新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

高田純次の「じゅん散歩」から

2021-09-25 09:04:26 | コラム
時々思わぬ観光案内をしてくれる:

このテレ朝の朝10時前の番組は、高田純次の悪ふざけの軽口がイヤだと言って家内は見ていない。だが、私はその点さえ忘れられれば、高齢化しただけではなくて憎きCOVID-19の為に不要不急の遠征を禁じられてしまった現在では「また一度は見ておきたかった」か「生涯に一度は行ってみたかった」という類いの場所を見せて貰えるので、素直に言えば大いに評価しているのだ。

また、あの時間帯は丁度ブログの更新を終えて「さて、一休み」という時になるので、テレビの前に座っているのだ。先週は江ノ島を始めとして我が方が2度にわたって合計42年も住んでいた神奈川県藤沢市を歩くというので、興味と期待を持って見ていた。

江ノ島は我が家が藤沢に転地療養と疎開を兼ねて移り住んでから何度も遊びに行っていたのだが、2度目に住むようになった昭和42年(1967年)からは1~2度子供たちを連れていったくらいだったので、テレビに見る変貌振りにはただただ恐れ入っているだけだ。今では伊勢エビやサザエが名物だの何のと騒いでいるが、戦前や戦後間もなくの頃では、あの島では何も獲れずに千葉県から運んできていると聞かされていた。だから、オリンピックのヨット会場になったと報道されても「へー、知らなかった」と言うだけ。海水浴もあの島の向こう側で楽しんだものだった。

江ノ島の変貌はさて措き、高田純次が辻堂を散歩してくれたときには、ただただ「知らなかった。あれほど変貌していたのか」と驚き呆れていただけだった。辻堂駅の北側は凄まじいばかりに再開発され、言うなれば超近代的なとでも形容したい都会となっていたのだった。辻堂に行ったのは従兄弟の葬儀で20年ほど前だったかと記憶するので、あの鵠沼以上の別荘地帯だった辻堂の変わり方には、寧ろ呆気にとられていたのだった。

良く聞けば、どうやら駅の北側にあった旧住友金属(現日本製鉄)傘下の関東特殊製鋼の工場が、会社そのものが移転した跡地を中心にして何処かのデイヴェロッパーが再開発を手がけたようだった。21世紀の現在になって再開発されのだからこそ、戦前から戦後にかけての旧態依然たる非近代的な藤沢駅の両側と較べれば、これが同じ藤沢市のうちかと思うほど見栄えが良くなっていた。駅の海岸側には高校同期でサッカー部の仲間だった者の家に、一度だけ行ったことがある程度で何の記憶もないが、確かサーフィンだかの専門店が出来ていた。

この辻堂の例が示すように再開発の余地がある広い土地があれば話は別だが、戦後急に建て直してしまった古い町並みは最早簡単には手が付けられないだろうから、発展のしようがなくなり栄えて行きにくいように思える。渋谷のように特定の企業が手がければ話は別だろう。古き良き時代の町並みも大事だろうが、東海道線沿線には私鉄のようなデイヴェロッパーが再開発を手がけにくいような都市が多いように思える。だが、埋め立てと再開発を続けた東京都内の変貌を見せつけられると、果たしてそれが誰の為だったのかと、ふと疑問に感じるときがある。

話は変わるが、沖縄の普天間基地の移転問題を、今になって枝野がまた問題にすると言い出した。以前の写真を見せられると、あの基地が出来たときには周辺に個人の住宅などなかった。基地出現以後になってから人家が増えたという専門家がおられる。この世では後から来た者が新たな流れを作ってしまうこともあるようだ。我が家のアパート群の周辺には居住が開始された33年前には、Koreatownの気配すらなかった長閑で寂れた街だった。それが放置され再開発もされないままだったので、現在の体たらくでこの変貌振りだ。

誰の責任かは知らないが、再開発をされないと、新参者の為すがままのようになってしまうのだ。高田純次のお陰で「物思わされた」のだった。