音読・暗記・暗唱だけではなかった:
私はこれまでに繰り返して私自身の英語の勉強法と我が国の英語教育改革論を発表してきた。だが、残念なことに支持して下さる方は少なかったと思う。そこで、今回は何とかして読者諸賢のご賛同を得ようとばかりに、私がどのように英語の勉強をしてきたかをもう一度振り返ってみることにした。それは、これまでに唱えてきた音読・暗記・暗唱以外にも、色々と試みていたことがあったという事実を開示しようということだ。
英語で考えること:
既に何度も触れたように旧制中学1年の終わり頃、即ち昭和20年(1945年)にはGHQで秘書をしておられたハワイ大学出身の日系二世の方に「英語で話すこと」を厳しく教え込まれていた。その方を仮にHelenとして置くが、彼女が私に厳しく指導されたのは大要下記の通りである。
Helenに最初に指示されたことは
*英語のままで覚え、日本語にしようなどと考えないこと。
*これから言いたいことを日本語で考えて、それを訳そうとしないで、知っているだけの表現を自然に思い出して並べること。
*話の中に“you know”を挟んではいけない。(筆者注:これは要注意で、これを多用することは決して貴方が「有能」であることを示すことにはならないのだ)
*もしも言葉に詰まったら“Well.”か“Let me see.”と言って間を持たせるように」だけでした。
だけだった。但し、Helenは如何なる些細なことでも間違えたことを言うと取り合ってくれなかった。また、こちらが何を言われたか解らないでいると、繰り返してくれることもあったが、絶対に日本語では言ってくれなかった。因みに、彼女の日本語の能力は我々以上に完全であり、毛筆で漢字を崩した書体でも書けるなど、日本人以上のものがあった。
このような形で、彼女は当時我々が住んでいた鵠沼海岸に毎週末に休養に来る度に英語でしか話してはならないと決められた。当時から優れた英語教育で知られていた湘南中学での英語の勉強と並行して「会話」まで学べたのだから、悪い影響が出る訳がなかった。しかしながら、私は面倒だからと単語帳やカードも作らず教科書に書き込見もしなかった。即ち、「覚えてしまえば良いだろう」と開き直り、音読・暗記・暗唱を続けたのだった。
換言すれば「単語をバラバラに覚えるのではなく、流れの中でその使い方を覚える方が、効果が上がるだろう」と考えていたとも言えるのだ。
音読・暗記・暗唱:
この私独特の音読・暗記・暗唱法は高校3年の時に英語を教えて頂いた鈴木忠夫先生には「そうすることで頭の中に英文が入っており、話す時でも読む時でも文法的に誤った文章や誤った言葉遣いなどは口から出なくなるし、頭の中に浮かんでくることがなくなるものだ」と長所を指摘されて、自信を持つに至った。鈴木先生も単語だけを覚えることに否定的だったが、重ねて言うが「単語は部品に過ぎない。それをバラバラに覚えていても最終製品である正確な英文はは組み立てられない」のであった。
しかし、現代のようにTOEICだのTOEFLだの英検だのと資格試験(なのかな?)が万能のようになると、私の勉強法を読まれた方々に「音読・暗記・暗唱でそれらの試験を無事に突破出来ないのではないか」との不安感が湧いてきたとしても不思議ではないと思う。そこ敢えて一言申し上げておけば、私はこの勉強法で押し通しただけで、中学から大学卒業までの間で、無数の英語の試験の成績が90点以下だったことは2回しかなかったのだ。
基礎を固めておくと:
それでも未だ不安だと言われそうな方には、私は大学卒業後の16年間は日本の会社で英語が必要ではない国内市場の営業を担当していたのだったのだったのだ。それが、偶然が重なってその16年目の終わり頃に、UKの大手製紙会社の研究員の日本市場調査のお手伝いをする機会があり、英語で話さねばならなくなった。するとどうだろう。Helenの教えと音読・暗記・暗唱の勉強法の賜物か、昨日まで英語で話す生活をしてきたかのように、自然に英語が口から出ていたのだった。
「それは、貴方だけの例外的なことだろう」と言いたい方には、では家庭教師として音読・暗記・暗唱に単語帳なし、書き込みなし、解らない言葉に出会ったらその都度辞書を引く等々の方法で2年ほど教えた中学1年生の男子は私の手を離れた高校卒業までの間に、英語の成績はずっと「オール5」だったことは何と言って否定されるのだろう。
また、某商社でこの方法で個人指導する機会を与えられた入社2年目の若手は2年も経たないうちに、その課で一番の英語の使い手に成長した。これなどは「24歳を過ぎてからでも十分の間に合う」という格好の例である。もう一つ言わせて貰えば、彼は中学から高校・大学と我が国の英語教育の下で育ってきたのだが、社会人になってからでも我が国の学校教育で教えられた英語の修正(矯正?)は可能だったという例でもある。
英作文の勉強:
私はこれまでに何度が「英文和訳と同様に、英作文など勉強する必要はない」と主張してきたが、これは私自身が英作文を勉強しなかったということではない。記憶は定かではないが、高校2年の頃だったかに自分の英語で文章を書く力が不足していると悟ったのだった。
そこで取り組んだのが、初版が1949年(昭和24年)に金子書房から発行された佐々木高政氏の「英文構成法」という評判が高い英作文の参考書だった。これは今になって読んでみても非常に難しいと言うか高次元の英語の例文が無数に出てくる本だった。と言うよりも、如何にして簡単な言葉を使って分かりやすい正確な英文を書くかを教えてくれる本だった。私は受験用の英語の勉強などを忘れてこの本に挑戦したお陰で、後にアメリカの会社に転進しても困らないで済むだけの英文を書く基礎が出来たと思っている。
大学に入ってから「この本で英文の書き方を勉強した」と言ったところ、「あんな易しい本で勉強してして何が学べたか」と軽蔑したような顔をした同級生がいたが、英文が何であるかが解っていないとそういう誤認識をするような本なのだ。
アメリカの会社に移って:
私は39歳からアメリカの会社に移ったのだが、そこで悩まされたことが「私は個人的というか私的な場面での英語はそれなりに学んであったが、アメリカの大企業で社内の上司やそれ以上の地位にある人たちに提出するような報告書(reportでも良いか)の書き方は経験していなかったのだった。
そこで指導して貰えたのが、本社から東京事務所に派遣されていた日系人でワシントン大学のMBAだった美文家のBJ氏だった。彼には徹底的に指導されたが「貴方は基本的に英文の書き方が解っているのだから、後はどういうことばを使って書けば適切であるかを覚える音が上達の早道だ」と教えられた。BJ氏も前出のHelenのように日本語は完璧で日経新聞を難なく読みこなしているほどだった。
上記の勉強法で覚えた私の英語はアメリカ人たちから批判されたことはなかった。だが、BJ氏以外からも適切な言い方を教えられるとか、誤りを指摘された機会はあった。更に、彼らの中で仕事をして行動を共にしていればこそ、何時でも疑問があれば質問することが出来た。それは、今となってみれば非常に有り難い英語の勉強が出来る環境に身を置いていたと思うのだ。。
私はこれまでに繰り返して私自身の英語の勉強法と我が国の英語教育改革論を発表してきた。だが、残念なことに支持して下さる方は少なかったと思う。そこで、今回は何とかして読者諸賢のご賛同を得ようとばかりに、私がどのように英語の勉強をしてきたかをもう一度振り返ってみることにした。それは、これまでに唱えてきた音読・暗記・暗唱以外にも、色々と試みていたことがあったという事実を開示しようということだ。
英語で考えること:
既に何度も触れたように旧制中学1年の終わり頃、即ち昭和20年(1945年)にはGHQで秘書をしておられたハワイ大学出身の日系二世の方に「英語で話すこと」を厳しく教え込まれていた。その方を仮にHelenとして置くが、彼女が私に厳しく指導されたのは大要下記の通りである。
Helenに最初に指示されたことは
*英語のままで覚え、日本語にしようなどと考えないこと。
*これから言いたいことを日本語で考えて、それを訳そうとしないで、知っているだけの表現を自然に思い出して並べること。
*話の中に“you know”を挟んではいけない。(筆者注:これは要注意で、これを多用することは決して貴方が「有能」であることを示すことにはならないのだ)
*もしも言葉に詰まったら“Well.”か“Let me see.”と言って間を持たせるように」だけでした。
だけだった。但し、Helenは如何なる些細なことでも間違えたことを言うと取り合ってくれなかった。また、こちらが何を言われたか解らないでいると、繰り返してくれることもあったが、絶対に日本語では言ってくれなかった。因みに、彼女の日本語の能力は我々以上に完全であり、毛筆で漢字を崩した書体でも書けるなど、日本人以上のものがあった。
このような形で、彼女は当時我々が住んでいた鵠沼海岸に毎週末に休養に来る度に英語でしか話してはならないと決められた。当時から優れた英語教育で知られていた湘南中学での英語の勉強と並行して「会話」まで学べたのだから、悪い影響が出る訳がなかった。しかしながら、私は面倒だからと単語帳やカードも作らず教科書に書き込見もしなかった。即ち、「覚えてしまえば良いだろう」と開き直り、音読・暗記・暗唱を続けたのだった。
換言すれば「単語をバラバラに覚えるのではなく、流れの中でその使い方を覚える方が、効果が上がるだろう」と考えていたとも言えるのだ。
音読・暗記・暗唱:
この私独特の音読・暗記・暗唱法は高校3年の時に英語を教えて頂いた鈴木忠夫先生には「そうすることで頭の中に英文が入っており、話す時でも読む時でも文法的に誤った文章や誤った言葉遣いなどは口から出なくなるし、頭の中に浮かんでくることがなくなるものだ」と長所を指摘されて、自信を持つに至った。鈴木先生も単語だけを覚えることに否定的だったが、重ねて言うが「単語は部品に過ぎない。それをバラバラに覚えていても最終製品である正確な英文はは組み立てられない」のであった。
しかし、現代のようにTOEICだのTOEFLだの英検だのと資格試験(なのかな?)が万能のようになると、私の勉強法を読まれた方々に「音読・暗記・暗唱でそれらの試験を無事に突破出来ないのではないか」との不安感が湧いてきたとしても不思議ではないと思う。そこ敢えて一言申し上げておけば、私はこの勉強法で押し通しただけで、中学から大学卒業までの間で、無数の英語の試験の成績が90点以下だったことは2回しかなかったのだ。
基礎を固めておくと:
それでも未だ不安だと言われそうな方には、私は大学卒業後の16年間は日本の会社で英語が必要ではない国内市場の営業を担当していたのだったのだったのだ。それが、偶然が重なってその16年目の終わり頃に、UKの大手製紙会社の研究員の日本市場調査のお手伝いをする機会があり、英語で話さねばならなくなった。するとどうだろう。Helenの教えと音読・暗記・暗唱の勉強法の賜物か、昨日まで英語で話す生活をしてきたかのように、自然に英語が口から出ていたのだった。
「それは、貴方だけの例外的なことだろう」と言いたい方には、では家庭教師として音読・暗記・暗唱に単語帳なし、書き込みなし、解らない言葉に出会ったらその都度辞書を引く等々の方法で2年ほど教えた中学1年生の男子は私の手を離れた高校卒業までの間に、英語の成績はずっと「オール5」だったことは何と言って否定されるのだろう。
また、某商社でこの方法で個人指導する機会を与えられた入社2年目の若手は2年も経たないうちに、その課で一番の英語の使い手に成長した。これなどは「24歳を過ぎてからでも十分の間に合う」という格好の例である。もう一つ言わせて貰えば、彼は中学から高校・大学と我が国の英語教育の下で育ってきたのだが、社会人になってからでも我が国の学校教育で教えられた英語の修正(矯正?)は可能だったという例でもある。
英作文の勉強:
私はこれまでに何度が「英文和訳と同様に、英作文など勉強する必要はない」と主張してきたが、これは私自身が英作文を勉強しなかったということではない。記憶は定かではないが、高校2年の頃だったかに自分の英語で文章を書く力が不足していると悟ったのだった。
そこで取り組んだのが、初版が1949年(昭和24年)に金子書房から発行された佐々木高政氏の「英文構成法」という評判が高い英作文の参考書だった。これは今になって読んでみても非常に難しいと言うか高次元の英語の例文が無数に出てくる本だった。と言うよりも、如何にして簡単な言葉を使って分かりやすい正確な英文を書くかを教えてくれる本だった。私は受験用の英語の勉強などを忘れてこの本に挑戦したお陰で、後にアメリカの会社に転進しても困らないで済むだけの英文を書く基礎が出来たと思っている。
大学に入ってから「この本で英文の書き方を勉強した」と言ったところ、「あんな易しい本で勉強してして何が学べたか」と軽蔑したような顔をした同級生がいたが、英文が何であるかが解っていないとそういう誤認識をするような本なのだ。
アメリカの会社に移って:
私は39歳からアメリカの会社に移ったのだが、そこで悩まされたことが「私は個人的というか私的な場面での英語はそれなりに学んであったが、アメリカの大企業で社内の上司やそれ以上の地位にある人たちに提出するような報告書(reportでも良いか)の書き方は経験していなかったのだった。
そこで指導して貰えたのが、本社から東京事務所に派遣されていた日系人でワシントン大学のMBAだった美文家のBJ氏だった。彼には徹底的に指導されたが「貴方は基本的に英文の書き方が解っているのだから、後はどういうことばを使って書けば適切であるかを覚える音が上達の早道だ」と教えられた。BJ氏も前出のHelenのように日本語は完璧で日経新聞を難なく読みこなしているほどだった。
上記の勉強法で覚えた私の英語はアメリカ人たちから批判されたことはなかった。だが、BJ氏以外からも適切な言い方を教えられるとか、誤りを指摘された機会はあった。更に、彼らの中で仕事をして行動を共にしていればこそ、何時でも疑問があれば質問することが出来た。それは、今となってみれば非常に有り難い英語の勉強が出来る環境に身を置いていたと思うのだ。。