新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

Englishは英語とは違う

2022-02-26 09:33:41 | コラム
Englishは英語とは違うし日本語とも違う点にご注意を:

ロシアが始めてしまった事の深厚さと重大性を考えるのも面白くないので、何時も余り受けないのが残念な、英語ではなかったEnglishの話をしてみようと思うに至った。

私がここでEnglishとしたのは「我が国の学校教育で扱われているのは科学としての英語であり、Englishとは別の物だ」と考えているからだ。その違いはBaseball と野球の違いにも似ていると思うのだ。

私は戦後間もなくの13歳の頃から同年齢層の人たちよりもEnglishに慣れ親しんできたと思っていた。大学でも非常に不真面目が学生だったが、英文学科だった。但し、当時の上智大学の文学部英文学科とは小説家や文学青年を養成するような教え方はしていなかった。例えば、Shakespeareの勉強となると「この作家とは」を箇条書きにして分析して解明していくのであって、“To be or not to be. That is the question.”に酔いしれている暇など与えられなかった。今にして思えば「文化が違っていた」のだった。

基礎を固めておくこと:
その私が17年弱のEnglishとは無縁の会社員生活を終えて、本当に偶然と運命の悪戯で遠ざけていたEnglishの世界であるアメリカの紙パルプ林産物メーカーに転職してしまったのだった。しかも、それだけの年数離れていたEnglishでの、Mead Corp.の副社長でミード家の当主とのインタービューには殆ど何の苦労もなく終えられていたのだった。敢えて自慢話をすれば「子供の頃に正しく基礎を固めておけば、長い間の空白期間があってもその力は残っていた」ということ。古い言い方にすれば「三つ子の魂百まで」辺りが応用出来るだろうか。

だが、インタービューくらいは切り抜けられたとしても、現実にアメリカの大手メーカーの中に入って日常的にEnglishのみで意思表示をするというか、上司に口頭で報告し、報告書を書き、市況報告などを毎月のように本部に提出するとなると、Englishにすれば“Story is different.”だったのだ。私は企業社会で通用する言葉を知らなかっただと解った。

文法の厳守と綴り:
上智大学では自ら英語学の権威と言われた千葉勉先生に厳しく教え込まれた「文法を間違えるのは自らの無教養振りをさらけ出すこと。知識階級には受け入れられないので厳守せよ」というようなことは文学の世界だけだと思っていた。ところが、一流企業の世界にあっては文法の誤りもそうだが、綴りを誤記することなど絶対といて良いほど許されていないのだった。

いや、千葉先生よりもきつい世界だった。また、私は仲間内で語り合うような語法は心得ていたが、究極的にはCEOまで上がっていくかも知れない報告書などには絶対にあってはならないことだと知った。我が国の上場企業においても同様な厳格さがあると思うが、ここで問題になるのは日本語ではなく異国のEnglishの力量だから、話が違うのだ。この点は幸いにも日系人でワシントン大学のMBAのJ氏に親切丁寧且つ厳しく指導されて改良出来たのは幸運だった。

自分の意見を発表せよ:
では、何がどのように違うのかに触れていこう。先ずは「口頭でも報告書にしても伝聞は許されない」と言うこと。具体的には我が国の英語教育に出て来る「itを先行させてthatで受ける構文」であるとか“They said that ~.”や“I was told that ~.”のような第三者の意見を伝えること」は許されないのだ。私が迂闊にもこの表現を使った所、副社長に「自分は君から第三者の意見を伝え聞かされる為に5,000マイルを飛んできたのではない。この件については君の率直な意見を聞きたい」と叱責された。

何事についても個人の能力に依存し、個人の主体性を重んじる人たちであるから、仮令自分の意見が間違っているかも知れなくても、それを正面から主張するのがアメリカのビジネスの世界の習慣というか文化なのだ。であるから、学校教育の場に於いてもこのような彼らの文化を教えておく必要があると言いたいのだ。

妥協はあり得ない世界:
次は言葉だけの問題ではない事柄。それは「彼らの文化には妥協はないという事」である。即ち、彼らの交渉では「相手に自社の主張を完全に受け入れさせるか、事前に完璧な論旨を組み立ててからその場に臨み相手を屈服させるか納得させるかしかない」のである。勿論、相手側の主張も聞くが、その中間を採って決めるとかいう類いの妥協はないのだ。

折り合わなければ、私のアメリカの会社転出の切掛けを作って頂けた日系カナダ人のN氏が言われる“Don’t feel bad. Come and see us again”と言って握手して散会するのだ。彼の日本語では「気悪うせんとまた来いや」なのだ。この辺りは情緒的な日本人には中々出来ない芸当だとN氏は指摘していた。

曖昧な表現は通用しない:
その延長線上にあるのが、曖昧な言い方は通用しないと言うこと。ある時のことだった。こちらに来ていた上司から命じられた「面倒な時間と手間がかかる市場調査」に「そんなことをして何処まで効果があるのか」だが、やらない訳には行かないと思って“I will try to see what I can do about it.”と言った所「それはやる気がないと言ったのと同じだ」と叱られて“I will be sure to get the job done.”と言えと言われた。そして実行した。この両者の違いを良くお考え願いたい。和訳すれば解ることは「こんな面倒なことが簡単な単語ばかりで言えていること」なのだ。

簡単で易しい単語を使って:
最後は「Englishでは易しい単語だけで難しいことが表現出来るのだ」とのもう一つの例。それは、嘗ては我が社の製品は最大のcompetitor(それは同じアメリカのメーカーだった)の物よりも印刷適性(印刷が美しく上がること)が劣っていて、再三再四多くの得意先から改善の要求を突きつけられていた。遂には最大の取引先に期限付きで改善を迫られた。その場にいた営業担当の本社のマネージャーは、いとも簡単に“We will get there. Please don’t worry about our capability.”と言ってのけたのだった。

ここでは“We will get there.”で「やり遂げます」という意味になるのだ。この辺りに「getとmakeとhaveを上手く使えれば殆どのことが表現出来る」という話が出てくるのだ。それは確かだが、それで話が通じるのは前後の文脈にもよると思う。Englishでの表現の大原則は「簡単というか易しい単語のみを使って平易な文章を書くよう努める」なので、これなどはそれに当て嵌まっていると思う。即ち、「社内で社長にまで上がるかも知れない報告書でも、小難しい文語的な言葉を多用しない方が良い」ということなのだ。