習近平は「北京の冬季オリンピックを成功させる」と公言したが:
私は「成功」の定義を「恙無く終わらせること」とした。その点から見れば、北京の冬季オリンピックでは1週間経ったところまでで「恙無く」ではなく「恙」が少しばかり多過ぎてはいなかったかと見ている。
中国が主催者であり、IOCもバッハ会長も協賛しているだけである以上、バブル方式等々でウイルスが北京市内等の泡の外に出ていかないように厳重以上に管理しているのは、敢えて問題にしたくないが、「如何なものか」と思わせる「恙」の事例が目立つのだ。
施設としては人工の雪が固すぎて転倒が多いとか、スケートリンクの氷の質に疑問があるとかいう問題点は「参加した全選手が同じ条件で試合をする」以上は論うべきではないと思うので、「恙」とはしない。だが、羽生君は右足が効かなくなるまでに痛んだ程深く切り込まれた跡を修復しなかったのは、主催者側の管理の手落ちかも知れないという気もする。羽生君がその不運を自分の所為にしてしまったような姿勢は立派だったと思うが、さぞかし悔しかったことだろうと察している。
ここから先は「おかしい」と真っ向から指摘したい「恙」の例である。
第一はスケートボードHPの決勝の平野歩夢君の2回目の試技に対する判定である。この競技における出来映えを判定する基準など知る由もない私でさえ、あの直前のスコテイー・ジェームスの試技と比較すれば、平野君に点数の方が低かったのは納得出来なかった。後難を恐れずに言うが「あれは嘗てヴァレーボールや水泳で、日本のテイームや選手が勝った直後に上部の国際協会がルールを改悪して、日本の選手に不利にしたと同じ手法か」と閃いたのだった。いや、素人以下の私にも「おかしい」としか思えなかった。
平野君は穏やかな語り口で「あの判定には怒りが」と控え目に言っていたのは「日本人の美徳である謙譲の表れであり、潔さだ」と感服して同情していた。敢えて「白人国」と言うが、その連中のメデイアでさえもあの判定に疑問を唱えていたのだ。審判員の構成を知りたくなった。
第二は高梨沙羅さんが「失格」という犠牲になったスーツというのかユニフォームなのか知らないが、着衣の寸法の計測法を変えてしまった検査員には限りない疑問を感じたし、不行き届きだと断じたい。ここにも「恙」があった。変更するのであれば、事前に通告するのが“fair”だったと言いたいのだ。彼らの弱点は「それはフェアーではないぞ」と突っ込むと黙ってしまう事なのだ。高梨さん以外にも、ヨーロッパとオーストラリアの選手も失格となったが、何となく無理矢理の帳尻合わせかなとすら感じた。
その「不公平だ」などと言いたくなる検査方法の抜き打ちの変更に対して、我が国から高梨沙羅さんが犠牲になった測り方の問題で、国際協会だったかに出した抗議(なのだろう)の書面をテレビの画面で見て「あれじゃー、何にもなるまい」と思わずにはいられなかった。そこには、何かを一所懸命に丁寧に述べられていたが「何が言いたいのか」が端的に出ていなかったのだ。言うべき事は「あの突然の変更はおかしい。早速改善して従来の方法に戻すべきで、高梨の失格の取り消しを要求する」とでも言わない限り、彼らが動く訳がないのだ。
私はあの書状は「我が国独自のロマンである感情論」の範疇を出ていないと思う。敢えて「欧米人」とするが、彼らの感情を損ねてはなるまいと気を遣っているのだと読めるが、無用な遠慮に過ぎない。遺憾ながら、この種類の日本人同士では通じるかも知れない気配りと謙りの低姿勢は、二進法的思考体系の一神教の信者の者どもには理解されない意思表示に過ぎないのだ。その訳は「何が言いたいのかが不明で、議論がグルグル回っているだけで、何処まで行っても核心を突いてこないから」なのだ。
私は彼らの側の一人として交渉の場にあって何度も経験していたから「あれでは通じないのでは」と言えるのだ。こういう考え方の違いは、彼らの物の考え方と常に直面して「なるほど。彼らはこう考えるのか」を本当に理解出来ていないと、説得は難しくなるし、論破も出来なくなってしまう危険性が高くなってしまうのだ。何度でも同じ事を言えば、国際場裏では「論争と対立を怖れてはならない」のだ。彼らがあの書状の行間や裏面を読むとは思えないのだ。