運転免許を取ろうともしなかった私が語れば:
私は自動車の運転の仕方すら知らない。それは私が4歳の昭和12年12月に父親を自動車事故の被害に遭って失った為に、母親から「あなたたちのお父様を失っただけでも大変なことだったから、将来他所様に危害を加えるかも知れない自動車の運転をしないこと」ときつく尚且つ繰り返し言われたので、覚えようとすることすら試みなかったのである。そのことがどれほど不便かまたは良かったことなのかは未だに解らない。しかも、運転出来ないままにアメリカの会社に転進し、1年の3分の1以上の間をアメリカ出張で過ごしてきたのだった。
だが、2歳下の弟は29歳の時に神奈川県内でアメリカ兵の酒酔い運転で中央線突破で免許証不携行の運転に遭って正面衝突された車の助手席に乗っていた為に重症を負い、会社復帰までまる2年を要した。私は1985年の10月にシアトル郊外で横から当たられて頸椎損傷と肋骨骨折の重症で復帰に半年かかってしまった。勿論、運転などしていなかかった。これ即ち、車の運転をしないことは何ら身の安全を保証するものではないという悪い例だろうと思っている。
運転が出来ないことが非常に不自由なことだと知ったのは、1980年代に得意先の言わば僻地に近い地方の工場を訪問される大阪営業所の所長さんに案内されて、彼の運転で訪問した時のことだった。直ぐ隣の兵庫県内の工場に行くのに何故鉄道を使わないのかと不思議に思っていた。ところが実際に走ってみれば、最寄りのJRの駅からは何の交通手段もなく、歩くか朝と夕方の送迎バス以外にそこまで行くことは不可能だと思い知らされたのだった。都会しか知らなかった私は言うなれば「目から鱗が落ちる」思いだった。
聞けば、「過疎化も手伝ってバス路線も廃止されては社員たちは自分で車を運転するしかなく、会社側もそれに備えて十分な駐車場を設置出来るだけの土地を手当てせねばならず、その分が生産コストに跳ね返っていると言える」とのことだった。確かに通る道すがら見えた多くの農家と覚しき家々には複数の車が止まっており、その多くは所謂軽自動車の類いたとも教えられた。即ち、営業所にはある程度以上の台数の車を用意しないことには、得意先の巡回もままならないとも聞かされた。自分が如何に地方の事情に無知だったかと思い知らされた。車が必需品なのだと勉強させられた。
そういう生活環境にあり、しかも近年はJRなどが不採算路線を益々廃していきバス路線も消えていく傾向が顕著になれば、高齢者であろうとなかろうと軽自動車を主体とした自動車が必要なのは明らかだと解ってきた。しかも、インフラの整備などが普及し高速道網が発達してくれば、高齢者が逆走などという事故を地方で起こす傾向も目立ってきたし、都会でも何故か高齢者が登校中の小学生の列に突っ込んでしまう事故が度々発生してしまった。
私自身も立派な高齢者として反射神経や運動神経が退化したというか劣化したことを自覚しているし、鉄道の駅の階段などは危なくて手すりに掴まらずに上下することを極力避けている状態だ。この動作などは人力でありながら、危険を感じることが何度でもあった。それが、こと自動車の運転ともなれば相手は機械であり、操作の誤りが高齢化すればするほど起こりがちだろうと解る。如何ともしたい現象だろうと思う。
東京都内では2万円某かを負担すれば「シルバーパス」を入手出来るので、張り巡らされたバスと都営地下鉄網を利用すれば23区内ならば、時間をかけることを厭わなければ、何処にでも行けるだろうし、自動車も自転車も不要だ。現に、我が家の前から乗れる1時間に1本しかない高田馬場駅から東中野駅を走るKBバスなどには乗ってみれば、シルバーパス利用の高齢者ばかりだ。このように都内では交通インフラとでも言えば良いのか、移動には便利に出来ている。
それと比較すれば、地方では過疎化と高齢化が同時に進行した為に軽自動車などは生活必需品であろうから、高齢化したからと言って一概に「自主的運転免許返納」などと言っていられない状況だと思って眺めている。地方では過疎化の解消等の施策が講じられているようだが、東京の一極集中の傾向は止まっているとは思えないし、多くの地方都市を見た限りでもシャッター街化が目立っていた。
更に、少子化が進んだ現代では多くの大学が受験者を確保する手段の一環として東京都内に戻ってくる傾向が見えるし、都内や十大都市の大学を目指す子供たちも増えているようだ。その子供たちが一旦都会生活に馴染めば、地方に戻ろうと思わないのも仕方がないのかも知れないし、都会での就職を狙うのも当然かも知れない。私には高齢化した場合の運転がどれほど危険かを知る術もないが、この問題は地方の過疎化と東京一極集中と無縁ではないような気がしてならない。
もしかして、この問題はアベノミクスが如何に成功し、目に見える更なる効果を発揮して地方を活性化するかと、大いなる関連があるのかも知れない気がするのだが。
私は自動車の運転の仕方すら知らない。それは私が4歳の昭和12年12月に父親を自動車事故の被害に遭って失った為に、母親から「あなたたちのお父様を失っただけでも大変なことだったから、将来他所様に危害を加えるかも知れない自動車の運転をしないこと」ときつく尚且つ繰り返し言われたので、覚えようとすることすら試みなかったのである。そのことがどれほど不便かまたは良かったことなのかは未だに解らない。しかも、運転出来ないままにアメリカの会社に転進し、1年の3分の1以上の間をアメリカ出張で過ごしてきたのだった。
だが、2歳下の弟は29歳の時に神奈川県内でアメリカ兵の酒酔い運転で中央線突破で免許証不携行の運転に遭って正面衝突された車の助手席に乗っていた為に重症を負い、会社復帰までまる2年を要した。私は1985年の10月にシアトル郊外で横から当たられて頸椎損傷と肋骨骨折の重症で復帰に半年かかってしまった。勿論、運転などしていなかかった。これ即ち、車の運転をしないことは何ら身の安全を保証するものではないという悪い例だろうと思っている。
運転が出来ないことが非常に不自由なことだと知ったのは、1980年代に得意先の言わば僻地に近い地方の工場を訪問される大阪営業所の所長さんに案内されて、彼の運転で訪問した時のことだった。直ぐ隣の兵庫県内の工場に行くのに何故鉄道を使わないのかと不思議に思っていた。ところが実際に走ってみれば、最寄りのJRの駅からは何の交通手段もなく、歩くか朝と夕方の送迎バス以外にそこまで行くことは不可能だと思い知らされたのだった。都会しか知らなかった私は言うなれば「目から鱗が落ちる」思いだった。
聞けば、「過疎化も手伝ってバス路線も廃止されては社員たちは自分で車を運転するしかなく、会社側もそれに備えて十分な駐車場を設置出来るだけの土地を手当てせねばならず、その分が生産コストに跳ね返っていると言える」とのことだった。確かに通る道すがら見えた多くの農家と覚しき家々には複数の車が止まっており、その多くは所謂軽自動車の類いたとも教えられた。即ち、営業所にはある程度以上の台数の車を用意しないことには、得意先の巡回もままならないとも聞かされた。自分が如何に地方の事情に無知だったかと思い知らされた。車が必需品なのだと勉強させられた。
そういう生活環境にあり、しかも近年はJRなどが不採算路線を益々廃していきバス路線も消えていく傾向が顕著になれば、高齢者であろうとなかろうと軽自動車を主体とした自動車が必要なのは明らかだと解ってきた。しかも、インフラの整備などが普及し高速道網が発達してくれば、高齢者が逆走などという事故を地方で起こす傾向も目立ってきたし、都会でも何故か高齢者が登校中の小学生の列に突っ込んでしまう事故が度々発生してしまった。
私自身も立派な高齢者として反射神経や運動神経が退化したというか劣化したことを自覚しているし、鉄道の駅の階段などは危なくて手すりに掴まらずに上下することを極力避けている状態だ。この動作などは人力でありながら、危険を感じることが何度でもあった。それが、こと自動車の運転ともなれば相手は機械であり、操作の誤りが高齢化すればするほど起こりがちだろうと解る。如何ともしたい現象だろうと思う。
東京都内では2万円某かを負担すれば「シルバーパス」を入手出来るので、張り巡らされたバスと都営地下鉄網を利用すれば23区内ならば、時間をかけることを厭わなければ、何処にでも行けるだろうし、自動車も自転車も不要だ。現に、我が家の前から乗れる1時間に1本しかない高田馬場駅から東中野駅を走るKBバスなどには乗ってみれば、シルバーパス利用の高齢者ばかりだ。このように都内では交通インフラとでも言えば良いのか、移動には便利に出来ている。
それと比較すれば、地方では過疎化と高齢化が同時に進行した為に軽自動車などは生活必需品であろうから、高齢化したからと言って一概に「自主的運転免許返納」などと言っていられない状況だと思って眺めている。地方では過疎化の解消等の施策が講じられているようだが、東京の一極集中の傾向は止まっているとは思えないし、多くの地方都市を見た限りでもシャッター街化が目立っていた。
更に、少子化が進んだ現代では多くの大学が受験者を確保する手段の一環として東京都内に戻ってくる傾向が見えるし、都内や十大都市の大学を目指す子供たちも増えているようだ。その子供たちが一旦都会生活に馴染めば、地方に戻ろうと思わないのも仕方がないのかも知れないし、都会での就職を狙うのも当然かも知れない。私には高齢化した場合の運転がどれほど危険かを知る術もないが、この問題は地方の過疎化と東京一極集中と無縁ではないような気がしてならない。
もしかして、この問題はアベノミクスが如何に成功し、目に見える更なる効果を発揮して地方を活性化するかと、大いなる関連があるのかも知れない気がするのだが。