新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月22日 その2 我が国のデジタル化

2021-09-22 14:20:31 | コラム
デジタル化って具体的にどういう事?:

昨日、国立国際医療研究センター病院の地下のセブンイレブンで、何年振りかで週刊現代を買ってみた。その訳は「その時刻から実際に外来で呼ばれるまでに、少なくとも1時間は待つ見込みだったから」だ。価格が¥530と言うのにも驚かされたが、レジスターではもう一寸驚かされた。係員はUPC(バーコードのこと)を読み取るだけで、後は「機械にお札と硬貨を入れてディスプレーのOKに触れなさい」と指示するだけだった。「凄いな。我が国最大のコンビニエンスストアだけあって、デジタル化が進んでいるな」と感心させられた。

今年の初めの、未だCOVID-19の感染の勢いが恐怖だった頃に止むを得ぬ用事で、覚悟を決めて人流が盛んな新宿駅西口に出掛けた。その際に用事を済ませた後で、折角ここまで来たのだからとユニクロで下着の在庫積み増しを図った。品物を選んでから支払いへと向かった。

会計機の所には女性が一人張り番をしていて、訳が解っていない高齢者に支払い方法を指導していた。そこでは機械に商品を置くと全てを読み取って「袋が要るか」と尋ねてくる。それを「ノー」にして指示された現金を置けば、決済完了でレシートが出てくる仕組みだった。勿論「何とかペイ」は受け付けて下さるようだった。「流石に世界のユニクロである。デジタル化をここまで進化させていたのか、長生きはするもので自分は世の中から取り残されている」と痛感させられた貴重な経験だった。

次なるデジタル化の経験はテレビのCMに誘われて、くら寿司とスシローに出掛けたときのことだった。デジタル化が進んでいて、席選びから支払いまで全て流れが出来ていたし、注文はタブレットでとなっていた。家内は「この儘にデジタル化が進めば、遠からぬ将来に単独では外食は出来なくなりそうだ」と恐怖感を露わにした。先日も紹介した新大久保駅前の中国人経営の四川料理店は流石に華為のタブレットで注文するようになっていた。

上記の一連のデジタル化(なのかな?)は、私には人件費の節約と注文を間違えた場合にはお客の責任に持って行けるような安全策としか見えなかった。スシローでは支払い方法を教えてくれた若い女性も「実は、初めて来ました。便利のようで面倒なのですが、その便利さは店側にとってのことと感じました」と、帰りのエレベーターの中で聞かせてくれた。

このように菅首相の優先度が極めて高いデジタル化政策は末端にまで浸透しているようだと、一向に感じてはいない。デジタル化先進国の韓国では「役所に引っ越しの申請をスマートフォンででもすれば、それに伴う全ての手続き(例えば電気やガスや水道の切り替え等々)は一瞬にして完了するシステムが構築されていて、引っ越しと同時に全てが運転開始」という記事を読んだ気がする。世界的な基準では、どうやらデジタル化とはこういうことを指しているようだと感じた。

そこで、我が国のデジタル庁である。私は先ずdigitalという英語を「デジタル」と表記してしまったことから「如何なものか」と思っている。如何なる辞書を見ても、発音記号通りにすれば「デイジトウル」がかなり近いのだ。故に、私はこれまで「デイジタル」と表記してきた。誰が最初に「デジタル」にしようと発議したのか知らないが、不正確だと感じている。似たような例に「マイケル」がある。Michaelの発音記号は「マイクル」なのだ。

President誌の10月15日号で大前研一誌がかなり手厳しくデジタル庁等を批判している。曰く“「トップのデジタル監には結局一橋大学名誉教授(経営学)石倉洋子氏が就任した。発足式で石倉氏は「私はデジタルの専門家でもエンジニアでもない。Pythonにもチャレンジしたが、今のところ挫折している状況だ」と発言し話題になった。デジタル庁のトップがデジタルについて理解していないのも問題だが、それ以上に問題なのは自分の役割を理解していないことだ”と指摘された。

大前氏は平井大臣についてもかなりきついことを言われていた。だが、私が気になった点は「大学の工学部でプログラミング教育を受けても(中略)米中印のようなスーパースターのような構想力を持ったエンジニアはなれず、日本独特の年功序列制度の端末に入ることになる」と批判されている点だった。こういう仕組みは徐々に改善され中途入社が増えてきたとは見えるが、アメリカ、インド、中国、台湾、韓国に後れている事実を見ると、年功序列制の弊害はあると思う。平井大臣、石倉デジタル監はこの辺りから改革される構想があるのだろうか。あって当然だろう。


カタカナ語物語

2021-09-22 09:11:48 | コラム
排斥でも批判でもないカタカナ語物語:

昨21日に暫く振りにテレビでその語りを拝聴した小池東京都知事は「感染がぶり返さないように不要不急の外出を控えて下さい」と要請しておられた。意外だった。と言うのは、これまでの小池さんの語りであれば「感染がリバウンドしないように」と来るはずだったものが「ぶり返す」という、言わば古典的な日本語を使われた点だった。まさか、当方の批判が聞こえた訳ではあるまいが、「どちらかと言えばreboundは面倒な使い方をされるで」と学習されたのかも知れない。

この単語は普通には「リバウンド」という発音なのだが、名詞となると「リーバウンド」と「リー」にアクセントを置いて「会社でも団体でもイメージを変えて再出発する」という意味があると、Oxfordには出ている。それほど小うるさい単語なのだ。だから「リバウンド」を回避されたのかと勝手に考えている。

私は「事ほど左様に面倒な英語の単語や表現を、何でもかんでもカタカナ語にしてしまうのは宜しくないのでは」と思っているので、今回はそういう疑問に感じた例を取り上げてみようと思うのだ。

*省略型:
「ヘリ」から行こう。一昨日だったか山中にヘリコプターが墜落したとの報道があった。新聞記事では何時も見出しは「ヘリ」だが、本文はヘリコプターとなっているのは解る。見出しでは字数に限度があるからだ。しかし、テレビのニュースで「ヘリ」という英語の世界にはない省略の形で語るのはおかしいと思う。全部「ヘリコプター」と言ったって時間を1秒も食わないだろう。私には不正確な言葉遣いだとしか思えない。アメリカの俗語にはchopperとなっているので、helicopterよりも3文字少ないだけだが、報道機関は「chopper」は使わないよ。

「アフガン」は以前にも指摘したが省略型であって、しかも言葉の誤用と念が入っている。英語のAfghanは「アフガニスタン人」か「アフガニスタンの言語」の意味でしかない。何方だったかネットで指摘しておられた事は「アフガニスタン」の「スタン」は国を表しているので、省略するのだったら「アフガニだろう」と。ここでも新聞でも雑誌ででも見出しは「アフガン」でも本文は「アフガニスタン」とフルネームだ。有識者の方々は無知なのか、あるいは報道機関に迎合されたかの何れかではないのか。

「インフル」は何度も揶揄した。正式には「インフルエンザ」であり、嘗ては「流行性感冒」であって「流感」に短縮されていたのだった。それが、カタカナ好きの報道機関の仕業かお医者様がそちらを望まれたのか、何とも珍妙な「インフル」にしてしまった。私は「これではinfluenceさんが『俺をどうしてくれるのか』とお怒りだ」と指摘した。マスコミの軽佻浮薄振りの表れではないのか。

「バスケ」と「バレー」にも疑問を感じる。嘗ては「籠球」と「排球」としていた。ところがであるbaseballは「野球」なのだが、マスコミはついぞ「ベースボール」でもなく「ベース」のような省略もしないのだ。私はマスコミが何も運動部の連中の真似をして「バスケ」などという表現に走ることはないと思う。「バレー」もまた奇妙なのだ。「バレー」と表記されているballetはフランス語の通りなので、私は時々何れのことを言っているのかと迷わせられる。短縮せずにvolleyballと言えば良いじゃないかなのだが、細かいことを言えばヴァリーボールなのだ。

ここで面白いのがvolleyなのだ。テニスなどで球が地面に落ちる前に打ってしまうことを「ボレー」と呼んでいるし、サッカーにも「ボレーシュート」なんて言うのがある。ところがである、volleyの発音記号を見れば「ヴァリー」となっているのだ。何の事はないローマ字読みしていたのだった。似たような例にAppleのSteve Jobsがある。あれは「ジョブズさん」ではなくて「ジャブズ」なのだ。先頃、生前のジャブズ氏と親交があった某大手メーカーの元副社長と語り合っているときに、彼が「ジャブズ」と言われたので初めて気が付いた。

この範疇に入るのはbodyの表記がある。「ボディーチェック」もある。即ち「バデイーチェック」であるべきだし、「ボデーブロー」もある。ずっと昔に職業野球と言われていた頃だったか「新人選手」(=rookieまたはrooky)を「ルーキー」としてしまった。「ルキー」だったのだ。これもbookと書いて「ブーク」と言うかであり、lookを「ルーク」と発音するかという問題だ。「パトリオット・ミサイル」というのがあるがpatriot missileを前者はローマ字読みし、後者は誤表記した。あれは普通は「ミスル」であり、誰かが「ミスった」のだ。

*表記の誤り:
私は英語の国には「クライアント」はいないが「クライエント」(=client)はいると思う。また、海上輸送に使う箱のcontainerは「コンテナ」か「コンテナー」ではないと思う。どういう根拠があって原語を無視した表記にしたのだろう。私が初めてラジオに出させて頂いた1996年に何気なく「キャジュアル」と言ったらキャスターさんに「カジュアルではありませんか」と怪訝な顔をされて、初めてカタカナの表記を知ったのだった。私はcatと書いて「カット」とは読まない気がする。

「アワード」も困ったものだと密かに怒っている。報道機関は平気で「何とか賞をアワードされました」とか「何とかアワード」と言っている。解りやすく言えばwarという単語を見て「ワー」と発音するかという問題だ。「アルミニューム」や「シンポジューム」も如何なものかという例だ。aluminumは「アルミナム」でありsymposiumはうるさいことを言えば「シンポウジアム」なのだ。ここまで来ると報道機関を責めるよりも、先人たちのローマ字読みに頼らねばならなかったご苦労を認めねばならないような気もする。

未だ未だ幾らでもあるが、今回はここまでにしおこうと思う。