新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月13日 その2 人事(総裁選挙)を見ていると

2021-09-13 15:12:05 | コラム
外野が「これは」と期待した人は選ばれないものらしい:

飽くまでも一般論だが、私は20年以上もの間、アメリカの会社で対日輸出を担当していて、その視点から我が国の会社の人事を見ていて「外野から見てこの人物こそは出世するだろう」と見込んだか評価した方が、期待か見込みの通りに事業部長や取締役に選任された例は少なかったと思うのだ。それは、その「彼こそは」と見込んだ人物が、社内(党内)における上からの査定や評価では案外に低く、期待外れと言うか眼鏡違いに終わったという意味だ。

一方のアメリカの会社組織では「我が国のように新卒で採用された者が段階を経て入社年次も反映させて、段々に地位と肩書きが垂直上昇するような世界ではない」のである。それこそ、ある日突然に何処か他社からスカウトされた者が登場して「我こそGeneral managerなり」と名乗り就任の演説を打ったりするとか、何の前触れもなくいきなりIvy League等のビジネススクールのMBAを引っ提げた若者が、自分の上司に着任したりする世界なのだ。

我がW社でもこういう事が屡々起きたが、「彼のような者が何時か上司に着任されたら嬉しくないな」と思っているような、上層部に受けが良い者が選ばれてハーバードの短期コースなどに派遣されて箔を付けて戻ってきて「副社長兼事業部長」に就任することがあるものだ。但し、アメリカの会社には我が国のような査定や評価の記録を持っていて人事を決める組織、即ち人事部はないのだ。人事は飽くまでも事業本部長の権限であるので、人事部の仕事はその記録を取っているだけなのだ。この点が我が国との大いなる文化の相違だ。

前置きが長すぎたかも知れない。私が採り上げたかったのは自由民主党総裁選挙の件である。現時点では石破茂氏は「出るだろう」とか「今回は見送りか」等の憶測だけなので、立候補者は3名だ。お節介な報道機関は鍵を握ると言われている党員に聞き取り調査などをかけて「河野太郎氏の人気が最も高い」などと報じている。私は何度も言ったことで「自由民主党の内部の選挙であり、我々は有権者でも何でもない。ただ黙って成り行きを見ているだけで良い」のだと思っている。まして、党員がこのような調査に惑わされて欲しくない。

しかし、一言だけ予想めいたことを述べておけば「自民党の総裁選挙は我が国の明日とは言わないまでも近い将来の命運を左右しかねない政治家を選ぶので、自由民主党の議員さんたちと党員の方々には薄っぺらな人気投票のようにならないように、真剣に候補者の人格と政見の品定めをして貰いたい」のである。既に述べたように、一般人の目から見て「これは」と見える人が最善の選択かどうかは解らないのだ。

単なる声が大きい人気者を選ぶような結果になって欲しくはないのだ。言うなれば「立候補を表明したかと思えば、それ以前の信念を曲げるような人が評価されて良いものか」と怖れているのだ。この辺りは表現に苦労したので、要点がぼけてしまったのではないかと懸念している。

「英語の発音」を論じてみれば

2021-09-13 10:25:33 | コラム
我が国の英語教育の欠陥の一つが「発音の教え方」である:

先日、「英語という外国語の世界の考察」を発表した際に、発音については別途論じるとしたので、今回はその発音についての私独自の見解を述べていこうと思う。私は永年「発音が良いことは七難隠す」と主張してきた。そう言う意味は「我が国で英語を教えられていては発音は正確にならないし綺麗にもなれないし、native speakerの発音とアクセントには付いていけなくなりがちだ」と指摘しているのだ。

私が英語に初めて接したのは昭和20年(1945年)に、当時は敵性語だった言葉を旧制中学の1年生として教えられたときだった。この時の私の幸運は「その人生初の英語の先生は両親のどちらかがアメリカ人だった方で、本当のアメリカ式発音を教えられたこと」だった。喜代田先生はアルファベットの各字の発音から教え始められただけではなく、thやrやlやfやv等まで細かく発音され、我々生徒たちはそれを真似るだけだった。先制は繰り返して教えられたが、多分その通りに出来た者は極めて少なかったと思う。今にして思えばnative speakerに教えられたのだった。

その次の幸運がGHQの日系アメリカ人の秘書の方に英語で話すというか「英語で自分の思うことを言えるようなるよう」厳しく教え込まれたことだった。この秘書の方に発音を直されたことはなかったが、それは恐らく喜代田先生の教えが守れていたからだと考えている。ここで肝腎なことは「如何にして本当の発音を真似するか」なのだ。だが、自分の発音が綺麗なのか、正確なのかなどは、実際に外国人の世界にでも入ってみなければ分からないと思う。

私は他人の英語の発音が綺麗か正確かなどと意識したことなどなかった。だが、何時の頃からだったか“there”が「ゼア」だったり、“this”が「ジス」で“that”が「ザット」となっていることとか、“Thank you.”が「サンキュー」(=sank you)になっていると気が付いたのだった。「これはおかしい。何でそうなるのか」とは思ったが「それでは宜しくないのでは」などと指摘する気はならなかったし、特にウエアーハウザーに移ってからは、そんなことにかまけている時間と心の余裕などなかった。

ウエアーハウザーに移ってからアメリカに出張して英語だけで過ごす時間が年間の30%を超えるようになって気が付いたことは「thの発音を繰り返すので舌の先が痛くなったことや、fとvの音の為に下唇が痛んでいたこと」だった。この事実で発音が正確だと自慢するのではなく、それが英語と日本語の違いであると言うこと。更に、wの発音の為に普段使わない筋肉を使うので、顔付きが徐々の変わってきたことも知ったのだった。

実は数年前に「英語の発音」と題して下記のように論じていたので、ここに要点を取り上げて再録してみよう。

>引用開始
私は貴方が話している英語を相手が「綺麗だ」と感じさせる為には「発音が(native speakerたちに近くて)正確で美しいこと」を第一に挙げたくなる。その先にある英語での表現乃至は説明の内容の質までを判定することは別な次元のことになるので、ここでは詳細に論じることはないと思う。

私は以前から我が国の英語教育における数々の問題点の一つに「発音」があると指摘して来た。後難を恐れずに論じれば「そもそも英語の先生方の発音がローマ字的且つカタカナ語的な点にあるという点ではないのか。私は幸運にも最初にnative speakerそのものの先生に教えられたが、そうでなかった場合には本当の正確な発音を知る機会はないだろうと見ている。私はだからと言って正式に外国人で英語を教える資格を取っていないようなnative speakerに教えさせるのは危険極まりないと思う。

それは、native speakerを採用するに当たって、学校側にアメリカのどの地域の英語が正調であるか、UKにはCockneyがあって“I came here today.”が「アイ・カイム・ヒア・トウダイ」と発音すると承知しているのかという問題があるのだ。更に言えば、アメリカには南部訛りもあれば東海岸独特の早口もあると承知しているのかと言うことだ。また、次のような笑うに笑えないエピソードもあることを紹介しておこう。

こちらに赴任してきていたアメリカ人の奥方に家庭教師を依頼した家庭で、その奥方が“cow”を「キャウ」、“counter”を「キャウナー」と発音したのを聞いて、即座に契約解除したという話だ。それは「ほら見ろ。アメリカの英語は下品だ」と決めつけられたのだった。だが、上記のように英連合王国にはLondon cockneyがあるし、オーストラリアで最も一般的な挨拶“Good day, mate.”は「グッド・ダイ・マイト」となる例が多いのだと認識しておくべきなのだ。

私は我々にとって英語の発音を困難にさせるその最大の理由の一つには「英語には日本語にはない音や顔の筋肉の使い方があるし、“th“のように舌の先を少し噛んで発音する例や、“l”だの“r”のように舌の使い方が難しい発音もあれば、“f”と“v”のような下唇を噛む音もあという独特の発音」という点だと認識している。これらの他にアメリカの英語独特のアクセントだのイントネーション(抑揚)や連結音があるのだから、これらの点をチャンと教えられていないと「何を言っているのか、早過ぎて聞き取れなかった」となってしまうのだ。

<引用終わる

畏メル友RS氏によると綺麗な発音が出来る者が多い韓国でも「ハングルの文字では表現に限度があり、ハンバーガーという表示は出来ないので、ヘンボゴになってしまう」のだし、私も実際にソウルで経験したことは「メックスウエルのコピー」というのに出会ったが、それはMaxwell Coffeeであり、これ即ち韓国訛りの英語なのだろう。それだけではない。韓国語には英語と似たような連結音まであるのだ。

それは「5千ウオン」の「オー・チョン・ウオン」はお仕舞いのnと次の母音を連結させて「オチョノン」に聞こえるように発音させるのだ。私が再三取り上げてきた英語の例には“turn over”がある。これはnとoを連結させて「ターノーヴァー」のようになるのだが、アナウンサーたちはチャンと「ターン・オーバー」と言っている。

我が国では上述の英語独特の発音を克服出来ていない先生方が最初に教えておられるのだから、学んでいる方がそれ以上にnative speakerに近い発音になる訳がないのだと危惧するのだ。だが、繰り返して強調して来たことは「問われるべきは発言の内容」なのであり、発音の美しさでも正確さでもないと思う。良い例を挙げれば、1994年7月に故宮沢喜一元総理が大いに語られたパネルディスカッションでの発言をその場で聞いたことがあった。宮沢元総理の発音はカタカナ語的だっただが、内容の質は誠に高く恐れ入って聞いていたものだった。

確かに発音は正確で綺麗であるのの越したことはない。だが、その壁を越えた英語力を備えた方には仕事の場以外でも何人かにお目にかかっていた。でも、私は「発音が綺麗なことは七難隠す」と主張してきたし、個人指導した商社の若手にもそう教え込んだ。発音を綺麗で正確にする為には、最初に英語を教えられた先生が何処まで正確で綺麗な発音が出来ているかに懸かっているのだ。私の場合の幸運は、その最初の先生がnative speakerで、完璧なアメリカ式発音を聞かせて下さったことだった。英語にはWell begun is half done.と言う諺があるように最初が肝腎なのだ。

繰り返しになるが「では最初にnative speakerに教えて貰えば良いのでは」などと錯覚しないことだ。問題は「本当の正調のアメリカ式発音や、Queen’s Englishの発音や豊富な語彙を持った者がわざわざ我が国に英語を教えにやってくるか」と言うことだ。私が知る限りのアメリカの支配階層の人たちは正確で品格がある英語で語るが、そう言う人たちが英語教師になろうとこちらに来た例を知らない。私は本当のウットリさせられるような美しいQueen’s Englishで話す英連合王国の人には、数人しか出会ったことはない。

では、誰に教われば良いかだが、それは理想的には英語でしか仕事が出来ない世界で長い年月を過ごされたビジネスマンで、陳腐な表現を使えば「練達熟練の士」にお願いすれば良いのだと考えている。だが、残念ながらそういう方々で教員の免許を取っておられる方は本当に少ないと思う。