新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月19日 その2 MLB(メイジャーリーグ)に思うこと

2020-10-19 11:32:24 | コラム
益々日本の野球選手には不向きな世界になってきたのでは:

このところ不順な天候と新型コロナウイルスの何時果てるとも知れない感染の状況による恐怖感から、外出の機会が減ったので、ついついMLBの野球(の中継)も見る機会が増えた。思い起こせば、最後にMLBの野球をシアトルで見たのは2007年の9月11日だった。13年も前のことになっていた。私はそれ以前から「MLBの野球は往年の優れた技術を見せる楽しさから離れて、身体能力ショート化してしまった」と評してきた。

その理由というか根拠は「嘗てはアフリカ系のアメリカ人が増えても、彼等アメリカ人は高校か大学を出るまでの間に三大スポーツであるベースボール、フットボール、バスケットボールの何れをも経験して、身体能力と体幹を十分に鍛えて基礎を作った上に、各競技の技術と理論を習得して、プロになる前にはどれを選ぶかと熟慮するものだから」なのである。アメリカの住宅地を歩いて(ドライブして?)みれば解ることで、大多数の家のガレージにはバスケットボールのリングが設けてあるし、街中至る所に(大袈裟か?)にバスケットボールのコートがあるのだ。

ところが、私が在職中の1990年代でも、既にMLBにはドミニカであるとかジャマイカであるとかベネズエラ等の南アメリカ勢が多数進出してきていた。キューバからの参入は当時はなかったと記憶する。彼等はアメリカのように複数の競技をこなしてから職業としてベースボールを選択したのではないようで、言うなれば野球しか知らない単能機のような存在だと私は見ている。しかも、彼らのほとんどがアフリカ系であって、大いに身体能力が優れているのだ。ドミニカなどには野球教室まで設けられていて、選手を育成しているようだ。

その野球だけを覚えてプロになった南アメリカ出身の選手たちは、その優れた身体能力を十二分に活用して今やバスケットボールやフットボールの世界にも大多数進出している。MLBを見ていて感じることは、野球の質がかなり大雑把だということ。かなり良く打つし、走るし、投手ともなれば軽々と150 km台の速球を当たり前のように投げ込んでくる。守備面でも二塁手などはセンター前に抜けそうなゴロをダッシュして捕球し飛びがりながら身体を空中で逆転させて一塁に見事な送球をしてみせる。これは野球の技術の巧拙の問題ではなく、身体能力の誇示だと思う。

打つ方でも、大なり小なり白人の選手にも見られる現象で、試合のその局面で我が国の野球で求められている「テイーム・バッテイング」などに配慮することなく「自分の成績の為」を重視してカウントの条件も忘れて振り回してしまう傾向が顕著なのだ。特に彼等は日本の投手が得意とする「落ちる球」(フォークボールというかスプリットフィンガーファストボール)に弱く、虚しく空気を切る打法を展開するのだ。見ていて虚しいものがある。それでもNPBの球団はアフリカ系南アメリカ選手を連れてくるのだ。

話をMLBに戻そう。今シーズンは新型コロナウイルスの悪影響もあってか、シーズン前の練習も不十分なままに我が国から新たにMLB入りした筒香も秋山も山口俊も皆不出来だった。特に、私は未完成でアメリカの野球には不向きではと懸念していた筒香は無残にも1割台の打率に終わり、ポストシーズンの試合にも出して貰えていなかった。何処かで報じていたが、彼は当たり前のように150 km台の速球を投げてくるMLBの投手に合わせられなかったと告白していたとか。要するに「身体能力ショーの世界」には未だ不適格だったということだと見ている。

その点では1972年に何も知らずにアメリカの会社に転じて痛感したのが「全てが彼らの身体能力と体格に基づいて設定されているので、160 cmにも満たない身長で60 kg前後の体重の体力の者が迂闊に入って行くべき世界か」ということだった。その世界に入れば頼りに出来るのは後にも先にも自分だけで、回りの誰もが自分のことだけで手一杯で他人のことまで心配している暇もなく、第一に他人の世話をする為の給与など貰っていない。アメリカに行って野球をやろうと思えば、先ずそのような「自分第一」というような何処かの大統領のことを知ってからにすべきだと言うことだ。

現実にはその他に言葉の問題もあるのだが、以前にも指摘したことは「アメリカ、しかも西海岸のカリフォルニア州に行こうと思えば、英語よりもスペイン語と韓国語を習得しておく必要がある」のだ。身体能力ショーに参加出演するだけでも大きな負担になることに加えて、仮令通訳を付けて貰えても同僚と自由に会話できないとすれば、それこそフラストレーションだけではなくストレスも加わるだろう。しかも野球では我が国では偶にしか出会わない150 kmの速球に毎日出会うのだから、負担が大きかったのだろうと察している。

折角大きな夢と希望を抱いてアメリカに渡った彼等には「来年には新型コロナウイルスが収束して、シーズン前に十分に練習が出来て、身体能力を誇示する連中に負けないようになること」を期待しよう。だが、外国に出て行くことは「予測したかあるいは予期した以上に難関が多いものだ」と一般論としても指摘しておくものだ。


「何故我が国の労働生産性が低いのだろうか」改訂版

2020-10-19 10:27:14 | コラム
何故我が国の労働生産性が低いのか:

紙業タイムス刊行のFuture誌10月26日号の我が国の労働生産性の低いことを採り上げた記事を読んで、私なりに下記のように「何故か」を考えて見た。

私は1972年に初めてアメリカに出張の機会を得て、初めて転進先のMead社でアメリカの生産の現場に入った。その規模には圧倒された。更に75年からウエアーハウザーに転じて紙パルプ産業と関連する業界の製造現場も見学することも出来た。紙の印刷加工業界の現場でやや意外な発見だったことは、世界の最新の設備が導入されていなかったことだ。解りやすく言えば、我が国の方が最新鋭の設備を持っている点である。これは労働生産性の問題と言うよりも、アメリかでは利益が十分に上がらなければ、新規の設備投資はしないという資本主義を貫いていた為であると考えた。

このように初めてアメリカの産業界に接して痛感したことがあった。それは「アメリカの産業界は生産効率を追求する為に『少品種大量生産』に徹している。その為には最小限の人員を配置して人件費等のコスト軽減を図り、それ相当の効果を上げている。それだからこそ労働生産性が高いのではないのか。従って(その当時は)国際市場においても高い競争能力を有していたのではないか」だった。念の為に再度確認して置くが、1970年代後半のことである。

しかも、アメリカの製造業では少品種大量生産に適したようなスペックを設け、需要者の需要動向などに対しては我が国ほど敏感に配慮していないと見えたのだった。カタカナ語にすれば「需要家のニーズ」を満たすことの優先順位は低いようだという意味だ。即ち、飽くまでも生産効率を追求しているのだった。また、生産効率を高め利益を最大化することが株主に報いる為でもあったと私は解釈した。

しかも、アメリカの最終消費者たちは我が国よりも遙かに品質に対して寛容で、その製品が使用目的に叶ってさえいればいれば満足するし、外見が美しいかどうかなどには、特に気にしていないという傾向が顕著なのだ。その点については、これまでに繰り返して指摘して来た「アメリカの労働力の質の低さがもたらす製品の質に対して敏感ではない」ということだ。極論を言えば、そうであるからこそ、細かい点にまで配慮が行き届いた日本車が「品質が良い」と受け入れられ良く売れたのだと考えている。

一方の我が国では、私は「多品種少量生産に徹していて、労働力の質の高さと高い技術力で高品質の製品を生み出し、国際競争力までをも高めることに成功していた」のだった。その背景に「労働力の教育程度が高く、器用に小回りする技術的な能力があったこと」があった。更に、嘗ては「二重構造」などと自虐的に呼んでいた下請けの中小企業の職人技的技術力の有効活用があったと考えるようになった。下請けの能力の高さを表す例には、紙パルプ産業の関連産業である印刷業界には、その高い技術力を活かして下請けに徹し、営業担当者不在の中小印刷業者があったほどだった。

私は「下請けの中小能力に依存してきたことだけが、労働生産性の低さを招いたということの主たる原因である」とまで断定するものではない。だが、そう考えても良いような要素はあると思っている。我が国の労働生産性が他国との比較で低いのは、取りも直さず中小企業の数が圧倒的に多いことにあるようには思える。Future誌の記事を読んで思い出したのは「アメリカで経験した限りでは、中小企業を下請けにしている例を知らない。ウエアーハウザーには多くの大小の出入り業者があったが、下請け(sub-contractor)という言葉を聞いたことはなかった」事だった。

今になって気が付いたことがあった。それは、昨日採り上げた世界各国の労働生産性の上位の国のリストには中国が一度も登場してこなかった点だった。何故だろう?