U―18の野球ではオーストラリアにまで捻られた:
7日には2回の途中からだったが、最後までこの何とも言いようない無残な敗戦を見ていた。いきなり結論めいたことから入っていけば「諸悪の根源は高野連である」と「野球とBaseballの違いがイヤと言うほど現れていたこの大会だった」の2点に収まるだろう。間違っていたらご免なさいだが、私はそもそも高野連は高体連には属していない団体であると認識していた。
次に結論ではなく「文化比較論」の一環として指摘しておきたい点がある。それはMLBに行ったダルビッシュが2ヶ月ほどで「アメリかでは(彼が承知していた野球とは別個の)何か異種の競技をやっているようだ」と語った点を挙げておきたい。それほど「野球」と“baseball”は違っているのだが、ダルビッシュは我が国では高野連は言うに及ばすNPBもマスコミも気が付いていない相違に慧眼にも短期間で目覚めたのである。その相違点は私の年来の指摘である「英語とEnglishは全く別個のものである」と同じであろうと思う。
今回のU―18の我が代表を試合はほとんど見ていたが、韓国に負けた試合を除けば「野球における文化の違いがかなり歴然としていた」と言えると思った。それは極論の如くに受け止められる方が多いと思うが、私の我が国の野球と野球界の見方では「甲子園の野球とその聖地での大会に出る為であり、トーナメント方式の試合で勝ち上がる為の野球が頂点にあり、年間に140試合以上もあるNPBのリーグ戦でも、その勝ち上がっていく為の戦術と戦法が踏襲されており辛い練習に耐える精神主義が美化されてまかり通っているのだ」となるのだ。
その精神主義というか同じテイーム内における規律と規範の在り方は「全員一丸となって」であり「長幼の序というか年功序列の尊重」であり「自己犠牲の精神」のように見えるのだ。何だ、それはあらゆる運動部に共通しているのではないかと言われそうだが、私は野球には最も顕著に表れていると思う。マスコミにも罪があるが「犠牲バント」が美化されすぎていてテイームの為には犠牲になる精神が尊いものと評価されている。議会を避ける為に言って置くが、私は犠牲バント多用を否定しているのではない。我が国の野球の文化の特徴だと言っているのだ。
7日のオーストラリアの敗戦を見ていた痛感していたことは同じ窮地に立たされているオーストラリアの18歳以下の者たちにはそのプレシャーに圧迫されている感じがせずに個性的に伸び伸びとやっているかに見えたが、我が方は前夜の敗戦で気落ちしていた点を割り引いても全員が萎縮しており、監督とコーチの指示以外では動くことが出来ずに「テイーム」という型にはめ込まれた没個性の集団のように見えていた。
言い方を変えれば、選手たち一人ひとりを見れば素材としては申し分ないと思わせてくれているが、誰が出てきても投手は同じような綺麗なフォームで個性がないし、打者もアメリカ人に多く見かける個性豊かと言うが一風変わった形で打席に立つものなどいないのだ。打つ方も投げる方もベンチから監督コーチの指示があって動いているのだろうが、没個性というか「全員一丸となっって病」にかかっているのではないかなどと思わせられていた。
高野連乃至はそれぞれの高校の監督さん(と言うが、アメリカ式に投手、打撃、守備、走塁、)トレーニング等々のコーチ入るのだろうか)は永年の歴史と伝統の下に生徒たちを指導しておられるのだろうが、それが後難を恐れて言わせて貰えば「聖地甲子園に出る為のトーナメント方式を勝ち抜く為の枝葉末節までの技巧と教え込みすぎてきた為に、北アメリカや太平洋州の高校生たちのような個性が育たずに、綺麗に小さめに纏まった選手たちが育ってしまったのだと疑っている。奥川恭伸君は我が国の高校生にしては少しだけ変わったフォームだが、個性的とまでは言えない。
回りくどい言い方になってしまったが、私が主張したいことは脇村春夫君が高野連の会長に就任した時に開催したお祝いのクラス会で彼に渡した「甲子園の野球を止めよう。あれに出る為、そして勝つ為に高校生たちを小さく纏めてしまう指導を止めよう、高校生の投手がプロのような多彩な球種を操るような「小成に甘んじるような野球を止めたらどうか」と記載した忠告文(は言いすぎかな?)を再度述べているだけだ。
私はこれまでに繰り返して「野球とは投手が思いきって力一杯の早い投球をして打者と勝負して、打者は目一杯振り回してその速球を打ってやろうと勝負する競技である」と指摘してきた。アメリカに行ってMLBの野球を見ていると,投手は「打てるものなら打って見ろ」と自己最高の投球をして、打者は「それなら勝負して見せよう」と力の限りバットを振って立ち向かっていき競技だと解る。かれらには“for the team”は二の次で「どうだ、俺様は凄いだろう」と誇示し合っているかのように個性のぶつかり合いなのだ。
私にはU―18の大会では「甲子園で勝つ為の野球」が「個性発揮合戦の野球」に負けた文化の違いが出たと思っている。
7日には2回の途中からだったが、最後までこの何とも言いようない無残な敗戦を見ていた。いきなり結論めいたことから入っていけば「諸悪の根源は高野連である」と「野球とBaseballの違いがイヤと言うほど現れていたこの大会だった」の2点に収まるだろう。間違っていたらご免なさいだが、私はそもそも高野連は高体連には属していない団体であると認識していた。
次に結論ではなく「文化比較論」の一環として指摘しておきたい点がある。それはMLBに行ったダルビッシュが2ヶ月ほどで「アメリかでは(彼が承知していた野球とは別個の)何か異種の競技をやっているようだ」と語った点を挙げておきたい。それほど「野球」と“baseball”は違っているのだが、ダルビッシュは我が国では高野連は言うに及ばすNPBもマスコミも気が付いていない相違に慧眼にも短期間で目覚めたのである。その相違点は私の年来の指摘である「英語とEnglishは全く別個のものである」と同じであろうと思う。
今回のU―18の我が代表を試合はほとんど見ていたが、韓国に負けた試合を除けば「野球における文化の違いがかなり歴然としていた」と言えると思った。それは極論の如くに受け止められる方が多いと思うが、私の我が国の野球と野球界の見方では「甲子園の野球とその聖地での大会に出る為であり、トーナメント方式の試合で勝ち上がる為の野球が頂点にあり、年間に140試合以上もあるNPBのリーグ戦でも、その勝ち上がっていく為の戦術と戦法が踏襲されており辛い練習に耐える精神主義が美化されてまかり通っているのだ」となるのだ。
その精神主義というか同じテイーム内における規律と規範の在り方は「全員一丸となって」であり「長幼の序というか年功序列の尊重」であり「自己犠牲の精神」のように見えるのだ。何だ、それはあらゆる運動部に共通しているのではないかと言われそうだが、私は野球には最も顕著に表れていると思う。マスコミにも罪があるが「犠牲バント」が美化されすぎていてテイームの為には犠牲になる精神が尊いものと評価されている。議会を避ける為に言って置くが、私は犠牲バント多用を否定しているのではない。我が国の野球の文化の特徴だと言っているのだ。
7日のオーストラリアの敗戦を見ていた痛感していたことは同じ窮地に立たされているオーストラリアの18歳以下の者たちにはそのプレシャーに圧迫されている感じがせずに個性的に伸び伸びとやっているかに見えたが、我が方は前夜の敗戦で気落ちしていた点を割り引いても全員が萎縮しており、監督とコーチの指示以外では動くことが出来ずに「テイーム」という型にはめ込まれた没個性の集団のように見えていた。
言い方を変えれば、選手たち一人ひとりを見れば素材としては申し分ないと思わせてくれているが、誰が出てきても投手は同じような綺麗なフォームで個性がないし、打者もアメリカ人に多く見かける個性豊かと言うが一風変わった形で打席に立つものなどいないのだ。打つ方も投げる方もベンチから監督コーチの指示があって動いているのだろうが、没個性というか「全員一丸となっって病」にかかっているのではないかなどと思わせられていた。
高野連乃至はそれぞれの高校の監督さん(と言うが、アメリカ式に投手、打撃、守備、走塁、)トレーニング等々のコーチ入るのだろうか)は永年の歴史と伝統の下に生徒たちを指導しておられるのだろうが、それが後難を恐れて言わせて貰えば「聖地甲子園に出る為のトーナメント方式を勝ち抜く為の枝葉末節までの技巧と教え込みすぎてきた為に、北アメリカや太平洋州の高校生たちのような個性が育たずに、綺麗に小さめに纏まった選手たちが育ってしまったのだと疑っている。奥川恭伸君は我が国の高校生にしては少しだけ変わったフォームだが、個性的とまでは言えない。
回りくどい言い方になってしまったが、私が主張したいことは脇村春夫君が高野連の会長に就任した時に開催したお祝いのクラス会で彼に渡した「甲子園の野球を止めよう。あれに出る為、そして勝つ為に高校生たちを小さく纏めてしまう指導を止めよう、高校生の投手がプロのような多彩な球種を操るような「小成に甘んじるような野球を止めたらどうか」と記載した忠告文(は言いすぎかな?)を再度述べているだけだ。
私はこれまでに繰り返して「野球とは投手が思いきって力一杯の早い投球をして打者と勝負して、打者は目一杯振り回してその速球を打ってやろうと勝負する競技である」と指摘してきた。アメリカに行ってMLBの野球を見ていると,投手は「打てるものなら打って見ろ」と自己最高の投球をして、打者は「それなら勝負して見せよう」と力の限りバットを振って立ち向かっていき競技だと解る。かれらには“for the team”は二の次で「どうだ、俺様は凄いだろう」と誇示し合っているかのように個性のぶつかり合いなのだ。
私にはU―18の大会では「甲子園で勝つ為の野球」が「個性発揮合戦の野球」に負けた文化の違いが出たと思っている。