新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

パラリンピックが終わった

2021-09-06 09:19:40 | コラム
何故報道機関はメダルの数ばかりを強調するのだ:

冒頭に言っておきたいことは「パラリンピック(オリンピックもだと思うが)は世界の障害者によるメダル獲得大会ではないのでは」と言うことだ。

私はサッカーのような団体競技の出身者なので、ついつい興味と関心の対象がそちらの方の種目に偏ってしまうが、兎に角テレビを点けたときに見ることが出来た種目は、どんな物でも十分に注意をして観戦するようにした。正直なところ「パラリンピック」については確たる先入観というか予備知識が無かったので、障害を持っておられる方々がどのように競技をされるのかの見当がついていなかった。

しかし、実際に色々な種目で「それほどの先天的な大変な障害を持っておられる方々が、そこまでの能力を発揮されるのか」と大袈裟に言えば驚愕させられたし「あの方々は偉いんだなー」とひたすら尊敬させられていた。「五体不満足」という何方かの著作があったが、そのような条件の方たちが健常者では及ばないのではと思わせられたほどの成果や成績を見せられたのは「感動」だとか「感激」などという通俗的な表現ではとても表しきれない衝撃に打たれていた。兎に角「素晴らしい」のだった。

私は「色々な大変な障害があるという悪条件の下に、これほど凄い成績を挙げられるまでに、どれほどの訓練とそれを支えた不撓不屈の精神力があったのかと、言葉にならないほど衝撃を受けていた」と同時に「我々の人体の能力には限界などないのかも知れない」とも痛感させられていた。

それにつけても思うというか、底が浅いのではないのかと感じたことがあった。それは「各種報道機関が何かといえばパラリンピックの競技者の成果を『メダルの獲得とその数』で表す姿勢」である。多くの世界一流の域に達しておられた方々は、勿論メダルとやらを目指しておられるだろう。だが、その競技者の中には障害を克服して国の代表として参加された方がおられるのではないか。彼らはそういう「参加できたことに喜びも満足もあるだろう」方々をも賞賛して然るべきではないのか、成績如何に拘わらず。

私は何度か彼らマスメディアが外国で開催されたオリンピックでメダル(何で3位以上の入賞者とは言わないのか)獲得者だけを選んで、帰国したときに空港で記者会見をするのを見させられた。私は「何と言う偏った物の見方であり、3位入賞を逃した選手たちへの侮辱ではないのか」と怒って見せたことがあった。今回のパラリンピックでも同じような奇妙な偏見を見せていたと思う。私はせめて「参加された選手の方々全員の活躍に金メダルを差し上げたい」くらいのことを報じても、バチは当たらないと思う。

最後に余談の部類の話を。私は昨日の男子の車椅子バスケットボール(彼らは何で「バスケ」などと縮めるのか)対アメリカの決勝戦を最初から最後まで「何とか勝たせてあげたい」との思いで見ていた。アメリカ代表は流石に世界の第1位の実力を見せて、4Qで勝ちに持って行って見せた。だが、そこには矢張り身長の優位さがあって「ここぞ」という時にパスを叩き落とされて「ターンノーバー」となってしまった。ここでも我が代表の善戦健闘振りを心から褒め称えたいと思う。彼らメダル偏執狂の言葉を借りれば「金メダル級」の感動を味わえた試合だった。