英語とは:
私は英語を教える時と学ぶ時に最も重要であり肝腎なことは「英語とは我が国とは文化(=cultureのことであり、ある特定の集団の言語・風俗・習慣・思考体系を意味する)が全く異なる外国の言葉であって、「科学として教えるとか学ぶべきものではない」から入っていくべきだと信じている。故に、私は「我が国の学教教育のように、児童や生徒の優劣の差を付ける為に数学のように教えてはならないものである」と長年主張してきたのだった。
私はアメリカの大手製造会社の日本駐在マネージャーとして22年半の間対日輸出を担当してきたので、その間に仕事で総計約50回も我が国とアメリカの間を往復してきた。そして、アメリカに到着する度に「また、この異文化の国に来てしまったのだ」という緊張感に身が引き締まる思いだった。
その異文化に順応していく為には先ず取り組んだことは「頭の中を空にしてというか、頭の中の言語を司るギアを英語に切り替えて、英語だけで考えて仕事をする態勢を整える」だった。この作業は到着当日には完全に切り替わらず、最短でも12時間を必要としていた。何故かといえば、一旦本部に入ればそこから先は帰国するまで先ず日本語で物事を考えていたのでは仕事にならないのだから。簡単に言えば「我が国の会社組織とは全く別個の世界で彼らの一員として行動する以上、日本語の思考体系では齟齬を来す危険性があるのだ。
では、日本とは何処が違うかについては再三再四述べてきたが、幾つかの例を挙げて置こう。副社長兼事業本部長には一つの会社の社長と同じように「製造・販売、総務、経理、人事、管理等々の全ての分野に絶対的な権限を持っていること」と「彼らは二進法的な思考体系で物事を処理し決済していく」辺りを挙げておこう。
これだけでは不十分だろうから、文化の違いの一例を挙げておけば「英語の世界では個人的なことを訊き出そうとすることは非礼に当たる」という意外な文化があるのだ。簡単に言えば「これから何処に行くのですか」とか「日本に何をしに来たのですか」とか「結婚していますか」などはその範疇に入る好ましくない質問で「余計なお世話だ」と蹴飛ばされるだろう。即ち、“None of your business.”と言われるのが落ちだ。
アメリカ人には日本人が何に何故悩むにかは解るまい:
ごく一般のアメリカ人たちが「日本の人が英語を学ぶに当たってどういうことが理解出来ずに悩んでいるかなどは認識出来ているだろうとか、理解しているだろう」などと考えないことだ。拙著「アメリカ人は英語がうまい」で採り上げたように、私は生まれて初めてサンフランシスコ空港に降りたって、機内で知り合ったアメリカ人に乗り継ぎ便を待つ間に“I will buy you a drink.”と誘われて当惑した。私にはそれがアメリカ人の間ではごく普通に使われている「一杯おごるよ」という意味だとは知らなかったのだから。アメリカ人の中に入って暮らせば、日常茶飯事でこういう種類の俗語というか慣用句ばかりが出てくるので,馴れるまでは多いに苦労させられると思っていて良いだろう。
このような “buy you” を使う発想は我が国の英語教育にはないと危惧するのだ。因みに、プログレッシブ和英には Shall I treat you a drink?という例文が載っている。アメリカ人の言い方では、他には“I will be the host.”などという表現もある、念の為。
また、その数日後にM社の本社でコーヒーを持ってきてくれることになった秘書さんに “How do you take it?”と尋ねられて「コーヒーカップから飲むに決まっているじゃないか」と一瞬悩んだ。だが、恐らく「砂糖とクリームは要るのか」と尋ねていると思って正解だった。アメリカ人たちは我々がこんな事で悩むとは想像もしていないと思うが如何。
これも何度か採り上げた翻訳家の誤訳にアメリカ人たちが仲間内でごく普通に使う口語的表現である babyの使い方を知らなかった悪い例があった。これは「仕事、責任で処理すること」という意味で使い“Hey, that is your baby. None of mine.”などのように使われているのだ。即ち、彼らの中で日常的に過ごしていないと、出会うことがない表現なのだ。こういう言葉遣いや“idiomatic expressions” 等は馴れないと苦しめられるのである。
私がここまでで強調しておきたいことは「私はアメリカ人乃至は native speakerに英語を教えられることには余り意味がない」ということなのだ。即ち、我々日本人に英語を教えようとするアメリカ人を始めとする外国人たちは、日本とアメリカにおける「英語とEnglishの違い」を弁えており、尚且つ文化の違いにまで精通している必要があるのだ。アメリカ人、それも私が好んで用いる表現の「支配階層」にある人たちと意思の疎通を図れるような英語を教えられるような外国人がどれほどいるかという問題だ。
発声法が違う:
少し異なった角度から英語の悩ましさを考察してみよう。気が付いておられる英語の先生は案外に少ないのではと私は危惧するのだ。私は「英語と日本語の大きな違いの一つに発声法がある」と経験上も考えている。日本語は大きく口を開けて話す言語ではないが「英語は口先と言うよりも『腹の底から』の発声をする言語である」と言えば解りやすいかと思う。
私はアメリカに出張してその英語式の発声になるまでに、余程アメリカに馴れてからは半日もあれば十分だったが、当初は違いを把握できずに何故あのような声で話せるのかと悩まされた。この発声は表現とは異なって真似が出来る性質ではなかったのである。この点については別の機会に詳しく述べようと思うが、英語の発音は日本語とは使う顔の筋肉が違うとだけ指摘しておこう。
この発声の違いだが、私は電車の中などで英語圏の者が乗っていれば直ぐに解る。それは、日本語とは波長が違うのではなく、音域が日本語よりも高いのだとの結論に達した。因みに、中国人同士が話し合っていると騒がしく聞こえるのだが、中国語の音域も同様に高いようだ。その違いが発声法にあると言いたいのである。
結び:
私も何時の間にか彼らの中で過ごす時間が長くなったお陰で筋肉の使い方を「習うよりは馴れろ」で覚えたというか真似ができるようになってはいた。だが、所詮は獲得形質に過ぎないので、英語での生活から離れれてしまえば、元の日本語式発声に戻ってしまったようだ。
私は重要なことは、そのアメリカ人並みの発声法を目指すことも必要であるが、文法的にも正しく且つ品格が備わった何処に行っても恥ずかしくない英語で、自分の思うところが言えるようになるように勉強することが先決問題であると申し上げて終わる。
私は英語を教える時と学ぶ時に最も重要であり肝腎なことは「英語とは我が国とは文化(=cultureのことであり、ある特定の集団の言語・風俗・習慣・思考体系を意味する)が全く異なる外国の言葉であって、「科学として教えるとか学ぶべきものではない」から入っていくべきだと信じている。故に、私は「我が国の学教教育のように、児童や生徒の優劣の差を付ける為に数学のように教えてはならないものである」と長年主張してきたのだった。
私はアメリカの大手製造会社の日本駐在マネージャーとして22年半の間対日輸出を担当してきたので、その間に仕事で総計約50回も我が国とアメリカの間を往復してきた。そして、アメリカに到着する度に「また、この異文化の国に来てしまったのだ」という緊張感に身が引き締まる思いだった。
その異文化に順応していく為には先ず取り組んだことは「頭の中を空にしてというか、頭の中の言語を司るギアを英語に切り替えて、英語だけで考えて仕事をする態勢を整える」だった。この作業は到着当日には完全に切り替わらず、最短でも12時間を必要としていた。何故かといえば、一旦本部に入ればそこから先は帰国するまで先ず日本語で物事を考えていたのでは仕事にならないのだから。簡単に言えば「我が国の会社組織とは全く別個の世界で彼らの一員として行動する以上、日本語の思考体系では齟齬を来す危険性があるのだ。
では、日本とは何処が違うかについては再三再四述べてきたが、幾つかの例を挙げて置こう。副社長兼事業本部長には一つの会社の社長と同じように「製造・販売、総務、経理、人事、管理等々の全ての分野に絶対的な権限を持っていること」と「彼らは二進法的な思考体系で物事を処理し決済していく」辺りを挙げておこう。
これだけでは不十分だろうから、文化の違いの一例を挙げておけば「英語の世界では個人的なことを訊き出そうとすることは非礼に当たる」という意外な文化があるのだ。簡単に言えば「これから何処に行くのですか」とか「日本に何をしに来たのですか」とか「結婚していますか」などはその範疇に入る好ましくない質問で「余計なお世話だ」と蹴飛ばされるだろう。即ち、“None of your business.”と言われるのが落ちだ。
アメリカ人には日本人が何に何故悩むにかは解るまい:
ごく一般のアメリカ人たちが「日本の人が英語を学ぶに当たってどういうことが理解出来ずに悩んでいるかなどは認識出来ているだろうとか、理解しているだろう」などと考えないことだ。拙著「アメリカ人は英語がうまい」で採り上げたように、私は生まれて初めてサンフランシスコ空港に降りたって、機内で知り合ったアメリカ人に乗り継ぎ便を待つ間に“I will buy you a drink.”と誘われて当惑した。私にはそれがアメリカ人の間ではごく普通に使われている「一杯おごるよ」という意味だとは知らなかったのだから。アメリカ人の中に入って暮らせば、日常茶飯事でこういう種類の俗語というか慣用句ばかりが出てくるので,馴れるまでは多いに苦労させられると思っていて良いだろう。
このような “buy you” を使う発想は我が国の英語教育にはないと危惧するのだ。因みに、プログレッシブ和英には Shall I treat you a drink?という例文が載っている。アメリカ人の言い方では、他には“I will be the host.”などという表現もある、念の為。
また、その数日後にM社の本社でコーヒーを持ってきてくれることになった秘書さんに “How do you take it?”と尋ねられて「コーヒーカップから飲むに決まっているじゃないか」と一瞬悩んだ。だが、恐らく「砂糖とクリームは要るのか」と尋ねていると思って正解だった。アメリカ人たちは我々がこんな事で悩むとは想像もしていないと思うが如何。
これも何度か採り上げた翻訳家の誤訳にアメリカ人たちが仲間内でごく普通に使う口語的表現である babyの使い方を知らなかった悪い例があった。これは「仕事、責任で処理すること」という意味で使い“Hey, that is your baby. None of mine.”などのように使われているのだ。即ち、彼らの中で日常的に過ごしていないと、出会うことがない表現なのだ。こういう言葉遣いや“idiomatic expressions” 等は馴れないと苦しめられるのである。
私がここまでで強調しておきたいことは「私はアメリカ人乃至は native speakerに英語を教えられることには余り意味がない」ということなのだ。即ち、我々日本人に英語を教えようとするアメリカ人を始めとする外国人たちは、日本とアメリカにおける「英語とEnglishの違い」を弁えており、尚且つ文化の違いにまで精通している必要があるのだ。アメリカ人、それも私が好んで用いる表現の「支配階層」にある人たちと意思の疎通を図れるような英語を教えられるような外国人がどれほどいるかという問題だ。
発声法が違う:
少し異なった角度から英語の悩ましさを考察してみよう。気が付いておられる英語の先生は案外に少ないのではと私は危惧するのだ。私は「英語と日本語の大きな違いの一つに発声法がある」と経験上も考えている。日本語は大きく口を開けて話す言語ではないが「英語は口先と言うよりも『腹の底から』の発声をする言語である」と言えば解りやすいかと思う。
私はアメリカに出張してその英語式の発声になるまでに、余程アメリカに馴れてからは半日もあれば十分だったが、当初は違いを把握できずに何故あのような声で話せるのかと悩まされた。この発声は表現とは異なって真似が出来る性質ではなかったのである。この点については別の機会に詳しく述べようと思うが、英語の発音は日本語とは使う顔の筋肉が違うとだけ指摘しておこう。
この発声の違いだが、私は電車の中などで英語圏の者が乗っていれば直ぐに解る。それは、日本語とは波長が違うのではなく、音域が日本語よりも高いのだとの結論に達した。因みに、中国人同士が話し合っていると騒がしく聞こえるのだが、中国語の音域も同様に高いようだ。その違いが発声法にあると言いたいのである。
結び:
私も何時の間にか彼らの中で過ごす時間が長くなったお陰で筋肉の使い方を「習うよりは馴れろ」で覚えたというか真似ができるようになってはいた。だが、所詮は獲得形質に過ぎないので、英語での生活から離れれてしまえば、元の日本語式発声に戻ってしまったようだ。
私は重要なことは、そのアメリカ人並みの発声法を目指すことも必要であるが、文法的にも正しく且つ品格が備わった何処に行っても恥ずかしくない英語で、自分の思うところが言えるようになるように勉強することが先決問題であると申し上げて終わる。