新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月14日 その2 大谷翔平が気の毒に思える時もある

2021-09-14 14:41:01 | コラム
大谷翔平に「ホームラン王を取れ」などと無闇に騒ぎ立てるな:

午前中にテレビをNHKのBSに回すと、必ずと言って良いほどLA エンジェルスの試合の中継放映をやっている。だが、事はそれだけには終わらずに「本日の大谷翔平の全打席」を見せてくれる。大谷翔平君がこのようなテレビ中継の録画を見て反省材料にしているかどうかは知らない。だが、もし見ていなくても、あれほど過剰に騒ぎ立てて過大な期待をすれば、有形無形に大谷に圧力をかけてしまうことになりはしないかと、独り密かに案じている。

それでなくとも、当方は「大谷翔平君はオールスターゲームの添え物的だったホームランダービーとやらに出るべきではない」と主張していた。理由も述べてあったが「あのように振り回す打ち方をするのでは、そこまでに効果があった(ホームランを量産できた)折角の打法を崩してしまう結果を招来する危険性が高いと見るから」としてあった。

果たせるかなとは言いたくないが、オールスターゲーム後の大谷のホームラン量産の速度は著しく低下した。私は「そら見たことか」と嘆いている。11日(土)にテレ朝の番組に毎週のように出て大谷を語り褒めちぎっている金村義明ですら「引っ張一本の打法になってしまって、前半戦では片手でも逆方向のレフトスタンドに放り込んだ打ち方が出来なくなっている」と指摘してホームランダービーの悪影響を指摘していた。私もあのレッドソックスのホーム球場で「グリーン・モンスター」の上を軽々と越した打ち方を見ていた。

その後では、エンジェルスの試合の解説をしていた山下大輔(慶応大学出身で横浜にも在籍)も「あのように引っ張るだけの打ち方になったのでは・・・」と、言うなればホームラン王への赤信号を灯して見せた。彼だったか金村だったか記憶は怪しいが「大谷の打率が低いのは、ホームランを狙うバッテイングをしていれば、打率は上がらないもの」と言っていた。私は技術的には尤もな指摘だとは思って聞いたが、彼も含めてマスメディアの空騒ぎが過ぎるので、上述のように大谷に要らざる負担をかけているだけだと思っている。

因みに、誰が指摘したかは覚えていないが、こういう話があった。それは「イチロー君は最多安打やリーデイングヒッターを狙う打撃をしなければ、ホームラン王だって獲得できるかも」だった。

そう言う理由は他でもない事で、大谷の今シーズンのこれまでの働きは「凄すぎる」し「素晴らし過ぎる」のであって「あれ以上の何を望むのか」と言って良いと思う。彼らは103年前だったかのベーブ・ルースの記録を破るのどうのと、ここでも騒ぎ立てる。だが、あの頃の野球の質と現代の科学的且つ合理的な運動選手の鍛え方が進歩した以上、記録的にも大谷とベーブ・ルースを比較することにどれほどの意義があるのかなと思ってしまう。

現実を見れば、アメリカのMajor League Baseballで投手と打者の両方を兼務して(言いたくもなるが「二刀流」って何だ。意味を為していない)軽々と160 kmの速球を投げてくれるだけに止まらず、ホームランだって40本を超えて打って見せたではないか。これ以上彼に何を望むのか。何で数字に拘泥するのか。大谷以外に碌な投手がいなくて、救援投手たちが大谷の勝ち星を幾つ消したか。

ある解説者は「コンペテイターのゲレーロJr.とやらのテイームは、彼に前後に強打者が多くて敬遠する訳に行かず勝負するから、つい打たれてしまうのだ」と言っていた。報道機関の者どもは良く考えてから騒ぎ立てろ。大谷のエンジェルスに彼と並び立つような打者がいるのか。大谷を歩かせれば次打者と勝負しても何の心配もないようなのだ。

大谷がかかる悪条件を背負っていると記者たちはテレビ局が承知していない訳がないだろう。それにも拘わらず「大谷はホームラン王になれるか」というように番組を作り上げて、無邪気な視聴者を誤解させないようにすべきではないのか。視聴率の為には何でも良いとばかりに、大谷を道連れにしようとしているとしか、私には見えない。わたしはもしも大谷がホームラン王を捕獲り損なったらボロ滓のように言われないかと心配しているのだ。彼らマスメディアの連中は我が国から出た希有な人材を大事にしようと肝に銘じていて然るべきだ。


近頃私が気にしていること

2021-09-14 09:40:27 | コラム
兎角この世には気になる事が多いのだ:

*自分の文章:
以前にも嘆いたというか反省したが、ここ10年ほどの自分が書いた文章を読んで「面白くも何ともないし、1990年春に生まれて初めて業界の専門誌に連載の機会を得た頃の(余所様が言って下さった)「軽妙さ」や「気軽に読める」ような面白さの欠片もないではなくて下手くそだ」と嘆いている。そう解っているので、何とかして「昔」を取り戻そうと懸命の努力を続けている。だが、ブログのアクセスなどは無残なほど伸びないのは、何を暗示しているのかと怖れているのだ。

横尾忠則という画家なんだろうと思う方が「5歳の時の模写が最高到達点で、そこからずっと下手になってきている」と一見衒っているかのような回顧談(反省の弁か)を、週刊文春の対談で述べておられた。「なるほど。あれほど知名度が高い人でもそう言うのか」と思って読んだ。その表現に従って回顧すれば、現在の私には「受けて見せよう」とか「なるほど。この人が言うのならばと読ませよう」とかいう具合に入れ込むというか「我ここにあり」のような慢心があるのだろうと反省し悩んでいる。

即ち、「アメリカ人は英語がうまい」の基となった連載の頃のような無心であり、受けようなどと考えていなかった姿勢を忘れてしまったようなのだ。と、ここまで書いて「こんな事を言うのは矢張り慢心かな」と一層萎縮してしまうのだ。

*おかしなカタカナ表記の氾濫:
「また、そんなことを言うのか」などと言わずにご一読願いたい。先ほどニュースで「マーガリンが6%(だったか)値上げ」と報じられていた。マーガリンが我が国に入ってきたのが何年前か知らないが、その時にmargarineという単語の発音をキチンと調べておけば、こんな妙な表記にならずに済んだと思う。これは、実は「マージャリン」と発音するのだ。アメリカ人の発音を聞いていると「マージリン」に近く聞こえることもあるが。製造元に「何て読むのですか」と訊けば良かっただけのこと。何、「そういう英語が解らなかった」ってか。

次に「アフガン」に行こう。これは既に取り上げてあるが、ダメ押しだ。この「アフガニスタン」を「アフガン」と表記するのは、今を遡ること40年近くもの昔にソ連が攻め込んだときから「アフガン」として報じられていた。私は「自分には関係ないこと」と見ていたので「アフガニスタンをアフガンと略することは、世界的に通用しているのな」程度に受け止めていた。そして、今回はアメリカも引き上げる次第で「アフガン」が再びまかり通るようになった。

何がおかしいと言うと「新聞や雑誌は何で『正式にはこの國の名称はアフガニスタンですが、我々の勝手な都合でアフガンと表記することをご了承下さい』と言っておけば、何でもなかった」のだ。この世には有識者は沢山おられて、ネット上ではチャンと「アフガンとするのは誤りである。Afghanはアフガニスタン人とアフガニスタンの言語の意味」と辞書にあると指摘した上で、アフガニとする方がより正確」と出ている。それでも、彼らが「アフガン」を捨てないのは、今更後戻りできないのだろうと見ている。

もっとおかしい事がある。新聞や雑誌では見出しは「アフガン」となっていても、本文は「アフガニスタン」になっているような矛盾を恬として恥じていないことだ。この矛盾を結構な有識者の文章にも散見されるが、あれは編集者か校正部が職権濫用でもしているのだろうか。新聞ではアフガニスタンのように文字数が多いと見出しに使えないので短縮するのは解るが、テレビで語るときには縮める意味はないと思うよ。

事の序でにスペイン語系統のおかしさをも挙げておこう。何年前だったか忘れたが、スペインを旅してセビリアに行ってフラメンコを鑑賞する機会があった。その時に「アレッ」と思ったことがあった。それは地名のSevillaは現地では「セヴィジャ」と言っていることだった。スペイン語は全く守備範囲にはないので後で調べてみれば、この言語ではll(エルが二つ)の綴りの場合の発音は幾つもありセヴィリアでもセヴィジャでも良いとあった。故にと言うか何と言うか「セヴィーユ」とも言うそうだ。我が親愛なるメディアは「セヴィリア」を採用したようだ。

河野太郎氏と石破茂氏:
記憶違いでなければ、数日前のPrime Newsに出た石破茂氏は「河野太郎氏と組む」とは言っていなかった。だが、先ほどから石破氏は昨夜河野太郎氏と会談して連携する方向になったと報じられたかと思えば「出馬しないとの意向を固めた」とも流されるようになった。では、あのPrime Newsでの断言は何だったのかと思わせられる。彼は短期間に考えが変わるような人なのかと驚いている。

一方の河野太郎氏は世間での人気が最も高く、最有力候補であるが如くだ。昨夜のPrime Newsでは読売新聞の橋本五郎氏は「記者会見で『総理になった場合に官房長官と幹事長に誰を選ぶのか』と尋ねられて答えがなかった」と、かなり厳しい事を指摘していた。また、先ほどのニュースでは「総理になったときに石破氏の協力を依頼した」と語っていたのは、実に興味深い仮定の話だと思って聞いた。まさか「石破さん。貴方を取り立てますから、立たないよう宜しくお願いしますよ」というような、カタカナ語に言う「メッセージ」かと、矢張り気になるのだ。