につけても個人が単位であり、自分が中心であると思い込んでいる人たちの集団であるから、その各人がそれぞれの計画と予定に基づいて動くのは当然と考えているのだ。その当日乃至は前日の計画の都合と言うか進行状況次第で、時間が押していくのは止むを得ないと考えて動いているのだと見ている。私は会見の約束の先方もそういう考え方で動いているのだから、約束の時間に合わないのは仕方がないことのようで、お互いに非難も批判もしないのものだと思うようになった。

一方の異なる文化圏から参入した私は、学生の頃から藤沢駅を午前7時2分発の東海道線(昭和26年には湘南電車とは称していなかったと記憶するが)に何が何でも乗らないことには、遙か先の中央線四谷駅の近所にある大学の8時30分の始業に間に合わず、遅刻すると大変のことになる制度があったのだ。故に朝は間違いなく早起きして小田急の鵠沼海岸に到着していなければならなかった。それが習い性となって「時間は守るもの」と体に染み付いてしまっていた。

それ即ち“punctual”の塊のようなものなのであるが、その時間の観念を持ってアメリカ人の中に入っていったのであるから、そういう意味では大いに評価されたようだった。ある時、副社長と本部の営業部長と帝国ホテルで7時半の朝食会の約束をした。私は当然のようにその10分前にはレストランの前の椅子に座って待っていた。ところが何時まで経っても彼らが現れなかったのだ。

10分ほども過ぎた頃だっただろうか、中から営業部長が出てきて「済まない。中で待っていた。だが君が現れないので、副社長があいつが時間を間違えるはずがない。外を見てこい」となったのだと言う。何としたことか、アメリカ時間の彼らは私の到着よりも前に来て中に入ってしまったのだった。自分たちの都合だけのことだ。

他には常に約束の時間に現れない北欧の大多国籍企業の日本法人の切れ者社長(後に昇進して本社のCEOにまで上り詰めた)の例を。プーチン大統領と似たところがある寒い地方の出身者だ。日本市場で大成長を遂げた会社だったので社長が多忙だということは想像がつく。だが、兎に角20~30分は当たり前のように遅れて現れるのだが、先ず謝ることがなかった。その時は御殿場からやってくる工場長が先に現れ、時計を見て言うには“I’m sorry, I am by three minutes earlier than the appointed time.”と言ってこちら側のアメリカ人を爆笑させ、“No problem. You are forgiven.”と反応させたのだった。

もう一つ、採り上げてみたい時間の観念の例はUKの人。これは当方が未だアメリカの会社に転進する前の経験。初めて来日したUKの大手製紙会社の営業部長の面倒を初めて見させて頂かざるを得なくなった時のことだった。言うまでもなく、欧米人の文化などは全く知らなかった。当日の見込み先訪問が5時前に終了したので、その後の夕食会でレストランの予約を午後6時にしたと告げた途端に烈火の如く怒りだした。

「何ということをする。何としても見込み客の了解を取り、レストランにも7時に変更と言え。それでは私の“wash and change”の時間が取れないではないか」と言われた。意味が良く解らなかったが、それは「先ずはシャワーを浴びて汗を流し、昼間の服装ではなく夜の部に相応しいものに着替えて出ていくのだ」と後になって知った。彼は5時以降は自分の時間である以上、私の立てた予定には従わないと言いたかったようだった。この“wash and change”は“wash and shave”とも言うようで、彼らの時間の使い方と礼儀作法を学ばせられたのだった。

それにしても、プーチン大統領の遅れ方は私の知り得た範囲の欧米人の時間の観念の枠を遙かに超えている。有識者や専門家はそれが彼独特の駆け引きであり、相手に圧力をかける作戦のように言われている。それも尤もだと思うが、私には想像が及ばない時間の観念であり使い方のように思える。更に言えば、あれほど頻繁に常習犯的に遅刻を繰り返せば、相手も出方を知ってしまうので最早それほどの効果を発揮しないのではないのかな。

ロシアから我が国への専用機の到着が遅れたのは、あれほど権限が集中している大統領であるからには、それまでの立て込んだ予定の結果で離陸が遅れたのかという善意の解釈すらも成り立つかも知れない。だが、山口からの出発まで遅くなったのはただ単に時間の観念が緩いだけで釈明の余地はないのかなと思ってしまう。

思うに、あらゆる乗り物が定刻というか予定通りに運行され、学校でも会社でも厳密に「遅刻」という制度が運用されている国で育ってきた我々と、遅れのは当たり前という交通機関しかない国との習慣の違いが現れているだけではないのかな。私は何年前だったかワシントン州南端のLongviewという街の駅で“Amtrak”(=全国鉄道旅客公社)の列車が3時間遅れと告げられて同僚とコーヒーを飲んで時間を潰し、余裕を持って再び駅に行くと、それこそ1分違いで列車が出て行ってしまった。

駅員に「何で早く出てしまったのか」と詰問すると、「遅れるのもそれを取り戻すのも乗務員の性格次第で、こちらでは管理出来ないのだ」と答えられた。「アメリカでは列車の運行まで乗務員の時間の観念次第」と知った次第。因みに、その列車が当日のシアトル行きの最終だった。私はシアトルで夕食の約束があったので、責任を感じた同僚が車を出して2時間ひた走ってくれたので間に合った。約束の相手は列車から私が降りてこないのを奇異には感じたが、約束を違えるはずがないとそのまま駅で待っていてくれたのだった、私が車の運転が出来ないのは承知いていたにも拘わらず。


外国人の時間の観念に思う

2016-12-20 09:11:51 | コラム
プーチン大統領の遅刻に思う:

外国人とは言ったが、経験上も欧米人の時間に対する感覚を論じてみたい。彼らは時間を自分のものと考えているようで、それを自分の思う通りというか計画通りに使うのは当然で何が悪いとでも考えていると思わせられてきた。私は日本人の一般的な感覚で「欧米人は時間に対して厳格である」と思い込み、約束等の時刻を厳密に守るものと思い込んでいるのではなかったとも考えている。事実、英語にはそれに対応する漢字の熟語がない“punctual”などという単語があるほどだ。

私もそうかと考えていたが、アメリカ人の中で長い間過ごしてみると、どうもそうではないのだと考えるようになった。即ち、何事につけても個人が単位であり、自分が中心であると思い込んでいる人たちの集団であるから、その各人がそれぞれの計画と予定に基づいて動くのは当然と考えているのだ。その当日乃至は前日の計画の都合と言うか進行状況次第で、時間が押していくのは止むを得ないと考えて動いているのだと見ている。私は会見の約束の先方もそういう考え方で動いているのだから、約束の時間に合わないのは仕方がないことのようで、お互いに非難も批判もしないのものだと思うようになった。

一方の異なる文化圏から参入した私は、学生の頃から藤沢駅を午前7時2分発の東海道線(昭和26年には湘南電車とは称していなかったと記憶するが)に何が何でも乗らないことには、遙か先の中央線四谷駅の近所にある大学の8時30分の始業に間に合わず、遅刻すると大変のことになる制度があったのだ。故に朝は間違いなく早起きして小田急の鵠沼海岸に到着していなければならなかった。それが習い性となって「時間は守るもの」と体に染み付いてしまっていた。

それ即ち“punctual”の塊のようなものなのであるが、その時間の観念を持ってアメリカ人の中に入っていったのであるから、そういう意味では大いに評価されたようだった。ある時、副社長と本部の営業部長と帝国ホテルで7時半の朝食会の約束をした。私は当然のようにその10分前にはレストランの前の椅子に座って待っていた。ところが何時まで経っても彼らが現れなかったのだ。

10分ほども過ぎた頃だっただろうか、中から営業部長が出てきて「済まない。中で待っていた。だが君が現れないので、副社長があいつが時間を間違えるはずがない。外を見てこい」となったのだと言う。何としたことか、アメリカ時間の彼らは私の到着よりも前に来て中に入ってしまったのだった。自分たちの都合だけのことだ。

他には常に約束の時間に現れない北欧の大多国籍企業の日本法人の切れ者社長(後に昇進して本社のCEOにまで上り詰めた)の例を。プーチン大統領と似たところがある寒い地方の出身者だ。日本市場で大成長を遂げた会社だったので社長が多忙だということは想像がつく。だが、兎に角20~30分は当たり前のように遅れて現れるのだが、先ず謝ることがなかった。その時は御殿場からやってくる工場長が先に現れ、時計を見て言うには“I’m sorry, I am by three minutes earlier than the appointed time.”と言ってこちら側のアメリカ人を爆笑させ、“No problem. You are forgiven.”と反応させたのだった。

もう一つ、採り上げてみたい時間の観念の例はUKの人。これは当方が未だアメリカの会社に転進する前の経験。初めて来日したUKの大手製紙会社の営業部長の面倒を初めて見させて頂かざるを得なくなった時のことだった。言うまでもなく、欧米人の文化などは全く知らなかった。当日の見込み先訪問が5時前に終了したので、その後の夕食会でレストランの予約を午後6時にしたと告げた途端に烈火の如く怒りだした。

「何ということをする。何としても見込み客の了解を取り、レストランにも7時に変更と言え。それでは私の“wash and change”の時間が取れないではないか」と言われた。意味が良く解らなかったが、それは「先ずはシャワーを浴びて汗を流し、昼間の服装ではなく夜の部に相応しいものに着替えて出ていくのだ」と後になって知った。彼は5時以降は自分の時間である以上、私の立てた予定には従わないと言いたかったようだった。この“wash and change”は“wash and shave”とも言うようで、彼らの時間の使い方と礼儀作法を学ばせられたのだった。

それにしても、プーチン大統領の遅れ方は私の知り得た範囲の欧米人の時間の観念の枠を遙かに超えている。有識者や専門家はそれが彼独特の駆け引きであり、相手に圧力をかける作戦のように言われている。それも尤もだと思うが、私には想像が及ばない時間の観念であり使い方のように思える。ロシアから我が国への専用機の到着が遅れたのは、あれほど権限が集中している大統領であるからには、それまでの立て込んだ予定の結果で離陸が遅れたのかとの解釈も成り立つかも知れないが、山口からの出発まで遅くなったのはただ単に時間の観念が緩いだけかなと思ってしまう。

思うに、あらゆる乗り物が定刻というか予定通りに運行され、学校でも会社でも厳密に「遅刻」という制度が運用されている国で育ってきた我々と、遅れのは当たり前という交通機関しかない国との習慣の違いが現れているだけではないのかな。私は何年前だったかワシントン州南端のLongviewという街の駅で“Amtrak”(=全国鉄道旅客公社)の列車が3時間遅れと告げられて同僚とコーヒーを飲んで時間を潰し、余裕を持って再び駅に行くと、それこそ1分違いで列車が出て行ってしまった。

駅員に「何で早く出てしまったのか」と詰問すると、「遅れるのもそれを取り戻すのも乗務員の性格次第で、こちらでは管理出来ないのだ」と答えられた。「アメリカでは列車の運行まで乗務員の時間の観念次第」と知った次第。因みに、その列車が当日のシアトル行きの最終だった。私はシアトルで夕食の約束があったので、責任を感じた同僚が車を出して2時間ひた走ってくれたので間に合った。約束の相手は列車から私が降りてこないのを奇異には感じたが、約束を違えるはずがないとそのまま駅で待っていてくれたのだった、私が車の運転が出来ないのは承知いていたにも拘わらず。