新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月18日 その2 生田悦子さんが亡くなった

2018-07-18 10:09:52 | コラム
虚血性心不全だったと報じられた:

就寝中に発作を起こされたようで、ご主人が気付かれたが手遅れだった由だ。71歳。謹んでご冥福をお祈りする。報道では前日に外出されて何の予兆のなかったとあるが、それに何の不思議もないと思う。私は「虚血性心不全」即ち、心筋梗塞だったと解釈して話を進めていく。

私が2006年1月16日に第1回目(不思議な表現だが、私は3回経験して生き残っているので))の心筋梗塞を起こした時は前日の土曜日にはジムに行って、何時も通りに運動をしてウエイトトレーニングまでしていた。その前の金曜日には商社の知人と昼食会で語り合っていた。何事もなかったし所謂前駆症状の如き事は起きていなかった。それでも16日の朝に襲われた。直接の原因となった冠動脈の狭窄は99%で、主治医でカテーテルの執行医(はおかしいか?)はこの状態で良くも金・土と耐えてきたものだと言われた。いや、何時何処で起きても不思議ではない状態だったという意味だ。

私は早朝で、しかも家内の見ている前だったのが幸運で救われたが、生田悦子さんのように就寝中では隣におられたご主人でも気が付かれないことはあり得ると思う。それは、私の場合は激痛はほんの一瞬のことであり、「そこから先は脳に血液が行かなくなっているので、痛覚が麻痺しているから何とないと錯覚するのだ」と、入院中に看護師さんに教えて貰った。だから、ややもすると一過性の痛みかと錯覚するのだそうだ。

なお、2回目と3回目はほとんど痛みがなく2回目は当人が「もしかしてこの背中に嫌な感じがあるのは?」と疑って主治医に電話で相談し「万が一ということもあるから救急車を呼びなさい」と指示されたのだが、救急隊員が検査した心電図は千々に乱れていた。疑う余地もない心筋梗塞だった。

それでは事前に検査するとか、予防法はないのかと言えば確かにあるとは思う。検査法はカテーテルを入れて造影剤を流すのだが、そういう検査をしている病院があるとは聞いているが、保険適用かどうかは知らない。人手がかかり熟練を要する処置であり、大規模で精密な設備を擁する検査(処置)なので、個人の開業医院では無理だろうと思う。次は日頃から備えておく食事だが、その方法は諸説あるのでご参照願いたい。私は「アルコールは体質が受け付けず、煙草は生まれてから吸ったことがなく、車の運転法も知らず、麻雀は発作の32年前に止めていた」が、予防の効果がなかったらしい。

「食事に気をつけよ」ということは「肥るな」なという意味だ。そこでBMIがどうのと言われているが、私には個人差があると思う。私と比べても肥満だと思えるし、大酒を飲む人が全員心筋梗塞になる訳でもない。当時の主治医は「ストレスを起こしやすい職種と神経質なA型に多い」と言われた。私には適合していたようだが、A型だけは如何ともならない要素だった。「A型でストレスに悩む方はご注意を」と言いたいが「この世にストレスがない仕事や職業があるのだろうか?」


橋詰功君だったとは

2018-07-18 09:14:13 | コラム
日大フェニックスの新監督が内定:

昨17日、愚息から橋詰功君に内定と聞かされた時は驚いたいうより「そういうこともあるのか」と意外の感に囚われた。彼はフットボール界での愚息の言わば仲間を超えた同年齢の親友であり、我が家にも泊まっていったこともある間柄だ。何年前だったかに「もう進化し続けるフットボールで大学のコーチをやり遂げた」と言って立命館大学の付属校のコーチに転身していったとも聞いていた。また、私自身も彼と愚息とともに関東大学選手権の試合を観戦したこともあり、面識以上もものがあると思っている。

そのフットボールにかける情熱は並々ならぬものがあり、立命館大学の理工系を卒業してシャープに就職していたのを振り切って、大学職員となってオフェンスコーチとなって、立命館大学パンサーズを2度の日本選手権優勝に持って行った優れた戦略家であるオフェンスコーチだ。また、マスコミ報道にもあるようにアメリカのフットボール強豪大学であるオクラホマ州立大にもコーチ留学にも行っていて、アメリカの最新のフットボールの戦法にも通暁していると聞かされている。

彼がパンサーズのオフェンスのフォーメーションを編み出していたのだが、私が最も印象深く感じていたのがライスボウルで松下電工インパルス(パナソニック)を破った時に(記憶が正しければ)勝利を決定づけるタッチダウンとなったオフェンスのプレーだった。詳細は省くが、私にはまさかQBの高田がキープして走るプレーだったとは思っていなかった鮮やかなTDだった。尤も伝え聞くところでは、その難しいプレーをスポッター席から出した橋詰君は「失敗したら翌日の新聞に何と言って叩かれるか」と怖れたほどの意外性十分すぎるランプレーだった。

京都出身の彼は穏やかな語り方で、俗に言う体育会風の臭いがない(私の印象では)スマートな青年だった。これから立ち直っていこうとする日本大学フェニックスにとっては一刻も早く新監督を選任し、コーチ陣も整備していかねばならないのだから橋詰君の手腕に期待したい。新監督はその方針と練習法に適したコーチたちを選ばねばならないのだが、まさか立命館大学の中からという訳には行かないだろうから、その辺りに難しさがあるようにも感じられる。だが、米国大統領選挙に立候補する際には誰もが予め「トランジション・テイーム」を用意してあると聞いているから、彼もその辺りには腹案があると期待して良いのかも。

予断がだ、昨17日のフジテレビのバイキングだったかで、「フェニックスには13人ものコーチがいる」と聞かされて「そんなに多いのか」と驚いて見せた者がいた。フットボールには監督(英語というか、アメリカにはそういう制度はない)、ヘッドコーチに加えて各ポジションにもコーチがいるのだから単純計算すれば2+(11×2)=24となってしまう。だが、各ポジションには左右があるので、そうはならない。因みに、関西学院大学ファイターズの一軍にはそれぞれの選手に学生コーチが付いているという話しだ。

アメリカでは我が国とは練習法が非常に異なっていて、各人がトレーナーに指示された「体のどの筋肉と場所を如何に鍛えるべきか」を指示されてその通りに自分でウエイトトレーニングなり何なりで体を作り上げて練習に臨むのであり、自主性が主体である。我が国のような長時間の練習にはならない合理性があるとも、複数のアメリカ経験者から聞かされている。もっと簡単に解りやすく誤解を招きそうな言い方をすれば、精神主義の存在は極めて希薄だと言うこと。

アメリカでもコーチたちの主な仕事の一つに「授業を欠席するな。キチンと勉強せよ」と部員たちに口が酸っぱくなるほど言い聞かせることがあるそうだ。「アメリカでも」と言ったのは、日本大学フェニックスにも同じような指示が出ていると聞いてからだ。

何れにせよ、橋詰君の手腕に期待したいのだが、アメリカ式(立命館大学式?)の合理化乃至は近代化されたフットボールを如何に関東の勇者日本大学フェニックスに根付かせるかに大いなる関心と期待がある。因みに、フットボールに関しては、その人気と普及度は関西地方が圧倒的に高いのだ。一度、東京ドームでライスボウルを観戦した時に隣の座った京都から来た言われた立命館のファンの「おっさん」(失礼)の知識はそれこそ(嫌な言葉だが)半端なかった。


夏風邪と診断された

2018-07-18 08:04:11 | コラム
高齢の私は動かない方が無難だったようで:

17日夜は何故か眠りが浅く、しかも短時間に変な夢ばかり見て頻繁に目が覚めてしまう不快な気分だった。翌朝目が覚めても倦怠感だけで動きにくかった。そこで熱を計ってみれば何と38.3度。矢張り14日の車による片道90分の中央林間遠征の後遺症かとも考えた。疲労感よりも「南向きに走る時の車内が暑かったな」という感想だったが。

それは、ここ新大久保からJRと小田急を乗り継げば50分ほどで中央林間駅に到着するが、そこから先は何も直射日光を遮る僅かな日陰すらない一本道を約10分歩くのだ、即ち往復で20分。これでも移動に要する時間は電車の待ち時間を加算すれば150分程度はかかる。車にすればその「高齢者には危険かも知れない」と危惧した歩く時間がなくなる点が有利かという計算だった。

だが、結果的に高齢者の私には暑い日の長時間の外出は堪えたようだった。それに毎度のことで首筋を始めとする凝りと筋肉痛も出ていた。元々高熱に弱い私では38度超えはきついので、朝8時半頃にバスを利用すれば外を歩く時間が短縮できるSクリニックに向かった。診察は9時からだが、このクリニックは何時も早くから老人の患者で混み合うので、高熱に耐えて早く行って最初の患者になろうという計算。果たせるかな1番だった。

S医師の診断は「夏風邪だが、以前に心臓をやられているから2~3日は慎重に行動するよう」と注意された。そこで何時ものブロック注射ではなく静脈注射を受け、鼻と喉の薬を出して頂いて歩いて帰宅。というのは、ここのバス路線は1時間に1本しか走っていないのである。プラセンタエキスの注射を続けてきたので滅多なことは風邪は引かないはずだったが、夏場にあの35度の暑さと長時間の外出は高齢化した私には禁物だったと改めて学習した次第。

S医師に「暫くは無理に動かないように」と言われ肝に銘じたが「それではエヤコン代が嵩むか」と一寸気懸かりになった次第。何れにせよ、今回の教訓は「高齢者は無理をするなではなく、必要以外は仮令近距離でも動くな」ということだった。これは一般論としても通用するかも知れない。だが、何となく情けなさが残る事態だった。