ヤマト様
私のスポーツ経験談:
コメントを頂戴し誠に有り難う御座いました。身に余るお言葉で恐縮しております。そこで、この機会に私の野球とサッカーの経験を振り返ってみようと思いました。
既にご高承かと思いますが、私は昭和20年4月に旧湘南中学に入った時からの蹴球部員(現在ではサッカー部と言うようですが)で、野球は余技のような競技でした。但し、湘南では戦後になって設立が許された野球部では、慶応大学野球部のOBの佐々木久男氏(故人で、佐々木信也君の父君)が監督をされていました。その佐々木氏の力で慶応在学中の別当薫(故人でタイガース)や大島信男と加藤のバッテリー(中日でしたか)、矢野外野手といった一流の大学選手がコーチに来ていました。
蹴球部は野球部と同じサッカー場の広さしかないグラウンドを半分にて使っていたので、先に練習が終わった時にはその大学の名手たちの指導法を聞きに(見に?)行っていました。また、慶応大学の練習に参加してコーチ学を習得していた2期上の中学生助監督もおられました。その理論をベンチの横で聞いて知り得た知識の例には「一死で走者二三塁て四球を取ってきた者が叱られていました。それでは相手にダブルプレーのチャンスを与える危険性があると言ったじゃないか」というのもありました。
また、昭和24年に甲子園で優勝した時の三塁手で東大に進み、東洋紡の専務になってからの引退後に大阪大学大学院で経済学博士となった脇村春夫君は同期の同級生でした。彼は大学院に行きながら高野連の会長も務めていました。彼とは高校2年時の野球の野球部員も出て良いという異例の組別の軟式野球の校内大会では、テイームを組んで優勝しました。私は普段は投手兼三塁手で余技の野球を楽しんでいましたが、脇村君がいるので一塁手にさせられました。
その際に生真面目な脇村君に練習までさせられて指導されたことは「一塁手は悪送球の備えての捕球の練習と、無理に捕球しようとせずにベースを離れてでも、球を内野の中に残すように注意せよ。それは打者走者を二塁に行かせない為だ」でした。脇村君は帰国子女でアメリカで基礎の野球理論を身につけていました。因みに、投手は甲子園でベストナインに選ばれたセンターの根本君で、その他に甲子園に補欠で行った者が2人いたのでしたら、勝って当たり前のテイームでした。彼らは皆東京六大学野球並みの理論を承知していました。彼らから基本を学べたということです。
その上にアメリかでは会社というか、我が事業部の副社長がキングドームのボックス席を持っていたのでMLBの野球を見に行けましたし、ともに観戦した部の内外の野球通たちからも野球の理論を聞かされる機会もあるという幸運もありました。その1人はかの大魔神・佐々木主浩の投球を見て「この投手のあのフォークボールは投手に有利なカウントに持ち込まないと空振りは取れない」と指摘した途端にホームランを打たれました。彼らは確かにシアトルマリナーズを応援していましたが、我が国の仲間に気ばかり遣っている解説者よりも立派な野球理論に通じていたので勉強させられました。
私自身は社会人になってからは会社の野球を30歳になるまで内野手と投手をやって楽しんでおりました。本職であったはずのサッカーは28歳で一度止めてから、42歳で藤沢四十雀クラブで再開し48歳まで続けました。そして、70歳になった頃から昭和23年の国体で優勝し損なった顔ぶれが集まってフットサルをやっていました。それも私は72歳の末期に心筋梗塞を発症して止めることになりました。このフットサルの代表者は優勝し損ないの時の主将で、後のメルボルンオリンピック選手だったKさんです。
だが、遺憾ながら現在のサッカーは我々の頃のWMフォーメーションの時代とは別世界のような高水準にあるので、その試合振りを批評するのは僭越かと思うのです。だが、ついつい「俺にも言わせろ」となって妄言を吐いている次第です。私は精神主義は排除すべしと思っておりますが、現代のサッカー(だけとは限られていないと見えますが)の指導者の一部には未だそういう観念が抜け切れていないように見える時があります。
余談ですが、何かと言えば「パワー」だの「フィジカル」だの「メンタル」だの「ハードワーク」などと言う訳の解らないカタカナ語を乱用するのは止めて欲しいと思っております。こういう英語の表現はないのです。語ればキリがないのですが、何かのご参考になれば宜しいかと愚考し、簡単に解雇してみました。
真一文字杯
私のスポーツ経験談:
コメントを頂戴し誠に有り難う御座いました。身に余るお言葉で恐縮しております。そこで、この機会に私の野球とサッカーの経験を振り返ってみようと思いました。
既にご高承かと思いますが、私は昭和20年4月に旧湘南中学に入った時からの蹴球部員(現在ではサッカー部と言うようですが)で、野球は余技のような競技でした。但し、湘南では戦後になって設立が許された野球部では、慶応大学野球部のOBの佐々木久男氏(故人で、佐々木信也君の父君)が監督をされていました。その佐々木氏の力で慶応在学中の別当薫(故人でタイガース)や大島信男と加藤のバッテリー(中日でしたか)、矢野外野手といった一流の大学選手がコーチに来ていました。
蹴球部は野球部と同じサッカー場の広さしかないグラウンドを半分にて使っていたので、先に練習が終わった時にはその大学の名手たちの指導法を聞きに(見に?)行っていました。また、慶応大学の練習に参加してコーチ学を習得していた2期上の中学生助監督もおられました。その理論をベンチの横で聞いて知り得た知識の例には「一死で走者二三塁て四球を取ってきた者が叱られていました。それでは相手にダブルプレーのチャンスを与える危険性があると言ったじゃないか」というのもありました。
また、昭和24年に甲子園で優勝した時の三塁手で東大に進み、東洋紡の専務になってからの引退後に大阪大学大学院で経済学博士となった脇村春夫君は同期の同級生でした。彼は大学院に行きながら高野連の会長も務めていました。彼とは高校2年時の野球の野球部員も出て良いという異例の組別の軟式野球の校内大会では、テイームを組んで優勝しました。私は普段は投手兼三塁手で余技の野球を楽しんでいましたが、脇村君がいるので一塁手にさせられました。
その際に生真面目な脇村君に練習までさせられて指導されたことは「一塁手は悪送球の備えての捕球の練習と、無理に捕球しようとせずにベースを離れてでも、球を内野の中に残すように注意せよ。それは打者走者を二塁に行かせない為だ」でした。脇村君は帰国子女でアメリカで基礎の野球理論を身につけていました。因みに、投手は甲子園でベストナインに選ばれたセンターの根本君で、その他に甲子園に補欠で行った者が2人いたのでしたら、勝って当たり前のテイームでした。彼らは皆東京六大学野球並みの理論を承知していました。彼らから基本を学べたということです。
その上にアメリかでは会社というか、我が事業部の副社長がキングドームのボックス席を持っていたのでMLBの野球を見に行けましたし、ともに観戦した部の内外の野球通たちからも野球の理論を聞かされる機会もあるという幸運もありました。その1人はかの大魔神・佐々木主浩の投球を見て「この投手のあのフォークボールは投手に有利なカウントに持ち込まないと空振りは取れない」と指摘した途端にホームランを打たれました。彼らは確かにシアトルマリナーズを応援していましたが、我が国の仲間に気ばかり遣っている解説者よりも立派な野球理論に通じていたので勉強させられました。
私自身は社会人になってからは会社の野球を30歳になるまで内野手と投手をやって楽しんでおりました。本職であったはずのサッカーは28歳で一度止めてから、42歳で藤沢四十雀クラブで再開し48歳まで続けました。そして、70歳になった頃から昭和23年の国体で優勝し損なった顔ぶれが集まってフットサルをやっていました。それも私は72歳の末期に心筋梗塞を発症して止めることになりました。このフットサルの代表者は優勝し損ないの時の主将で、後のメルボルンオリンピック選手だったKさんです。
だが、遺憾ながら現在のサッカーは我々の頃のWMフォーメーションの時代とは別世界のような高水準にあるので、その試合振りを批評するのは僭越かと思うのです。だが、ついつい「俺にも言わせろ」となって妄言を吐いている次第です。私は精神主義は排除すべしと思っておりますが、現代のサッカー(だけとは限られていないと見えますが)の指導者の一部には未だそういう観念が抜け切れていないように見える時があります。
余談ですが、何かと言えば「パワー」だの「フィジカル」だの「メンタル」だの「ハードワーク」などと言う訳の解らないカタカナ語を乱用するのは止めて欲しいと思っております。こういう英語の表現はないのです。語ればキリがないのですが、何かのご参考になれば宜しいかと愚考し、簡単に解雇してみました。
真一文字杯