新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月8日 その2 野球に見る文化比較論

2019-09-08 11:31:33 | コラム
U―18の野球ではオーストラリアにまで捻られた:

7日には2回の途中からだったが、最後までこの何とも言いようない無残な敗戦を見ていた。いきなり結論めいたことから入っていけば「諸悪の根源は高野連である」と「野球とBaseballの違いがイヤと言うほど現れていたこの大会だった」の2点に収まるだろう。間違っていたらご免なさいだが、私はそもそも高野連は高体連には属していない団体であると認識していた。

次に結論ではなく「文化比較論」の一環として指摘しておきたい点がある。それはMLBに行ったダルビッシュが2ヶ月ほどで「アメリかでは(彼が承知していた野球とは別個の)何か異種の競技をやっているようだ」と語った点を挙げておきたい。それほど「野球」と“baseball”は違っているのだが、ダルビッシュは我が国では高野連は言うに及ばすNPBもマスコミも気が付いていない相違に慧眼にも短期間で目覚めたのである。その相違点は私の年来の指摘である「英語とEnglishは全く別個のものである」と同じであろうと思う。

今回のU―18の我が代表を試合はほとんど見ていたが、韓国に負けた試合を除けば「野球における文化の違いがかなり歴然としていた」と言えると思った。それは極論の如くに受け止められる方が多いと思うが、私の我が国の野球と野球界の見方では「甲子園の野球とその聖地での大会に出る為であり、トーナメント方式の試合で勝ち上がる為の野球が頂点にあり、年間に140試合以上もあるNPBのリーグ戦でも、その勝ち上がっていく為の戦術と戦法が踏襲されており辛い練習に耐える精神主義が美化されてまかり通っているのだ」となるのだ。

その精神主義というか同じテイーム内における規律と規範の在り方は「全員一丸となって」であり「長幼の序というか年功序列の尊重」であり「自己犠牲の精神」のように見えるのだ。何だ、それはあらゆる運動部に共通しているのではないかと言われそうだが、私は野球には最も顕著に表れていると思う。マスコミにも罪があるが「犠牲バント」が美化されすぎていてテイームの為には犠牲になる精神が尊いものと評価されている。議会を避ける為に言って置くが、私は犠牲バント多用を否定しているのではない。我が国の野球の文化の特徴だと言っているのだ。

7日のオーストラリアの敗戦を見ていた痛感していたことは同じ窮地に立たされているオーストラリアの18歳以下の者たちにはそのプレシャーに圧迫されている感じがせずに個性的に伸び伸びとやっているかに見えたが、我が方は前夜の敗戦で気落ちしていた点を割り引いても全員が萎縮しており、監督とコーチの指示以外では動くことが出来ずに「テイーム」という型にはめ込まれた没個性の集団のように見えていた。

言い方を変えれば、選手たち一人ひとりを見れば素材としては申し分ないと思わせてくれているが、誰が出てきても投手は同じような綺麗なフォームで個性がないし、打者もアメリカ人に多く見かける個性豊かと言うが一風変わった形で打席に立つものなどいないのだ。打つ方も投げる方もベンチから監督コーチの指示があって動いているのだろうが、没個性というか「全員一丸となっって病」にかかっているのではないかなどと思わせられていた。

高野連乃至はそれぞれの高校の監督さん(と言うが、アメリカ式に投手、打撃、守備、走塁、)トレーニング等々のコーチ入るのだろうか)は永年の歴史と伝統の下に生徒たちを指導しておられるのだろうが、それが後難を恐れて言わせて貰えば「聖地甲子園に出る為のトーナメント方式を勝ち抜く為の枝葉末節までの技巧と教え込みすぎてきた為に、北アメリカや太平洋州の高校生たちのような個性が育たずに、綺麗に小さめに纏まった選手たちが育ってしまったのだと疑っている。奥川恭伸君は我が国の高校生にしては少しだけ変わったフォームだが、個性的とまでは言えない。

回りくどい言い方になってしまったが、私が主張したいことは脇村春夫君が高野連の会長に就任した時に開催したお祝いのクラス会で彼に渡した「甲子園の野球を止めよう。あれに出る為、そして勝つ為に高校生たちを小さく纏めてしまう指導を止めよう、高校生の投手がプロのような多彩な球種を操るような「小成に甘んじるような野球を止めたらどうか」と記載した忠告文(は言いすぎかな?)を再度述べているだけだ。

私はこれまでに繰り返して「野球とは投手が思いきって力一杯の早い投球をして打者と勝負して、打者は目一杯振り回してその速球を打ってやろうと勝負する競技である」と指摘してきた。アメリカに行ってMLBの野球を見ていると,投手は「打てるものなら打って見ろ」と自己最高の投球をして、打者は「それなら勝負して見せよう」と力の限りバットを振って立ち向かっていき競技だと解る。かれらには“for the team”は二の次で「どうだ、俺様は凄いだろう」と誇示し合っているかのように個性のぶつかり合いなのだ。

私にはU―18の大会では「甲子園で勝つ為の野球」が「個性発揮合戦の野球」に負けた文化の違いが出たと思っている。


曽国氏の疑惑だけを採り上げてどうする

2019-09-08 10:16:13 | コラム
文在寅政権の恐るべき真意を考えて見ろ:

7日だったかに、何処だったかBSの局で司会者が「休暇をとってテレビを見ていたら、何処でもここでも競い合う如くに曽国氏問題ばかり」と皮肉っていた。この批判の如き事は、私も昨日採り上げたばかりだった。その時にも指摘したのは「曽国氏をこのまま文在寅大統領が強硬に法務部長官に任命し、自分の進歩派政権の後継大統領に仕立てようとしていることを落ち着いて考えれば、現在の保守派政権の実績を全て破壊し、国際法を無視する反日・抗日政権が今後とも最短でも7年は続くという意味なのである」という点だった。考えただけでもウンザリだ。

文在寅大統領が光復節の演説の演説で披瀝した「朝鮮民主主義人民共和国と統合して日本を凌ぐ経済大国となる」との大目的の為には、如何なる困難をも恐れずに排除していくとの意思表示である。即ち、朝鮮を植民地とした日本こそが諸悪の根源であり、その悪というか「積弊の精算」を敢行していくとの決意表明以外の何物でもなかった。その先にあるものは、アメリカとの同盟関係をも破棄するという「離米」であり、そもそも同盟国ではない我が国との関係の悪化などは眼中にないと考えておくべきだろう。

その文大統領の最側近で後継者と決めているかの如き曽国氏は昨日の聴聞会でも「戦中の半島出身労務者問題の大法院の判決は尊重する」と述べて「文大統領の後継者と目されている反日・抗日の姿勢を明らかにした」ではないか。この曽国氏の件は多くの疑惑があるのとか「タマネギ男」などと面白おかしく特集すべき案件ではないのだ。マスコミがより本腰を入れて強調すべきは「文在寅大統領よりも我が国にとっては遙かに有害な50歳台の大統領になってしまう法務部長官に任命される危険性を秘めた人物だ」なのである。間違っても「芸能ネタ」の如き扱いは避けるべきだ。

悲観論者である私の考えすぎであれば結構だが、文在寅から曽国というこれまでのように同じ派に属する大統領が2人続けば「我が国と韓国との関係の改善」などは(それが何故、何処まで必要かの議論は別にして)望み薄だし、最悪に向かってしまった現状だって出口が見えてくるとは到底考えられない。アメリカ側にも韓国に対する強硬な姿勢を見せる政府高官がおられるが、問題の鍵はトランプ大統領が韓国の処置をその政策の優先順位のどの辺りにおいておられるかでもあると考えている。