新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私の英語論とその思い出

2019-09-14 14:04:50 | コラム
私の英語論:

「語学」という表現はおかしい:

私は事英語の学習については、そもそも「語学」という表現はおかしいと信じている。その理由は簡単なことで「日常の意志の表現と伝達の道具である言葉が学問であるはずがない」と考えているのだ。しかしながら,我が国の学校教育では英語を「科学」(=Science of English)の如くに扱っているだけではなく、恰も数学のように教えているので「学問」だと思い込んでいるか、思い込まされた人が多いのだろうと思う次第だ。

昭和20年の終戦直後には私が住んでいた神奈川県藤沢市でも、当時普及していた言葉だったGIを数多く見かけたし、県の内部の厚木等には基地も多く置かれていたので付近に住む方々は、英語が解らないことに対する恐怖感の如きものがあったのだろうと、子供心でも認識していた。その終戦直後には藤沢市でも回覧で英語が解らない多くの人たちの為に、進駐軍の兵士に何か問いかけられた際に言うべき文章を指示されていたのだった。その文章は未だに鮮明に覚えているので紹介してみよう。

“I am sorry I cannot speak English. Please wait a while. I will bring a man who can speak English.”

だった。文法的にも誤りはなく十分に役に立つ英語ではあるが、今となっては訂正したい衝動に駆られてしまう。それは、私が屡々指摘して来たことで“I cannot speak English.”では英語を既に話しているのであり、ここでは“speak”ではなくせめて“understand”としておく方が現実に近いだろうと屁理屈の一つも言ってみたくなる。

この英文の興味がある点は、この頃から既に「謝る表現」が教えられていたことで、この表現が意味するところまでに英語という言語を理解していなかったか、誰も相互に文化に違いがあるだろうなどと考えが及ぶ訳がなかったのだと思っている。もしも、訂正せよと言われれば “Sorry but I cannot understand English.”辺りになるかと思う。だが、私はこの点を責めるべきではないと思う。それは、当時はほんの数ヶ月前まで敵国であったアメリカの言葉は敵性語して広く教えられていなかったし、占領しにやって来た進駐軍の兵士に対して恐怖感があったのは当然だろうと思う訳だ。より具体的にいえば、彼らはつい先頃までは「鬼畜米英」だったのだ。

私はこの英文が示すことは「英語が話せるということは恰も特殊技能のように受け止められていた」のだろうと思っていた。その英語が話せることを特殊技能と看做す風潮は未だに残っているのではないかと疑いたくなる時すらある。私は旧制中学に入って「敵性語」だった英語の授業があるとはほとんど予想していなかった。ましてや、その先生が何処から見ても白人であり、現在でいう「ハーフ」だったのも本当に意外だった。

私がアメリカの会社に在職中に接してきた我が国の上場企業の精鋭の方々の英語は、多くの場合に我が国独特の「科学として英語」を教えられて育ってこられた為に「話し言葉」と「文語乃至は文学的な表現が混在」する我が国独特の言葉になっている例が多かったのだった。そのような英語であっても、アメリカ人たちに理解されていたのも事実だと言える。だが、矢張り余りにも生真面目で堅苦しい感は免れなかった。

このような文学的というか、アメリカ人たちが“wordy”(=using too many words, especially formal onesとOxfordにある)と形容する英語になっている理由は、私が何度か採り上げて説明していた。その中で最も特徴的であるのは、同僚の一人が我が国の高校3年の英語の教科書を見て叫んだことである。それは「日本では高校の頃から英文学者でも育てようとしているのか。アメリかではこのような難解の文学作品を教科書に採用することはない」だった。私は文科省の意図を善意に解釈して「我が国では英語を通じて生徒たちの教養を高めようとしているのだ」と真面目に考えている。

問題はこの教え方が良いか否かではなく、「我が国では英語教育に対して実用性に乏しいというか、外国人との意思の疎通を図ろうとする為に学校で英語を教えていないので、実際には役に立たないという点を非難する声が上がっている点」が問題なのではないかと思っている。確かに、学校教育では実用性を等閑にした「科学としての英語」の教え方をしていると思う。だが、英語を教える目的が実用性というか「会話」の能力を高める点にはないと断言された高校の英語教師がおられた以上、話せるようにしてくれとの要求は「木に登って魚を求める」ようなことだろうと言える。だが、どうやら現在までの英語教育の在り方を再検討する時期が来ているのではないかと考えてもいる。

そう考える根拠には、私は近頃来日する外国人たちがあれほど正確に日本語で自己表現が出来ていることの背景に何があるかを本気で追求するべきだと思っていることがある。これも何度が採り上げた実例で「オレゴン大学(州立大学だ)で2年間だけ日本語を勉強しただけのアメリカの青年が、明治大学に留学して日本語での講義に何の不自由もなくついて行けている」という事実をどう考えるかというのもある。更には国家的プロジェクトで英語教育をしているという韓国に及ばない例をアメリカで数多く見たというのも残念な事実だ。それにも拘わらず,未だに英語の試験の成績ばかりを重視して、大学入試にTOEIC等の点数を用いようなどと言っているのでは救いがないと思っている。


英語の発音:
ここでは話題を変えて、英語の発音を考えて見よう。私の見方では英語が「綺麗だ」と感じさせる為には「発音が(native speakerたちに近くて)正確で美しいこと」を第一に挙げたくなる。その先にある英語での表現乃至は説明の内容の質までを判定することは別な次元のことになるので、ここでは詳細に論じることはないと思う。

私は我が国の英語教育における問題点の一つには「発音」があると指摘して来た。後難を恐れずにその原因と思うことを挙げれば「そもそも英語の先生方の発音がローマ字的且つカタカナ語的な点にあるという点だ。私は幸運にも最初にアメリカ人そのものの先生に教えられたが、そうでなかった場合には、そうは行かないのだろうと思っている。私はだからと言って「何処の馬の骨」かも解らないようなnative speakerに教えて貰うのはもっと危険だと言いたい。

それは、あの広いアメリカには南部訛りもあれば東海岸独特の早口もあるのだ。更に、アメリカの女性に家庭教師を依頼した家庭で、その女性が“cow”を「キャウ」、“counter”を「キャウンター」と発音したのを聞いて即座に契約解除したという例もある。だが、London cockneyやオーストラリアやニュージーランドの訛りはそんな程度ではないのだと認識しておくべきだ。

私は我々にとって英語の発音を困難にさせるその最大の理由の一つには「英語には日本語にはない音や顔の筋肉の使い方があるし、“th“だの“l”だの“r”のように舌の使い方が難しい発音もあれば、“f”と“v”のような下唇を噛む音もあという独特の発音」という点だと認識している。これらの他にアクセントだのイントネーションや連結音があるのだから、なお一層面倒になるのだ。

畏友・佐藤隆一氏によると綺麗な発音が出来る者が多い韓国でも「あのハングルの文字では表現に限度があり、ハンバーガーという表示は出来ないので、ヘンボゴになっている」のだそうだ。私も実際にソウルで経験したことは「メックスウエルのコピー」というのに出会ったが、それはMaxwell のCoffeeのことだった。言うなれば、これ即ち韓国訛りの英語なのだろう。

我が国では上述の英語独特の発音を克服出来ていない先生方が最初に教えておられるのだから、学んでいる方がそれ以上にnative speakerに近い発音になる訳がないのだと言えるだろう。だが、繰り返して強調するが「問われるべきは発言の内容」なのである。良い例を挙げれば、1994年7月に故宮沢喜一元総理が大いに語られたパネルディスカッションでの発言をその場で聞いたことがあった。宮沢元総理の発音はカタカナ語的だっただが、内容の質は誠に高く恐れ入って聞いていたものだった。

確かに発音は良いに越したことはないのだが、その壁を越えた英語力を備えた方には仕事の場以外でも何人かにお目にかかっていた。でも、私は「発音が綺麗なことは七難隠す」と言って指導してきた。発音を綺麗で正確にする為には、最初に英語を教えられた先生が何処まで正確で綺麗な発音が出来ているかに懸かっていると言えると思う。私の場合の幸運は、その最初の先生がアメリカ人のハーフで完璧なアメリカ発音を聞かせて下さったことだった。英語にはWell begun is half done.と言う諺がある。