新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月14日 その2 ワクチン接種反対論者が

2022-02-14 16:28:56 | コラム
信仰上の理由で接種を拒否する者がいるのだ:

海外から「カナダやフランスでCOVID対策のワクチン接種を拒否する者たちが抵抗して、騒ぎを起こしている」とのニュースがある。私はこれを聞いて「そういうこともあるのか」程度にしか受け止めていなかった。だが、その抵抗運動が簡単には終わらないようなのを見せられて、思い出したことがあった。

それは、アメリカの元の同僚が「アメリカでは信仰上の理由で接種を拒否する者たちがいる為に、接種の比率が上がらず感染者が増える原因になっている」と伝えてくれていたことだった。

すると、週刊文春だったかで、池上彰氏がそのコラムで「なぜ接種を嫌うのか」を解説していた。同氏は“宗教的信念からです。ワクチンを接種するのは「神の御心」に反すると考えるキリスト教保守派の人たちです。”と指摘していたのを知った。これで、上智大学での教養課程で必須であり苦手だった宗教学の教えを思い出したのだった。因みに1951年のことだったが、当時は1年の課程で宗教学を落とすと嫌も応もなく落第だったのだ。

普通に我が国のように(仏教や神道に基づく日常的な行事が非常に多いにも拘わらず)無宗教と誤解しておられる方が多い状況下で育ってきた者たちが、いきなり外国人のカトリック教の神父様の教授が過半数を占めていた当時の上智大学に入ってきて、馴染みが薄かった宗教学を厳格に教え込まれても、容易についていけなかったと思う。しかも、その世界の三大宗教等を全般的に取り上げて教えられる中で、キリスト教の神観念などを教えられても、理解するのは簡単なことではなかった。

その核心の一つは確か「人の命を決める事が出来るのは神(God)のみ旨だけであり、人が勝手に自殺などをすることは許されていない」だった。従って「妊娠中絶」などはこのみ旨に従えば許されざる行為なので、アメリカでは「妊娠中絶」(=abortion)を巡って激しい対立があるのだ。池上氏は「神の御心」と表現しておられたが、私はより厳格に解釈して「神のみが人の生死を司っておられるのだ」と解釈してきた。故に、キリスト教の信者の中ではワクチンで神のみ旨に反して勝手に命を守ろうとするのを認めないのだろうと考えている。

我々は「神は存在すると思うか」と訊かれても、直ちに「はい、存在しておられます」などと答えられないだろう。私が永年親しくしてきたある博識の編集者は「神の存在を云々しようとしたりすること自体が誤りであり、彼らに接する時には、存在しておられることしかあり得ないと思っていないと」と喝破された。しかも、一神教の信者たちは皆と言って良いほど二進法的にしか物事を考えないのだから、ワクチン接種がみ旨に反するか否かで考えれば「反するのだから接種しない」と割り切っていくのだろうと思っている。

現在、アメリカやカナダやフランスで起こっている反対運動というのか反対論者の存在は、上述のような理由から一朝一夕には終わらないだろうと考えている。私はこの程度の理解は示すが、自分の命が大事なので、嬉々として第3回目の接種を去る4日に受けた。今ではワクチンの効果十分に発揮されるだろう18日の到来を楽しみに待っている。

なお、念の為にお断りしておくと、上智大学は所謂「ミッションスクール」(正しい表現はmissionary schoolだが)ではなく、河野太郎元大臣の出身校であるGeorge town Universityなどと同じカトリックのイエズス会が運営する大学である。私はカトリックの信者でもなく、在学中の4年間に一度だけ往年の木造建築だったイグナチオ教会の中に入ったことがあっただけだった。


審判という仕事を考えて見よう

2022-02-14 09:30:57 | コラム
これも北京の冬季オリンピックでの「恙」の一つではないか:

スキーのジャンプに於ける着衣の寸法の測定法:
この件は高梨沙羅さんのみならず、ドイツその他の国の選手たちも失格と判定されたので、事が大きくなってしまった。私にはこの件の実態というか問題の核心が何処にあるのか解らないが、検査に至までの事の運び方がfairだったとは思えない。

その辺りを捉えたのか、共同通信社が問題の検査員(フィンランド人)ミカ・ユカラ氏(Mika Jukkara)に質問状を送ったが、その答えは“「現在のルールにのっとって行われた」と検査の正しさを強調した上で、女子の検査への直接的な関与を否定した。”そうだった。私には彼ら白人たちの文化と思考体系から考えれば、ごく当たり前の責任回避であり、当然の否定的回答に過ぎないとしか思えなかった。

それは「彼らの物の考え方というか思考体系では、如何なる事があろうともと言うか、彼らに非があることは誰が見ても明らかであっても、彼らが自らその点を自発的に認めるか、それに基づいて謝罪することなど先ずあり得ないのである」から。この点は我々と言うべきか我が国の美徳である「潔く自らの非を認めること」などあり得ないのが彼らの文化であり、相違点なのである。これまでに何度も指摘してきたことで、彼らの思考体系には“I am sorry, It was my fault.”のように謝罪して、金銭的補償も含めて全責任を負うと表明することなどないのだ。

精一杯善意で考えれば、共同通信社たる組織がこのくらいの彼我の相違点を認識していなかったとは思えないが、そうでもして公にしないことには、ユカラ氏に事の重大性を認識させられないとでも考えたのだろう。飛型点などと言って、審判員の主観で判定しているような競技に突如として主観ではない判定をすることが矛盾ではないとでも国際協会が認識しているのだったら、それもまた問題だろうと思う。考え直させるべき事だ。一度くらい蹴られて、諦めて引っ込んでいては駄目だろう。

ハーフパイプの判定の基準:
あの平野歩夢君の2回目の試技の判定に対しては各方面から疑義が唱えられ、平野君自身も疑問を呈していた。私は現代のようなAIが普及し、そもそも自動車などという名称になっている“automobile”を自動運転にしようという時代にあっては、あの空中高く跳び上がる姿勢の判定には、少なくとも一定の基準が設けられているか、人工知能が判定しているのかと思っていた。ところが、現実は審判員の主観(好き嫌い?)に一任されていたというのだ。それでは良くないだろう。

審判員も人である以上、色々な誘惑だってあるだろうし、特定の選手に対しては個人的な感情だった左右することなど絶対にないとは言えない気がするのだ。私は大学の頃に公式のリーグ戦に担当するはずだった審判員が現れなかったので、自分たちの試合が終わった後で主審を引き受けざるを得なかったことがあった。あの広いサッカーのグラウンドを駆け回って判定するのだが、人の影になって見えなかった反則もあれば、その場まで駆けつけられなかったことだったあった。人が出来ることには物理的な限界があるということ。

あの競技にどれほどの歴史があるか知らないが、平野君のような言うなれば超人的な技術を備えた選手を、一時代前の選手だった者が審判員となって判定するのには、無理があるのではないのか。このような「審判と」いう仕事に求められる能力と技術は、何時の日か人の目や感覚では追い付かなくなるのではないだろうか。平野君を筆頭に我が国やアジア系の選手の優秀さが立証された以上、国際の連盟の委員にもアジア系というか東洋人も加わる必要があるのではないか。何時までも彼らの支配の下にあるべきだろうか。