新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月24日 その2 アメリカ合衆国の会社に転進して学んだこと

2020-11-24 15:27:19 | コラム
不覚にも如何なる世界かも知らずに転進してしまった;

Mead Corp.時代:


1972年8月に39歳にして、生まれて初めてアメリカ合衆国本土に足を踏み入れた。しかも、何も知らずに単身で羽田から飛行機に乗ってしまったのだった。これは最初に転進したMead Corp.でのトレーニングと称する顔見せの旅で、所属するパルプ事業部の本部や本社と工場に挨拶に回る25日もの出張だった。持ち合わせていた武器は「17年間の我が国の紙パルプ業界での紙類の販売の(英語とは全く無縁の)経験と、13歳から習い覚えた英語で自分の考えがほぼ自由に表現が出来る能力」だけだった。

4日目だったかにオハイオ州デイトンの本社に言われた通りに朝7時半過ぎに入って行った。最初に会うべき幹部が未だ出社しておられないというので、既に出社しておられた約束の2番目の幹部のオフィスに入った。そこで自己紹介が終わってコーヒーを飲むかということになった。すると、その偉い方が立ち上がってオフィスの外の秘書さんに“Would you please?”という余り使ったこともないような丁寧な口調で依頼されたのだった。「なるほど、ladies firstの国では幹部と雖も、秘書の女性にこのように丁寧に話しかけるのか」と、大袈裟に言えば「目から鱗が落ちる」状態だった。

その後、パルプ事業部の本拠地であるコネティカット州のグリニッチに移動して、副社長と営業担当マネージャーとその若いお嬢さんと夕食会となった。その中学生くらいと見た見目麗しき令嬢が食事も終わりかけた頃に立ち上がって「小母様の様子を見に行くので」と言って席を外した。何のことか解らずにいると、副社長が解説してくれた「君は初めてアメリカに来て、やれヒッピーだの麻薬だのとアメリカの若者どもの行いというか、風紀が乱れているとでも聞いてきたのではないか」と言って。

彼が言うのは「そういう現象はアメリカの限られた一部の層で起きていることで、今彼女が言ったことは想像した通りに手洗いに立つことを表現したまでだ。直接的な言い方をしないのが我々のアッパー階層なのだ。そういう点を『アメリカの上流階級とは』と、ここでしっかりと認識しておいて欲しい」だったのだ。Meadは元はと言えば、ニューヨークに本社を置いていた東海岸の格調高い会社なので、そういう点ではかなり厳格な会社だったのだと、西海岸のウエアーハウザーに転進してから、これらの2社の文化の違いを知って、あらためて痛感させられた。

1974年4月にフロリダで開催されたパルプ部の部会(Division meeting)に参加して、東海岸の会社の格式を思い切り学ばせられた。部会は月曜から金曜日の午前中だけ文字通りの勉強会だった。午後は全て自由行動で夕食は全員が集合するのだが、毎晩異なった趣向が凝らされていた。この会にはオウナー兼副社長も参加されたいた。その為だけではあるまいが催し物とに「ドレスコード」があり、皆が「如何なる服装で参加すべきか」と趣向を凝らすのだった。即ち「格調が高すぎる服装はoverdressedと批判され、逆に砕けすぎるとunderdressedだと笑われる場合が生じるのだ。

パルプ部の社長兼事業本部長などは午前中のセッションと午後の会合では既に衣装替えされたいたし、夕食会の服装は5日間全部異なっていた。何が言いたいかと言えば「アメリカ東海岸の会社の格式というか仕来りはこういうものだ」なのだ。私は仰天したというよりも、毎日が異文化の勉強会の如くだった。この部会にはアレマング社長も途中から参加されたが、誠に偉ぶらない方で、私とも気軽に雑談をされ、オウナー兼副社長と同様に「上から目線ではない、親しみやすさ」を感じさせられた。

社長との雑談の内容は未だに記憶している。それは「いきなりアメリカの会社に転進したら、英語という言語は面倒ではないか」という言わば「お気遣い頂いた話題」だった。社長が挙げられた面倒な例は「長いこと英語圏ではない国で過ごしていた親戚のお嬢さんが帰国され、“It costed me ~.と思わず言ってしまった」という英語における動詞の入り組んだ変化は外国人を悩ましている。アメリカ人でもこう言う誤りをするので厄介だ」というものだった。上流社会では「こういう文法の誤りは無教養と看做される」と大学で教えられた通りだったと、社長に申し上げた。

この時ではないが、1972年の初出張の時はカナダBC州のヴァンクーヴァーから帰国した。この空港の免税品の売り場で日系カナダ人の販売員の小母様の前で、ついうっかり“Jesus Christ!”と言ってしまって、彼女の声涙ともに下る大叱責をされた件はここまでに何度も採り上げて反省した。これも、私が繰り返して指摘して来たswearwordであり、苟も正常な教育を受けた者が他人様の面前や公開の席では絶対に使ってはならない汚い言葉なのだ。それを承知でつい図に乗って使ったのは私の失態であり、弁解の余地などなかった。重ねて言うが「この言葉は絶対に使うな」なのだ。

1975年3月にはアメリカ西北部のワシントン州タコマ(後にフェデラルウエイと変更)に本社を置くウエアーハウザーに転進して、どちらかと言えばMead時代よりも多くのアメリカの支配階層というかアッパーミドル以上の人たちと業務上も個人的にも接する機会が著しく増えた。そのお陰で、彼らの一員として見たアメリカの上流階級の実際の姿を学ぶことが出来た。我が国とアメリカとの企業社会における文化都市交体系の相違を身を以て学び取ることが出来たのは、望外の幸せだった。その辺りの詳細は次回に譲ろう。


新型コロナウイルスに感染すると

2020-11-24 13:03:59 | コラム
生命の危機に襲われたと恐れたそうだ:

つい先頃、「多くの人が『自分の友人や知人乃至は周囲にウイルスに感染したという話を聞いたことない』と言っておられるにも拘わらず、今や全国的に第3波とやらで感染者が激増しているのはどういうことだろうか」と述べたのだった。この意味は別に「何方か経験談をお聞かせ下さい」とお願いした訳でもない。ところが、何としたことか、伝聞ではあるが信ずべき筋から「かなり恐ろしい経験だったと回顧された」という話が流れてきた。

経験者は50歳台半ばの独身者で、都区内で個人事務所を運営され、近所の自宅との間は言うに及ばす外出は全て車で、行く先に駐車場がないと解っている場合にのみタクシーか短時間公共交通機関を利用するという慎重さだったそうだ。しかも、COVID-19の蔓延以降は業務上の連絡や打ち合わせや会議等は時節柄ほとんどがリモートにしておられたそうだ。しかも、酒も煙草も一切嗜まないという言わばストーイックな生活振り。

ところが、4日連休の最初の日に例の37.5度の発熱があったものの、咳も痰も何もなく、単に発熱しただけなので仕事の疲れが出たのかと寝ていたら、いっこうに熱が下がらないばかりか38度を超え悪化していったので、承知していた電話番号に何度かけても通じることなく、近所の病院に電話してみたところ漸く繋がったが、連休中で内科医は居ないと断られたそうだ。その間に熱は下がっていなかった由。

連休が明けに再度近所の病院へ連絡してから出向くと、受付で名乗っただけで即刻PCR検査を受け、その日は帰宅させられたとか。翌朝に病院から陽性との連絡があって、その直後に保健所から3時間後に車が迎えに行くと連絡があり、そのまま区内の某大学病院に収容されたそうだ。その時点で既に「ヘロヘロ」で、ヤバイなと感じていたとか。諸々の検査の結果から「ウイルス性肺炎」と診断され、最初は4人部屋だったが個室に移されてレムデシベル治療を受けたとか。

保健所の聞き取り調査で回顧すると「発症前の数日内に所謂濃厚接触しただろう人は一人だけで、その人物は感染していなかった」という。即ち、感染源の特定ができなかったと言うことで、では、何処で感染したのかだが、一般論では「公共交通機関内ではマスク越しに大声で唾を飛ばして話し合っている例が少なく、感染する危険性は寧ろ低いとされている」と私は理解している。

治療法は、レムデシビルの点滴と免疫が暴れるのを止める為のステロイド剤の投与で、この辺りはトランプ大統領に行われた治療法と同じだったとか。ご当人は「この状態では果たして生き返れるか」と極めて不安だったと回顧されたという。2週間強で無事に退院できたそうだが、病院からは4週間は自宅待機が望ましいと告げられたという。感染症学会は2週間と言っておられるそうだ、念の為。

マスコミが最近云々し始めた後遺症は出たそうで、先ず声が思うように出なくなっていたことから始まり、一寸動いても疲労感が出てきてしまうこと、確かに一部で言われている視力の低下や抜け毛の傾向もあると振り返られたとかだ。ではあっても、この程度で命を取り留めたのであれば、それで十分だと言っておられるそうだ。要するに「勿論国家間の(ウイルスの性質の)差や、固体差は当然あるのだろうが、このウイルスは某国の大統領が決めつけられたほど簡単なものではるまい」というのが罹患者の語るところだった。

この話を聞いた87歳にして心不全という基礎疾患を持つ私は「どれほど注意して生活しても、注意し過ぎとはならないだろう」と痛感させられている。