英語の発音について思うこと:
私は英語の発音については「綺麗であり正確であり元の英語に近いのに越したことはない」とずっと主張して来た。しかしながら,一般論として我が国では発音がカタカナ語式であったりローマ字的である人が圧倒的に多いのは否定出来ない事実だと経験上も考えている。そうなってしまった理由として先ず考えられることは「そもそもそのような発音しか出来ない先生方に育てられた英語の先生方が多いからだ」と推定している。もしも、我々日本人がnative speakerに近いような発音まで出来るようにしようと思えば、現在の先生方の奮起を促すしかないと思うのだ。
ではあっても、20年以上の対日交渉を経験する間には、キチンとした英語力とある程度以上綺麗で正確な発音になっている方々にも出会ってきたものだった。その中には帰国子女もおられたが、私のように旧制中学1年次に幸運に恵まれた例もあるが、先生方の発音の指導法次第では正確な発音が出来るようになるものだと信じている。発音の指導の目的でnative speakerを活用するのは中学校(現在では小学校も入るか)初期においては有効かとも思う。
だが、外国人を採用する際には、出自がハッキリしていて正確で品位がある英語を話す人物を選択せねばならない。私は遺憾ながらそういう者が日本まで職を求めてくる例は極めて少ないと危惧するものだ。良家のご子息たちでハーバートでMBAを取得したような前途有為な青年が日本で英語を教えようとしてやってくるかどうかは、深く考えなくても解りそうなことではないか。
また発音の内容だが、我が国では何故か最も重要な同盟国であるアメリカ式も発音よりも世界的には、英連邦の存在を考えてもその人口がアメリカよりも少ないとしか思えない英連合王国(UK)のQueen’s Englishを有り難がる風潮があ。私は戦後間もなくから自然にアメリカとUK式の中間が最も発音がしやすいと考えて、その方向を目指してきた。具体的にはアメリカの“r”の前に母音が来る発音は避けるようにして、後はアメリカ西海岸のアクセントを真似たと言うこと。
この私の中間方式の発音はUK系であるカナダ、オーストラリア(ニュージーランドは訪れる機会がなかった)では“beautiful English”と言われたのだった。理由は「アメリカン・イングリッシュではないから」だった。このことをアメリカの同僚に語って見れば「何処がQueen’s Englishか。君はアメリカン・イングリッシュそのものの発音だ」と大笑いされた。この挿話は双方で嫌い合っているという実体を表していると思った次第だ。
色々と論じてきたが、私は発音には固執しない。何と言っても肝腎なことは「英語の質であり、論旨の構成能力であり、説得力の有無」であるからだ。彼らに負けない交渉力を身につける為には、英語式三段論法的な議論を展開出来るようにdebate力を備えておく必要がある。そこに求められる要素は「慣れと度胸」であり「論争と対立を恐れない強さ」と「感情的にならない」という3点だと思っている。
最後に言っておきたいことは、アメリカ人たちは厳しい論争をした後でも「今日は良い討論が出来て良かった。ここまでにして食事でもするか」と言って握手をして場所を変える。そこで、私が何度か経験したことを挙げておこう。それは得意先と激しいクレーム補償等の交渉をした後で、我々の方から「本日はこれにて終了として、デイナーでも如何ですか」と提案した時のことだった。先方は寧ろ激怒されたかの表情で「こんな不愉快な議論をさせられた人たちと飯を食う気分にはなれない。断って下さい」と感情的になって拒否されたのだった。
私はこういう結果になるのは、我が国とアメリカの文化の違いと国民性の相違の表れだと思って受け止めていた。だが、苦心して通訳をして何とか交渉を妥結させた者としては、ドッと疲れが出たのだった。
私は英語の発音については「綺麗であり正確であり元の英語に近いのに越したことはない」とずっと主張して来た。しかしながら,一般論として我が国では発音がカタカナ語式であったりローマ字的である人が圧倒的に多いのは否定出来ない事実だと経験上も考えている。そうなってしまった理由として先ず考えられることは「そもそもそのような発音しか出来ない先生方に育てられた英語の先生方が多いからだ」と推定している。もしも、我々日本人がnative speakerに近いような発音まで出来るようにしようと思えば、現在の先生方の奮起を促すしかないと思うのだ。
ではあっても、20年以上の対日交渉を経験する間には、キチンとした英語力とある程度以上綺麗で正確な発音になっている方々にも出会ってきたものだった。その中には帰国子女もおられたが、私のように旧制中学1年次に幸運に恵まれた例もあるが、先生方の発音の指導法次第では正確な発音が出来るようになるものだと信じている。発音の指導の目的でnative speakerを活用するのは中学校(現在では小学校も入るか)初期においては有効かとも思う。
だが、外国人を採用する際には、出自がハッキリしていて正確で品位がある英語を話す人物を選択せねばならない。私は遺憾ながらそういう者が日本まで職を求めてくる例は極めて少ないと危惧するものだ。良家のご子息たちでハーバートでMBAを取得したような前途有為な青年が日本で英語を教えようとしてやってくるかどうかは、深く考えなくても解りそうなことではないか。
また発音の内容だが、我が国では何故か最も重要な同盟国であるアメリカ式も発音よりも世界的には、英連邦の存在を考えてもその人口がアメリカよりも少ないとしか思えない英連合王国(UK)のQueen’s Englishを有り難がる風潮があ。私は戦後間もなくから自然にアメリカとUK式の中間が最も発音がしやすいと考えて、その方向を目指してきた。具体的にはアメリカの“r”の前に母音が来る発音は避けるようにして、後はアメリカ西海岸のアクセントを真似たと言うこと。
この私の中間方式の発音はUK系であるカナダ、オーストラリア(ニュージーランドは訪れる機会がなかった)では“beautiful English”と言われたのだった。理由は「アメリカン・イングリッシュではないから」だった。このことをアメリカの同僚に語って見れば「何処がQueen’s Englishか。君はアメリカン・イングリッシュそのものの発音だ」と大笑いされた。この挿話は双方で嫌い合っているという実体を表していると思った次第だ。
色々と論じてきたが、私は発音には固執しない。何と言っても肝腎なことは「英語の質であり、論旨の構成能力であり、説得力の有無」であるからだ。彼らに負けない交渉力を身につける為には、英語式三段論法的な議論を展開出来るようにdebate力を備えておく必要がある。そこに求められる要素は「慣れと度胸」であり「論争と対立を恐れない強さ」と「感情的にならない」という3点だと思っている。
最後に言っておきたいことは、アメリカ人たちは厳しい論争をした後でも「今日は良い討論が出来て良かった。ここまでにして食事でもするか」と言って握手をして場所を変える。そこで、私が何度か経験したことを挙げておこう。それは得意先と激しいクレーム補償等の交渉をした後で、我々の方から「本日はこれにて終了として、デイナーでも如何ですか」と提案した時のことだった。先方は寧ろ激怒されたかの表情で「こんな不愉快な議論をさせられた人たちと飯を食う気分にはなれない。断って下さい」と感情的になって拒否されたのだった。
私はこういう結果になるのは、我が国とアメリカの文化の違いと国民性の相違の表れだと思って受け止めていた。だが、苦心して通訳をして何とか交渉を妥結させた者としては、ドッと疲れが出たのだった。