新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月9日 その2 英語という外国語の世界の考察

2021-09-09 08:46:10 | コラム
英語とは異文化の国の言語である:

*英語とは何かを正しく認識すべきであること及びその教え方の問題点:
先ず断っておくことは「我が国の学校教育における英語の教え方が大変宜しくないと言うか、後難を恐れずに言えば間違っている為に、我が国民の英語能力の水準が一向に上昇しないのは非常に残念である」という点だ。

私が次に指摘したいことは「英語とは我が国の固有の文化(“culture”のことで、ある特定の集団の言語・風俗・習慣・思考体系を意味する)とは全く異なる外国の言葉である」という事実だ。「このような違いがあることを無視して英語を教えているのだから、容易に身に付く訳がない」と認識するべきなのだ。私は今日までにこの点を繰り返して主張してきている。

英語の教師が認識し尚且つ考える必要があることは「学校教育の何処かの時点で(高校までの間であるべきで、大学では遅すぎる)この相違があることを教えておく必要がある」点である。具体的に相違点を挙げておくと「日本語の思考体系は英語のそれとは全く異なる事」である。即ち、「日本語の考え方は英語には通用しない」と、教える方も学ぶ方も承知しているべきなのだ。

私は上記のように経験上も認識しているから「我が国の学教教育のように、児童や生徒の優劣の差を付ける為に『科学としての英語』を恰も数学のように教えていては、良い結果を生じない。即ち、英語で思うように自分が考えていることを言えないようになる」と、長年主張してきたのだった。即ち、我が国の学校教育における英語の教え方が「実用性に乏しい」とか「外国に行って全く通用しなかった」批判され、嘆く声が多いことの原因になっているのだと断じるのだ。思考体系が異なる言語の国の人たちに、日本語の発想で語りかけても「通じない」事態が生じるのは当然だなのだ。

その点を無視して「単語」だの「文法」だの「英文解釈」だの「英作文」だの「英会話」などのように生き物である外国語をバラバラにして教える英語教育を続けていれば、それぞれが相互に連携するようにはならないので、実用性に乏しくなるのは当然の結果ではないか。(実は、自己矛盾かも知れないが、ここに学校での英語教育に是非とも付け加えたい項目があると主張するのだ。それは「発音」である。この件を語れば長くなるので別の機会に論じることにするが、英語を学び始めるときに正確に正調の発音を教え込む必要があるのだとだけ言っておく。)

例えば、最近まで実施されていたと聞く「入試センター試験」なので「ここの単語のアクセントが来る位置に印を付けよ」などという愚かな問題を出しているから、何時まで経っても実用性が出てこない訳だ。私は単語のアクセントなど気にしたことがなく、聞こえてきたままに記憶したか、解らなければ辞書を見てアクセントのつけ方を確認しただけだ。第一に、こんな事が完全に答えられるようになる事が英語力というか表現力の向上に繋がる訳がないではないか。

私はアメリカの大手製造会社でアメリカの会社の中で日本向けの輸出額がボーイング社に次いで第2位の座を守ってきたウエアーハウザーの日本駐在マネージャーとして22年半もの間我が国向けの輸出を担当してきた。その間に仕事で総計約50回も我が国とアメリカの間を往復してきた。そして、アメリカに到着する度に「また、この異文化の国に来てしまったのだ。この瞬間から頭の中のギアを英語にシフトしなければならないのだ」という緊張感で自分自身を引き締めていた。

その異文化と異言語に対応していく為には「頭の中を空にしてというか、頭の中を英語に切り替えて、仕事でも何でも全てを英語だけで考える態勢を整えて置かねばならなかった」のだった。この切り替えは到着当日には完全には終わらずに、翌日の朝までを要していたものだった。何故切り替えが必要かといえば、本社の我が事業部の本部に入れば、そこから先は帰国するまでは当たり前のことだが、完全に英語だけしか通用しない世界であり、英語の思考体系でなければ仕事にならないのであるから。

簡単に言えば「我が国の会社組織とは全く異なる世界で彼らの一員として行動する以上、我が国の会社におけるような物の考え方は通用しないし、日本語の思考体系では上司や同僚たちと意思の疎通(意見の交換や打ち合わせや会議における報告等々の意味)は成り立たない」のだ。この切り替え(例えて言えば『ギアの切り替え』だ)はアメリカの文化に馴染んで消化できるまではそう簡単なことではなかった。

次に考えるべきことは「我が国の会社とは何処が違うのか」である。この点については再三再四述べてきてある。ここにあらためて幾つかの例を挙げて解説して置こう。その違いの典型的な例に事業部長(General manager。GM)の存在がある。GMは「事業本部長であり、恰も会社を経営するかのように、営業と販売促進、総務、経理、人事、管理、製造、企画等々の全ての分野の責任者であり、絶対的な権限を持っている存在」のである。彼または彼女は絶大な権限を持って事業部を運営していくのであり、アメリカ式思考体系の二進法的思考体系で物事を進め且つ処理していくのである。あらためて指摘しておくと二進法的思考体系とは「イエスかノーか」であり「やるか、やらないか」であり「白か黒か」で決断して行くのだ。

仕事の進め方も我が国の会社組織とは全く異なっている。それは近頃「ジョブ(job)型」(とんでもない表現で、英語の発音通りに表記すれば「ジャブ型」であるべきだ)が脚光を浴びているが、それはアメリカでは「部員たちがそれぞれ上司から与えられた『職務内容記述書』=job description)に従って仕事を進めるのであり、その内容に同じ組織内の誰とも重複することがないようにできている」のだ。その意味するところは「各人の主体性と判断に基づいて仕事をするのであり、部員間で相互に助け合うこともなければ、同僚の担当分野に手を出すことなどは基本的にあり得ない世界」なのである。

事業部内には基本的には我が国のように「部下」はおらず、概ねGMの下に全員が横一線で並んでいるのだ。多くの製造企業では先ず新卒を定期採用する仕組みなどなく、GMが必要に応じてその判断で即戦力となる人材を中途採用して事業部を構成するのだから、同期入社などというものも存在しないのだ。極言すれば、秘書だけが各マネージャーを助けてくれる世界だと思っていれば間違いないだろう。念の為に確認しておくと、中途入社ばかりの組織だから「先輩」も「後輩」もいない世界なのである。従って、全員の年俸等の待遇も違うので、年俸の多寡を同僚と比較することにはほとんど意味ないのだ。

これだけでは不十分だろうから、他の文化の違いの一例も挙げておけば「英語の世界では個人的なことを訊き出そうとすることは非礼に当たる」という我が国と大いに異なる習慣というか文化があるのだと承知しておく必要がある。簡単に言えば「これから何処に行くのですか」とか「日本に何をしに来たのですか」とか「結婚していますか」などは、その範疇に入る好ましくない個人的な情報についての質問で「余計なお世話だ」と無視されるか嫌な顔をされるだろう。即ち、“None of your business.”と言われるのが落ちだ。

*アメリカ人には日本人が英語の如何なる点で悩むかなど解らない:
ごく普通のアメリカ人たちには「日本の人が英語を学ぶときに、どういう点が理解出来ずに悩み且つ苦しんでいるか」などが解る訳がないのだ。拙著「アメリカ人は英語がうまい」で採り上げたように、私は39歳にもなって生まれて初めてアメリカのサンフランシスコ空港に降りたって、乗り継ぎ便を4時間も待たねばならなかったときに、こういう経験をした。

それは機内で知り合ったアメリカ人に偶然に再会して、“I will buy you a drink.”と誘われて、何の事か理解できずに当惑したのだった。私はその時点ではそれがアメリカ人の間ではごく普通に使われている「一杯おごるよ」という口語的な表現だとは知らなかったのだった。

アメリカに行って現地の同僚や一般人たちと日常的に語り合うとか、転進して入った会社で仕事する場合や、彼等と寝食を共にする機会が生じると、こういう種類の学校では先ず教えていない口語体や慣用句や俗語等が当たり前のように出てくるものなのである。それに馴れるまでは、何を言われているかが解らずに、戸惑い且つ苦労させられるのが当たり前だと覚悟しておくと良いだろう。

このような “buy you” を「おごる」という意味に使う発想は我が国の英語教育にはないのだから、悩ませられるのは当たり前だろうと思っている。因みに、プログレッシブ和英には 「おごる」という意味でShall I treat you a drink?という例文が載っている。「おごる」という時のアメリカ人の言い方には、他には“I will be the host.”や“Be my guest.”などという表現もある、念の為。

また、アメリカに初めて入った数日後にM社の本社の管理職のオフィスにいたときに「コーヒーを飲むか」と言われて「イエス」と答え、秘書さんに “How do you take it?” と尋ねられて困惑した。それは「コーヒーカップから飲むに決まっているのに、何故そんなことを尋ねるのか」一瞬悩んだからだ。だが、そこで想像力を発揮して「砂糖とクリームは要るのか」と尋ねていると思って「ブラックで」とお願いして正解だった。アメリカ人たちは我々がこんな事で悩むとは想像もしていないだろうと思う。ある程度以上英語に慣れていたはずの私でも、初めて経験した表現だった。

これも何度か採り上げたことがあった翻訳家の誤訳の例を挙げよう。それは「アメリカ人たちが仲間内でごく普通に使う口語の表現である babyの使い方を知らなかったようで犯した誤訳」だった。訳文は「本社の赤ん坊である」となっていた。ここではbabyは「仕事、責任で処理すること」という意味で使われていた。後で原書で調べららIt’s a headquarters’ baby. “となっていた。序に他の例文を示しておけば “Hey, that is your baby. None of mine.”などのように使われているのだ。この場合の“baby”は「君の(責任である)仕事」を意味している。即ち、彼らの中で日常的に過ごしていないと、出会うことがない表現なのだ。こういう言葉遣いや“idiomatic expressions” 等は良く覚えておかないと苦しめられるので要注意だ。。

上記のbabyのようなの例は私が常に強調してきたことである「アメリカ人乃至は native speakerに英語を教えられることには余り意味がない」ということの説明になっているのだ。彼らは我が国の学校教育でこのような口語的な言い方や慣用句や俗語を教えていないなどとは知らないのだから。

即ち、我々日本人に英語を教えようとするアメリカ人を始めとする外国人たちは「我が国における英語教育がどうなっているかを十分に弁え、尚且つ文化の違いにまで精通しているのではない」と承知しておくべきなのだ。そこまで承知している外国人かアメリカ人などが滅多にいる訳がないのだ。経験からも断言できることで、彼等が「日本人が如何なる問題に悩んでいるかなどを承知している訳がない」のである。かく申す私でさえ“I’ll buy you a drink.”と“How do you take it?”で悩んでしまったのだから。

私が好んで用いる表現に「支配階層にある人たち」というのがある。かれらは富裕な名家乃至は良家の出身で、概ね東部のIvy Leagueのビジネススクールで最低でもMBAを取得している、所謂エリートたちである。我が国に来て英語を教えているアメリカ人たちが、そういう知識階級の連中と意思の疎通を図れるような英語を教えられるような者は先ずいないと断言しておく。そういう学歴を持ち、高い能力がある者が、わざわざ英語教師等を志して我が国までやってくるかということだ。来る訳がないだろう。

発声法が違う:
少し異なった角度から英語の本当の難しさを考察してみよう。ここまでのことに気が付いておられる英語の先生がどれだけおられるのかと、私は危惧するのだ。私は「英語と日本語の大きな違いの一つに発声法がある」と経験から認識している。日本語には大きく口を開けて話す言語ではないが「英語は口先と言うよりも『腹の底から』の発声をする言語である」と言えば解りやすいかと思う。

私はアメリカに出張してその英語式の発声になるまでに、余程アメリカに馴れてからは半日もあれば十分だった。だが、当初はその発声法の違いを把握できず、何故あのような音吐朗々たる声で話せるのかと独り密かに悩んでいた。この発声は英語の表現とは性質が異なっているので、簡単に真似が出来ることではなかったのである。簡単に言えば「日本語では大きく口を開けないが、英語を口の開け方も大きいし、感覚的に捉えれば腹の底から声を出している」と感じていた。

この相違点については何時か機会があれば詳しく述べようと思うが、英語の発音は日本語とは使う顔の筋肉が、例えば“w”などがあるのも大いなる相違点の一つだと指摘しておこう。

この発声の違いだが、私は電車の中などで英語圏の者が乗っていれば直ぐに解る。それは、当初は日本語とは波長が違うのかと思っていたが、実際のところでは音域が日本語よりも高いのだとの結論に達した。因みに、中国人同士が話し合っていると騒がしく聞こえるのだが、中国語の音域も同様に高いようだ。私はその違いが発声法にあると考えている。

結び:
私も何時の間にか彼らの中で過ごす時間が長くなったお陰で、筋肉の使い方を「習うよりは馴れろ」で覚えたというか、真似ができるようになってはいた。その結果として戦後間もなく蔑むかのように言われていた「二世面」になってしまったようだった。即ち、筋肉の使い方の違いがもたらした変貌だった。だが、その顔付きは獲得形質に過ぎないので、英語での生活から離れれてしまえば、元の顔付きに戻ったし、英語で話しても元の日本語式発声に戻ってしまったようで、一寸だけ残念だった。

私は重要なことは「そのアメリカ人並みの発声法を目指すことも必要であるが、文法的にも正しく且つ品格が備わった、何処に行っても恥ずかしくない英語で、自分の思うところが言えるようになるように勉強することが先決問題である」という考え方を、あらためて主張し強調して終わる。


40歳を過ぎたら自分の顔付きに責任を持て

2021-09-09 08:24:36 | コラム
中部大学武田邦彦教授が指摘されたとか:

上記の件名は何処の何方が唱えられた説かは知らないが、非常に説得力があると思っている。それ故に、39歳でアメリカの会社に転じてからは、常に自分の顔付きがどう変化してきたかには、それなりに注意してきたつもりだった。

渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」誌上で、北村維康氏が武田教授の説を引用されて「自民党総裁選挙の候補者(未だ出るとは言っていない者も含めて)の顔を見よ」と論じておられたが印象的だった。私も以前から渡部亮次郎氏の盟友だった故大谷英彦氏が主張されていた「顔相学」を尤もだと考えていたので、何気なく彼ら自薦他薦の候補者たちのご面相を見ていた。

そこで気が付いたことがあった。それは、世論調査的には人気が高く、政治評論家からはどちらかと言えば疑問符が付けられている河野太郎氏(行革担当大臣というのかワクチン専任というのか知らないが)が有力候補のようである。

そこで、河野太郎氏の顔が正面からテレビの画面に大写しで登場することが増えた。そして、ハタと気が付いたことがあった。それは、太郎氏は父君である例の河野談話で甚だ評判が悪い河野洋平氏とは違って非常に個性が強く、決断力があり、イージスアショア中止の決定のような独断専行もするし、英語も上手いし、菅首相の信任も厚く、次代を担うに相応しい逸材かと思わせてくれれていた。

ところがである、血は争えないもので、似ていないとばかり思って見ていた太郎氏の顔付きは、矢張り洋平氏に非常に似てきているのだった。そこで閃いたことは理屈でも何でもなく「こりゃ、期待外れ(誰の?)になるのかも知れない」だった。特に派閥の長である麻生太郎氏と4回だったか面談を重ねていた結果か、マスク着用で表情は確認できないが、目つきには明らかに力が無くなっているように見えるのだった。

自由民主党の総裁は我々一般人が投票して選ぶものではないが、河野太郎氏の顔付きが示すように、我々は候補者(予定者も含めて)の顔付きをテレビの画面を通じてでも綿密に観察して、何方が次期総理・総裁に最も望ましいかを判断していれば良いのかと考えている。