英語教育従事者はおかしなカタカナ語は気にならないのだろうか:
私は長らく「カタカナ語排斥論者」を自称してきたし、カタカナ語の批判も展開してきた。だが、薬石効なくではなかった努力の甲斐もなく、おかしなカタカナ語の普及と濫用は止まるところを知らない。その勢いを見せつけられては虚しさを痛感していたが、正直なことを言えば最早諦めの心境に達して「面白い現象だ」とすら思うようになってきた。
そこで、不思議に感じている点を挙げてみよう。それは「我が国では文部科学省はいうに及ばず、政治家や学者先生たちまでが挙って英語教育の充実を叫び、国際人を養成する為に小学校から英語を教えようなどと困ったことを言い募っているにも拘わらず、まともな英語を学んだ人々は未だに少ないようで、英語を基にした誤った使い方や意味を為さないカタカナ語が粗製濫造されている現象」を言うのだ。英語教師の方々には「あのような珍妙な言葉が報道機関等で濫用されていることを何と思うのか。責任は感じないのか」と問いかけたいのだ。
昨日も何処かの週刊誌にチャンとした方が「キャプテンシー」というカタカナ語を使った一文を寄稿しておられた。言いたかった事は「キャプテンシップという主将としての統率力か指導力」のようだった。キャプテンシーでは「主将としての地位」の意味なのだが、誰だったかサッカーの解説者が気取って使った為に、この間違った言葉が定着してしまった。英語教師からその誤りを指摘したという話はついぞ聞いたことがない。リーダーシップという英語を基にしたカタカナ語もあるが「リーダーシー」はないのは何故だろう。
この解説者は他にも「スリッピー」という言葉を創造して「滑りやすい」を表現して見せた。罪あるテレビ局も他の解説者も追随して「スリッピー」を普及させた。実は、正しい英語はslipperyなのである。キャプテンシーと同様に「悪貨は良貨を駆逐する」のだ。
ここまでは、言ってみれば枝葉末節な言葉の誤用で、現在老若男女どころではなく政治家も有識者も専門家も学者も誰でもが国を挙げて使っているおかしなカタカナ語がある。この場合は今や取り返しが付かない次元に達しているので、私如きが批判する効果も意味もないのでただ黙って見ているだけだ。だが、私は如何なる事があっても「コロナ」だけは使うまいと固く心に誓っている。それは、「コロナ」がこれほど普及したのは、仮令間違っていようと何だろうと最早日本語として定着してしまったので、無駄な抵抗はしないことにしたということだ。
言うまでもない事で「コロナ」は「新型コロナウイルス」の良くある短縮形だ。類似品に「インフル」がある。だが、困ったことに新型コロナウイルスだと頭の部分を採れば「新型」になってしまうのだ。それで知恵者(なのかな?)がおられて「コロナに」と決められたのだろう。何度でも同じ事を言うが、新聞等の見出しに「新型コロナウイルス」とすれば文字数が多すぎるので省略形が必要になるのは理解できる。だが、テレビでアナウンサーでも誰でもが新型コロナウイルスと全部言って秒数を食って、CMの時間に食い込むことはないと思うのだ。無意味な省略だ。
面白いのはそれだけではない。“corona”とは広辞苑に「太陽大気の外層。皆既日食の際、太陽の縁から四方にぼやけて見える真珠色の淡光(以下略)」とある。英和辞典には「光冠;(太陽・月の)光環」とあることくらいは、多くの方はご承知だと思う。何処にも「ウイルス」の意味などない。このウイルスが光環のようになるからそう呼んだだけだと思う。私が初めてテレビで「コロナ」と言ったのを聞いたのは石原良純だった。面白い言葉の使い方をするなと感じたが、それ以来「コロナ」が新型コロナウイルスの代名詞となってしまった。
私はどんなカタカナ語を誰が使おうと、批判する活力も勇気も最早減退してしまったが、英語教師を始めとして誰もこの言葉の使用を窘めないのは凄い現象だと思っている。まさか、だれも「コロナ」の本当の意味を知らないとは思えないが、知っていて使っているのであればその無神経振りは異常だし、沈黙している英語教育従事者は何をやっているのかなと思いたくなってしまう。もしかすると、この辺りが日本語の融通無碍な点なのかも知れないが、私には言葉についての報道機関の図抜けた無神経振りには呆れる前に感心している。
一寸捻った見方をしてみよう。ここまででも十分に捻ってあるかも知れないがね。例えば「私の関心事の一つにコロナのリバウンドがある」という文章を英訳してみなさいと、外国人に依頼してみよう。もしかして“One of my concerns is the rebound of the corona.”となってしまうかも知れない。これでは意味を為さないと思う。屁理屈を続ければreboundには「ウイルス感染の再拡大」という意味はないのだが、既に「リバウンド」はそれを意味するカタカナ語として戸籍を得ているのだ。
私は遺憾ながら誤ったカタカナ語の普及を面白い現象だなど感じ始めた今日この頃だ。言葉は正確に使おうなどと吠えても虚しさを感じるだけだ。英語教育従事者の方々のご意見を伺いたいものだ。
私は長らく「カタカナ語排斥論者」を自称してきたし、カタカナ語の批判も展開してきた。だが、薬石効なくではなかった努力の甲斐もなく、おかしなカタカナ語の普及と濫用は止まるところを知らない。その勢いを見せつけられては虚しさを痛感していたが、正直なことを言えば最早諦めの心境に達して「面白い現象だ」とすら思うようになってきた。
そこで、不思議に感じている点を挙げてみよう。それは「我が国では文部科学省はいうに及ばず、政治家や学者先生たちまでが挙って英語教育の充実を叫び、国際人を養成する為に小学校から英語を教えようなどと困ったことを言い募っているにも拘わらず、まともな英語を学んだ人々は未だに少ないようで、英語を基にした誤った使い方や意味を為さないカタカナ語が粗製濫造されている現象」を言うのだ。英語教師の方々には「あのような珍妙な言葉が報道機関等で濫用されていることを何と思うのか。責任は感じないのか」と問いかけたいのだ。
昨日も何処かの週刊誌にチャンとした方が「キャプテンシー」というカタカナ語を使った一文を寄稿しておられた。言いたかった事は「キャプテンシップという主将としての統率力か指導力」のようだった。キャプテンシーでは「主将としての地位」の意味なのだが、誰だったかサッカーの解説者が気取って使った為に、この間違った言葉が定着してしまった。英語教師からその誤りを指摘したという話はついぞ聞いたことがない。リーダーシップという英語を基にしたカタカナ語もあるが「リーダーシー」はないのは何故だろう。
この解説者は他にも「スリッピー」という言葉を創造して「滑りやすい」を表現して見せた。罪あるテレビ局も他の解説者も追随して「スリッピー」を普及させた。実は、正しい英語はslipperyなのである。キャプテンシーと同様に「悪貨は良貨を駆逐する」のだ。
ここまでは、言ってみれば枝葉末節な言葉の誤用で、現在老若男女どころではなく政治家も有識者も専門家も学者も誰でもが国を挙げて使っているおかしなカタカナ語がある。この場合は今や取り返しが付かない次元に達しているので、私如きが批判する効果も意味もないのでただ黙って見ているだけだ。だが、私は如何なる事があっても「コロナ」だけは使うまいと固く心に誓っている。それは、「コロナ」がこれほど普及したのは、仮令間違っていようと何だろうと最早日本語として定着してしまったので、無駄な抵抗はしないことにしたということだ。
言うまでもない事で「コロナ」は「新型コロナウイルス」の良くある短縮形だ。類似品に「インフル」がある。だが、困ったことに新型コロナウイルスだと頭の部分を採れば「新型」になってしまうのだ。それで知恵者(なのかな?)がおられて「コロナに」と決められたのだろう。何度でも同じ事を言うが、新聞等の見出しに「新型コロナウイルス」とすれば文字数が多すぎるので省略形が必要になるのは理解できる。だが、テレビでアナウンサーでも誰でもが新型コロナウイルスと全部言って秒数を食って、CMの時間に食い込むことはないと思うのだ。無意味な省略だ。
面白いのはそれだけではない。“corona”とは広辞苑に「太陽大気の外層。皆既日食の際、太陽の縁から四方にぼやけて見える真珠色の淡光(以下略)」とある。英和辞典には「光冠;(太陽・月の)光環」とあることくらいは、多くの方はご承知だと思う。何処にも「ウイルス」の意味などない。このウイルスが光環のようになるからそう呼んだだけだと思う。私が初めてテレビで「コロナ」と言ったのを聞いたのは石原良純だった。面白い言葉の使い方をするなと感じたが、それ以来「コロナ」が新型コロナウイルスの代名詞となってしまった。
私はどんなカタカナ語を誰が使おうと、批判する活力も勇気も最早減退してしまったが、英語教師を始めとして誰もこの言葉の使用を窘めないのは凄い現象だと思っている。まさか、だれも「コロナ」の本当の意味を知らないとは思えないが、知っていて使っているのであればその無神経振りは異常だし、沈黙している英語教育従事者は何をやっているのかなと思いたくなってしまう。もしかすると、この辺りが日本語の融通無碍な点なのかも知れないが、私には言葉についての報道機関の図抜けた無神経振りには呆れる前に感心している。
一寸捻った見方をしてみよう。ここまででも十分に捻ってあるかも知れないがね。例えば「私の関心事の一つにコロナのリバウンドがある」という文章を英訳してみなさいと、外国人に依頼してみよう。もしかして“One of my concerns is the rebound of the corona.”となってしまうかも知れない。これでは意味を為さないと思う。屁理屈を続ければreboundには「ウイルス感染の再拡大」という意味はないのだが、既に「リバウンド」はそれを意味するカタカナ語として戸籍を得ているのだ。
私は遺憾ながら誤ったカタカナ語の普及を面白い現象だなど感じ始めた今日この頃だ。言葉は正確に使おうなどと吠えても虚しさを感じるだけだ。英語教育従事者の方々のご意見を伺いたいものだ。