新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月18日 その2 習近平主席はこの状況でもオリンピックは成功だと言うのだろうか

2022-02-18 16:16:06 | コラム
15歳の少女を追い詰めてボロボロにしたのは誰だ:

これまでの所、IOCではなくて中国が主催している北京の冬季オリンピックでは、私が言う「恙」が連日のように発生している。私はその中から既に審判員の質というか疑惑の判定と、高梨沙羅さんを失格にした着衣の検査を「恙」の一例に挙げた。だが、一部の新聞や週刊誌が問題にしている疑問点は遙かに多岐にわたっている。その中でも際立っているのが、昨日の女子のフィギュアスケートで最有力の優勝候補だったミカエラ・ワリエワさんが何度も転んで4位だったことだろうと言いたい。

IOCの失態:
IOCは既にWADAのドーピングの検査の結果に基づいて、ロシアを国としての出場を禁じてあった。そこに、遅ればせながらワリエワさんの昨年12月だったかの検体からも禁止薬物が発見されていた。それならば、前例に従って彼女を出場禁止にすべきだったにも拘わらず、IOCはロシアからの抗議に屈してCASに任せて逃げてしまった。その責任回避の姿勢を私は既に批判しておいた。私はIOCが即刻禁止の措置を執っておけば、あのような可哀想なことにはならなかったと思っている。

ところが、CASは年齢を理由に出場を認める判定を下してしまった。ところが、その前後からマスメデイアはこの件を大きな話題にして報じてしまったし、練習の前後にワリエワさんを追い回していた。彼らは15歳の少女に、彼らは正当な取材だと言うだろうが、彼女にとっては途方もない圧力となっただろう攻勢をかければ、カタカナ語に言う「メンタル」がズタズタにされてしまうことくらい解っていたはずではないのか。私は彼らがそこまでやるとは予期していなかったので、ワリエワさんがあれほど無残なスケーテイングをするとまでは読み切れていなかった。

ロシアの監督・コーチ陣の失態:
私には彼らは何とかしてワリエワさんを試合に出させて確実視されていた「金メダル」とやらを獲らせる手柄を立てたかったのだろうと推測している。本当にそういう気があったのならば、何故もっとしっかりと15歳の少女を守ってやらなかったのかと疑問に思っている。いや、その前に「出場させない決断が出来なかったのか」と責めたいのだ。尤も、デイリースポーツによれば、あの試合後に泣き崩れていたワリエワさんを取り囲んでいたコーチたちは「何故ちゃんと出来なかったのか」と責めていたのだとあったが。私は論外な態度だと思う。

バッハ会長の責任転嫁:
ここもデイリースポーツの報道に基づいている。バッハ会長はワリエワさんがあのようにスケーテイングが乱れてしまったのは「ロシアのスケーテイングテイームの管理職の不行き届きである」と所謂「スタッフ」の責任に転嫁しているそうだ。私も監督とコーチを含めたスタッフの責任であるという点は同感だ。

だが、私は「看過出来ない重大な問題点はドーピングだったとの検査結果が出た時に、時間の無駄をせずに出場禁止の断を下せなかったIOCと会長様の責任は何処に行ったのか」という点を問題にしたい。私の永年白人の世界にいた者として言いたいことは「バッハ会長がこの期に及んで、他者の問題点を責めることで、自己の責任回避を図っているのではないのか」なのだ。

更なる推理を展開すれば「そういう事を言う以上、バッハ会長は自らの責任を感じているのではないか」となる。この件も主催国である中国には責任は及ばない気がする。でも大いなる「恙」だろう。


悠仁様が筑波大附属高校にご進学

2022-02-18 09:11:36 | コラム
「筑附」ではない「附属」だ:

悠仁様が「筑附」に進学されると賑やかに報道されている。それ自体は結構なことだとは思うが、私には「筑附」と呼ばれているとの報道には違和感を禁じ得ないのだ。それは、私(我々?)のように東京市に生まれ育った昭和一桁の世代では、あの学校は「東京高師附属」であり、通称は「附属」なのだからだ。

21世紀の現代に東京高師などと言っても通じないだろうから、先ずは記憶を辿ってみる。教育の専門学校だった東京高等師範学校が東京体育専門学校と合併して当時の東京文理科大学(後に東京教育大学を経て現在の筑波大学)に包含されたのだと理解していた。そこで、Wikipediaで確認してみると、1949年に東京農業教育専門学校も同時に併合されていたのだった。

戦前は小石川区に住んでいた私にとっては、当時でも「附属」は非常に格が高い学校で憧れの存在だった。私が卒業した大和郷幼稚園からも何人かが「附属」に進学していったと記憶している。その小学校の角張った制帽とそこに付いている白房と赤房が特徴的だった。世間一般ではどのように認識されていたかは知らないが、私は附属とは「公達」(キンダチ)の学校だと思っていた。それほど高い家柄の子弟が多いという認識であり、学業成績優秀な人たちが集う学校だったのは言うまでもない事。

ここから先は「附属」と私との個人的な関連性を振り返っていこう。その関係は湘南中学の蹴球部から始まった。我が校が神奈川県の強豪校だったのと同様に、附属中学(後に高校)も東京都の雄で、関東大会や国民体育大会の関東予選等々で覇権を争っていたものだった。また多くの両校の出身者たちが関東大学一部リーグで選手として大活躍したし、オリンピック代表にも何名かが選ばれていた。

記憶は多少あやふやだが、私が昭和26年(1951年)に高校を卒業する前から、附属と湘南のサッカーには定期戦が組まれていたと思う。更にこの定期戦が両校の間で全ての運動部間での定期戦に発展したのだった。偉そうに回顧すれば、我々の世代までは附属との試合は常に大接戦だったが、負けた記憶はない。私の附属との縁は高校卒業の次の年までで切れていた。それは、大学1年生として定期戦の後のOB戦に顔を出したからだ。

その附属とのご縁は1994年に思いがけないことで復活したのだった。それは、私が光栄にも日本製紙連合会のご依頼で、その広報誌に寄稿して連載された「我が国とアメリカの企業社会に於ける文化比較論」を読まれた某製紙会社の代理店の社長をされていたSO氏が「会って話が聞きたい」と連絡してこられたのだった。O氏とは日本の会社の頃に取引関係があって、面識があったと言うこと。

そこで、それこそ30年振りかで再会し語り合っている時に、O氏が附属のご出身だと知ったのだった。因みに、O氏は製紙業界に身を置く者であれば誰でも承知しているべきである現代風にカタカナ語でいえば「レジェンド」的な経営者のお孫さんだった。その会談の中でO氏が私の学校年齢で2年上の附属のご出身だと伺ったのだ。そこで、戦前に我が家の向かいに住んでおられたMNさんも附属だったと申し上げると「貴方はN君を知っておられるのですか。彼は大親友で今でも毎月昼食会をやっているので、是非参加して下さい」となったのだった。

そして、3人の「B級グルメの会」が始まったのだった。そこでは毎回場所を変えて開催し、予算は必ず1人当たり¥5,000以下で、割り勘とすることだった。その会では言うなれば森羅万象を語り合ったのだが、改めて知り得たことはと言えば「附属」出身者の格の高さまたは誇り高さと絶対と言って良いほど偉ぶらない、驕り高ぶることなどない人柄だった。特に、Nさんは高検の検事さんと言うお家柄で、私よりも1学年下の弟さんがおられ、その弟さんは上皇様が学習院初等科の頃の「ご学友」に選ばれていた。

ここでお断りしておきたいことがある。それは「本稿は私の自慢話ではなくて、往年の「附属」にはこういう家柄の子弟が多かった優れた学校であるという点である」なのだ。筑附が悠仁様に学習院のような「ご学友」制度を設けるのかどうかなどは解らないが、筑附ではどのようにされるのかなどと考えている。

残念ながらO氏は11年前に、N氏は3年前に亡くなってしまった。「筑附」と聞いて、ついつい回顧談をしてみたくなった次第だ。